4-1 九月の授業
九月になった。
夏季演習の評価は、五人とも良好だった。
最終盤に少々――少々では済まない出来事はあったものの、それまでの探索内容や戦闘、到達階層については十分な成果を上げていた。最後の五日間で作成して提出した報告書も問題なく受理され、五人は揃って夏季演習を終えた。
セレスティーナについても、医師から日常生活に戻ってよいとの許可が出た。
本人に自覚できる不調がないのであれば、授業への出席も、日常的な活動も、食事も特に制限する必要はない。ただし、大事を取って迷宮探索のような負担の大きい活動だけは一か月ほど控えること。
そう念を押されたセレスティーナは、「承知いたしました」と素直に頷いた。
少なくとも、迷宮へ行くなという言葉については、きちんと守るつもりらしかった。
そして学院には、いつもの日々が戻ってきた。
――はずだった。
九月三日。
ミアは、授業中のノートから顔を上げた。
教師はまだ話している。
聞こえている。言葉も分かる。
なのに。
「……?」
何を言っているのかが、分からない。
慌てて羽根ペンを動かした。
教師が黒板へ書いた言葉を写す。その下に、口頭で説明されたことも書き加える。
書いておかなければ。
今は分からなくても、あとで読み返せば分かるかもしれない。
「――したがって、ここで重要になるのが、領主裁判権と王権との関係です。これは前期に確認した通りですね」
前期。
確認した。
何を。
ミアはノートをめくった。
どこかに書いた覚えはある。領主裁判権という言葉そのものも知っている。領地内で起こった争いについて、その土地を治める貴族が一定の裁判権を持つ。
そこまでは分かる。
けれど、教師はその説明をしているのではなかった。
その先を話している。
「第三次法令改正以降、この権限は従来の慣習法のみならず――」
また分からない言葉が増えた。
慣習法は知っている。
第三次法令改正も、習った。
けれど。
どうしてその二つが、今ここで一緒に出てくるのだろう。
ミアはとにかく書いた。
一言でも落としたら、もっと分からなくなる気がした。
隣を見る余裕はない。
教師の言葉を聞いて、黒板を見て、書く。
書いて。
書いて。
ふと教師が話すのをやめたので、ミアも手を止めた。
「ここまでで、何か質問はありますか?」
教室が静かになった。
ミアは羽根ペンを握った。
質問。
した方がいい。
分からないのだから。
けれど。
何を聞けばいいのだろう。
領主裁判権とは何ですか、ではない。知っている。
第三次法令改正とは何ですか、でもない。それも習った。
では、何が分からないのか。
分からない。
教師が何を説明しているのか分からないのに、使われている言葉は一つずつなら知っている。
だから、どこを質問すれば説明が繋がるのかも分からなかった。
「……」
結局、手を挙げられないまま授業は進んだ。
おかしい。
四月から七月までだって、授業は難しかった。
ミアが学院へ入るための勉強を本格的に始めたのは、今年に入ってからだ。
十五歳まで孤児院で育ったミアは、読み書きも計算もできたし、生活に必要な知識だって持っていた。
けれど、貴族の子供が幼い頃から家庭教師について学ぶようなことは、ほとんど知らなかった。
だからサンティエ家に引き取られてからは、大変だった。
歴史。
法。
地理。
礼儀作法。
家門と領地。
王国の制度。
学院へ入るまでに覚えなければならないことは山ほどあった。
それでも、四月からの授業は分かったのだ。
知らないことはあった。
けれど、知らないことを教えてもらえば理解できた。
九月に入ってからは、違う。
教えてもらっているのに。
分からない。
午前の法学を終えた頃には、ノートが何頁も文字で埋まっていた。
なのに、それを読み返しても、やっぱりよく分からなかった。
午後の歴史学も似たようなものだった。
「北部諸侯紛争については、前期に一通り確認しましたね」
しました。
ミアは心の中で答えた。
王国歴二百六十一年から二百六十三年。
北部の有力諸侯の対立から始まり、複数の領地を巻き込んだ紛争。
