4-2 分からない
翌日になっても、ミアのレポートはほとんど進まなかった。
昨夜は図書室が閉まる時間まで粘り、寮へ戻ってからも借りてきた本を読んだ。歴史学の方はどうにか書き出しらしきものを三行ほど作ったものの、読み返してみれば、ただ北部諸侯紛争について教科書に書かれていたことを並べただけに見える。
問われているのは、その後の王権強化と現在の地方統治制度への影響だ。
そこが分からない。
法学に至っては、まだ一行も書けていなかった。
翌日の授業も、やはり難しかった。
教師の言葉を必死にノートへ書き写す。昨日調べたおかげで分かるようになった言葉もあったけれど、その分だけ新しく分からないことが増えた。
昼休みになった頃には、ミアはすっかり疲れていた。
食堂からの帰り道、隣を歩くアレクサンダーを見る。
「あの、アレク様」
「ん?」
「昨日出た法学の課題、もうやりました?」
「いや。今日の夜やろうと思ってる」
「あれ、分かります?」
「まあ……たぶん?」
頼りない。
それでもミアは少し迷ってから、自分の席へ着くとノートを取り出した。
「ここなんですけど」
「今?」
「ちょっとだけお願いします」
アレクサンダーは苦笑しながらノートを覗き込んだ。
「領主裁判権と王権の関係について、過去三代の法令改正を踏まえ……これか」
「はい。第三次法令改正で王家の裁定権が広がったのは分かるんです。でも、指定事例だと領主側にも裁定権がありますよね?」
「あるな」
「じゃあ、どっちが正しいんです?」
「どっちっていうか……」
アレクサンダーが課題を読み直した。
「場合によるんじゃないか?」
「何の場合です?」
「それは……」
止まった。
ミアは待った。
アレクサンダーが少し眉を寄せる。
「領内だけで完結するなら領主で、王家に関係するなら王権……だったと思うけど」
「この事例、領内だけで起きてます」
「じゃあ領主じゃないか?」
「でも、第三次法令改正を踏まえて論ぜよって書いてあります」
「……そうだな」
二人でもう一度課題を見る。
「アレク様」
「なんだ」
「分からないんですね?」
「……うるさいな、だから調べるんだろ」
「王太子なのに」
「王太子だって分からないものはある!」
「そうですよね……」
責めたかったわけではない。
むしろ少しだけ安心した。
アレクサンダーですら、見ただけですぐ答えが分かるわけではないのだ。
「トビアスに聞けば分かるかもしれないぞ」
「それだと、結局人に聞いてるじゃないですか」
「今、俺に聞いてるだろ」
「そうでした」
アレクサンダーが笑った。
ミアも少し笑った。
けれど、問題は何も解決していなかった。
午後の授業を終える。
提出まで、あと三 四日ある。
寮へ戻って昨日の続きをやればいい。
そう考えながら教室を出ようとして、ミアは足を止めた。
少し先に、銀色の髪が見えた。
セレスティーナだった。
授業を終え、いつものように教本を片付けている。
そういえば、九月に入ってから、まともに話をしていなかった。
医務室で互いの呼び方を変えたときには、少しだけ距離が近くなったような気がしていた。夏季演習の残り五日間も、五人で報告書を作りながら一緒に過ごした。
けれど、平常授業が始まってみれば、思ったほど話す機会はなかった。
夏の間は、迷宮へ入ればずっと五人一緒だった。アレクサンダーがセレスティーナへ何か仕事を頼めば、それを気にして様子を見に行く理由もあった。焼き菓子を渡すようになったのだって、最初はそうして働き続けるセレスティーナが、ちゃんと何か食べているのか気になったからだった。
けれど今は、アレクサンダーも以前のように仕事を押しつけなくなった。
食事についても、医師から特に制限はないと言われている。迷宮探索のような負担の大きい活動だけは一か月ほど控えるようにと言われていたが、それ以外はもう普段通りだった。
そうなると、焼き菓子を持っていく理由もなくなった。
理由なんてなくても、話しかければよかったのかもしれない。
けれど、九月に入ってからのミアには、そんなことを考える余裕もなかった。
授業が分からない。
ノートを取るだけで精一杯で、放課後になれば図書室へ駆け込み、昨日は何冊もの本を積み上げたまま一行もレポートを書けなかった。
そしてセレスティーナの方から、特に話しかけてくることもなかった。
廊下ですれ違えば、「ごきげんよう、ミア様」と嬉しそうに微笑んでくれる。
呼べば、必ず「はい、ミア様」と振り返ってくれる。
けれど、それだけだった。
ミアは今さら、それに気づいた。
――私が話しかけなかったら、セラ様からは来ないんですね。
少しだけ、変な感じがした。
せっかく呼び方まで変わったのに。
近くなったと思ったら、いつの間にかまた少し離れていた。
もっとも、その原因の半分以上は、自分が授業に必死だったせいなのだけれど。
「……」
ミアは昨日の真っ白な紙を思い出した。
今日、アレクサンダーと二人で首を傾げた課題も。
正直、一人で何か分かるようになる気がしない。
今から方向だけでも分かれば、何とかなるかもしれない。
それに。
話しかけても、いいのだ。
別に焼き菓子がなくても。
仕事を押しつけられていなくても。
「あの、セラ様」
呼ぶと、セレスティーナはすぐに振り返った。
「はい、ミア様」
その顔が、ぱっと嬉しそうにほころんだ。
ミアは一瞬だけ目を瞬いた。
――あ。
やっぱり、話しかければよかった。
「あの。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「はい。なんでしょう?」
「昨日の法学と歴史学の課題なんです」
ミアは少し言いにくくなって、手に持ったノートへ目を落とした。
「私、あれ、よく分からなくて」
「まあ」
「セラ様は、分かります?」
「はい」
即答だった。
ミアは顔を上げた。
「……分かるんです?」
「はい。どちらの課題でしょうか?」
「両方です」
「まあ」
セレスティーナが少し考える。
「でしたら、よろしければ一緒に確認いたしましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろんでございます」
むしろ、なぜ確認する必要があるのか分からないような顔だった。
「わたくしでお役に立てることでしたら、喜んで」
そして。
本当に嬉しそうに笑った。
そのまま、二人はいつものラウンジへ移動した。
助言だけでもと思っていたミアだったが、せっかくなので集中できる場所でと言い出したセラに甘えた形になった。
ミアは昨日から使っているノートと、図書室で借りた本を机へ並べた。
「まず法学なんですけど」
「はい」
「領主裁判権も、第三次法令改正も分かるんです。でも、ここから何を書けばいいのかが分からなくて」
セレスティーナが課題文を読む。
次にミアのノートを見た。
何頁かめくる。
「ミア様」
「はい」
「第二次法令改正については、どのように習われましたか?」
「第二次?」
予想していなかった言葉が出てきた。
「ええ。領主裁判権に対する王家の介入条件が明文化された改正です」
「……それ、第三次じゃないんですか?」
「第三次では介入可能な事例が拡大されております。最初に条件が明文化されたのは第二次でございます」
「……」
知らない。
いや。
習ったのかもしれない。
けれど、覚えていない。
セレスティーナは少し考えて、今度は別の質問をした。
「では、直轄領と諸侯領における裁判制度の違いは?」
「それは分かります」
ミアは答えた。
説明する。
セレスティーナが頷いた。
「では、王国法と領法が異なる場合の優先順位は?」
「王国法です」
「常にでしょうか?」
「……違うんですか?」
そこでセレスティーナは、ようやく何かに気づいたようだった。
「ああ」
小さく声を漏らす。
「ミア様は、ここがまだ繋がっていらっしゃらないのですね」
「……ここ?」
「はい」
セレスティーナはミアのノートの空いている頁を開いた。
「領主裁判権から始めると、少し分かりにくいかもしれません。先に王国法と領法、それから王家と諸侯の権限について整理いたしましょう」
さらさらと書き始める。
王家。
諸侯。
それぞれの領域。
法。
裁判。
そこへ、第一次、第二次、第三次の法令改正が順番に加わった。
「もともとは、この範囲までが領主の権限でございました」
「はい」
「その後、こちらの事件が起きまして」
「あ。それ知ってます」
「ええ。この事件を受けて第二次法令改正が行われました」
線が一本引かれる。
「……あ」
ミアは身を乗り出した。
「だから、ここが変わったんです?」
「はい」
「じゃあ第三次は」
「こちらでございます」
また線が伸びた。
「……ああ!」
知っている。
全部、知っていた。
事件の名前も。
法令の名前も。
何が変わったのかも。
なのに、別々に覚えていた。
それが一本の線になっていく。
「分かります」
思わず言った。
「セラ様、分かります!」
「まあ」
セレスティーナが嬉しそうに微笑んだ。
「それは何よりでございます」
「じゃあ、この事例って、領主に裁定権があるかどうかを書くんじゃなくて」
「はい」
「どこまで領主の権限として認められるかを、法令改正の流れから考えるんです?」
「その通りでございます」
「分かりました!」
初めて。
課題に何を書けばいいのかが分かった。
ミアは慌てて自分のノートに書き込んだ。
忘れないうちに。
今なら書ける。
「歴史学も見ていただいていいですか?」
「もちろんでございます」
今度は北部諸侯紛争。
セレスティーナはいきなり答えを教えなかった。
紛争の原因。
終結までの流れ。
その後、王家が何を恐れたのか。
ミアが知っているところを確認しながら、抜けているところだけを足していく。
一時間ほど経った頃。
ミアの前には、二つのレポートの大まかな構成が出来上がっていた。
本文はまだほとんど書いていない。
それでも。
何を書けばいいのかが分かる。
どの本を調べればいいのかも分かる。
「……できる」
ミアは呟いた。
「これなら、できます」
昨日は、何冊本を積んでも一行も書けなかったのに、今なら期限に間に合う気がする。
「セラ様」
「はい、ミア様」
「ありがとうございます」
「いいえ。この程度でしたら――」
「本当に、ありがとうございます」
声が少し震えた。
セレスティーナが目を瞬いた。
ミアは慌てて俯いた。
泣くほどのことではない。
課題が分からなかっただけだ。
提出まで、まだ時間だってある。
けれど。
昨日からずっと。
何を読んでも分からなくて。
授業を聞いても分からなくて。
何が分からないのかさえ分からなくて。
自分だけが、とても遠いところに置いていかれたような気がしていた。
それが今。
ちゃんと道が見えている。
「私、昨日からずっと調べてたんです。でも、一行も書けなくて」
「まあ……」
「アレク様にも聞いたんですけど、二人で分からなくて」
「殿下も?」
なぜかそこだけ少し驚かれた。
「はい」
ミアは笑った。
少しだけ目の奥が熱かった。
「でも、これならできます。ここまでわかってれば、ちゃんと自分で書けます」
セレスティーナは、しばらくミアを見ていた。
それから。
とても嬉しそうに笑った。
「お役に立てたのでしたら、わたくしも嬉しゅうございます」
ミアはまた泣きそうになった。
「……ありがとうございます、セラ様」
「はい、ミア様」
それから、せめてものお礼にとセレスティーナにいつもの焼き菓子を渡した。
自分も一緒に食べた。
とても美味しいと思った。
その日の帰り道。
ミアの足取りは、昨日よりずっと軽かった。