その後、王家の介入によって終結した。
そこまでは覚えている。
家庭教師にも習ったし、前期の授業でも復習した。
「では今日は、その後の王権強化と、現在の地方統治制度との関連について見ていきます」
そこから分からなかった。
どうして。
紛争が終わった。
王家が勝った。
それで。
どうして、今の制度の話になるのだろう。
教師は当然のように説明していく。
周囲の生徒たちも普通に聞いている。
ミアはまた、必死にノートを取った。
そうして九月三日の最後の授業。
教師が一冊の冊子を閉じた。
「それでは、休み明けまでの課題を出します」
教室のあちこちから小さなため息が漏れた。
ミアも姿勢を正した。
課題なら大丈夫。
分からないところがあっても、時間をかけて調べられる。
「通常の復習課題に加え、法学と歴史学については短いレポートを一本ずつ提出してください」
短い。
その言葉に少し安心した。
教師が課題の内容を黒板へ書く。
法学。
『領主裁判権と王権の関係について、過去三代の法令改正を踏まえ、指定事例における裁定の妥当性を論ぜよ』
ミアは、その文章をノートへ写した。
次。
歴史学。
『北部諸侯紛争後に行われた王権強化の主要施策を三つ挙げ、それぞれが現在の地方統治制度に与えた影響について論ぜよ』
写した。
もう一度、読んだ。
「……」
読める。
何を問われているのかも、たぶん分かる。
でも。
何を書けばいいのだろう。
授業が終わっても、ミアはしばらく席に座ったままだった。
周囲では、生徒たちが立ち上がっている。
「歴史面倒だな」
「三つならあれとあれだろ。あと何にする?」
そんな会話も聞こえてきた。
三つ。
何と何と何なのだろう。
ミアはもう一度ノートを見た。
北部諸侯紛争については知っている。
その後に行われた政策も、いくつかは習った。
地方統治制度についても習った。
全部、知っているはずだった。
なのに。
それをどう繋げれば、この問いの答えになるのかが分からない。
「……大丈夫です」
小さく呟いた。
今日は三日。
提出は休み明け。
まだ四日もある。
分からないなら、調べればいい。
そう思って、その日の放課後。
ミアは図書室へ向かった。
まず、北部諸侯紛争について書かれた本を借りた。
課題を横に置いて、最初から読む。
途中で、知らない制度の名前が出てきた。
別の本を探した。
その制度を調べていると、今度は法令の名前が出てきた。
法令集を持ってきた。
開いた。
書いてあることは読める。
けれど、なぜその法令が必要だったのかが分からない。
もう一冊。
さらに一冊。
気がつけば、机の上には何冊もの本が積まれていた。
窓から入っていた明るい光も、いつの間にか夕方の色になっている。
ミアはレポート用の紙を見た。
真っ白だった。
「……一行も書けてないです」
思わず口から漏れた。
頑張っていないわけではない。
ずっと調べていた。
少しも遊んでいない。
それなのに。
調べれば調べるほど、分からないことが増えていく。
何が分からないのかも、だんだん分からなくなってきた。
ミアは机に頬杖をつきそうになり、慌てて姿勢を戻した。
そして、積み上がった本を見た。
ふと。
銀色の髪が頭に浮かんだ。
夏の迷宮で。
ほとんど見たこともないような魔術を、当然のように使っていた人。
この前だって、百二年前の聖女について、何も見ずにすらすら話していた。
『伝承にはございます』
『百二年前、王都近郊で――』
「……セラ様なら」
ぽつりと呟いた。
きっと、分かるのだろう。
この課題を見ても。
何を書けばいいのか、最初から分かるのかもしれない。
そこまで考えて。
ミアは首を振った。
「駄目です」
自分の課題だ。
自分でやらなければ。
それに、セラ様はつい数日前まで医務室にいたのだ。
迷宮へ行かなければ何をしてもいい、という話ではない。
ミアはもう一度、本を開いた。
まだ四日ある。
今日は三日。
明日もある。
明後日もある。
七日までには、きっと何とかなる。
そう自分に言い聞かせて。
ミアは、もう一度最初の頁から読み始めた。




