3-13 なんでいるんだ
アレクサンダーは、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
身体は疲れていた。三日続けて迷宮へ潜り、その翌日には九階層まで駆け下りてセレスティーナを探し、地上まで戻った。昨夜は寝台へ入った途端に眠れると思っていたのに、目を閉じるたびに昨日のことが浮かんだ。
血に濡れた制服。青白い顔。抱き上げたとき、何の力も入っていなかった身体。
そして、医務室で聞いた声。
――殿下がお怪我をなさらなくて、良かったです。
あれだけのことをしておいて。
あれだけの怪我をしておいて。
最後に出てくるのが、それだった。
何度寝返りを打っても消えてくれなかった。
――あいつを、元のレーヴェン公爵令嬢だと思うの、やめるべきなのかもな。
トビアスの言葉も、何度も思い出した。
そうなのかもしれない。
そこまでは分かった。
では、今いるあれを何だと思えばいいのか。
そこから先が、さっぱり分からなかった。
ようやく少し眠った頃には、もう朝だった。
側仕えに起こされ、着替えを済ませ、朝食の席へ着く。何かを食べたはずなのだが、食べ終わった頃には何を口に入れたのか一つも覚えていなかった。
何も考えずに部屋を出ようとして。
ふと、足が止まった。
「……今日、どうするんだ?」
誰にともなく呟いた。
本来なら、今日からまた夏季演習だった。
三日間迷宮へ入り、一日休む。それを繰り返して、夏の間に可能な限り実戦経験を積む。
だが、その休みの日にセレスティーナが一人で迷宮へ入った。
昨日は、四人揃って医務室へ押しかけた。
今日は。
何も決めていない。
「……とりあえず、行くか」
ジークバルトとトビアスなら、いつもの時間に演習場へ来ているかもしれない。
そこで今後の予定を決めればいい。
そう思って、アレクサンダーはいつもの演習場へ向かった。
そして。
入口をくぐったところで、立ち止まった。
「おはようございます、殿下」
セレスティーナがいた。
探索着を着ていた。
いつもの、迷宮へ入るための服装だった。
長い銀髪も邪魔にならないようまとめている。
昨日まで医務室の寝台にいた人間が。
今日からまた迷宮へ入る気満々の格好で、そこに立っていた。
「……」
アレクサンダーは目を閉じた。
寝不足だ。
もう一度開ける。
いる。
「殿下?」
「なんでいるんだ」
「はい?」
「なんで、お前が、ここにいる」
セレスティーナは不思議そうに首を傾げた。
「本日は夏季演習の日ですので」
「そうじゃない!」
思わず声が大きくなった。
セレスティーナが少し目を丸くする。
「お前、昨日まで医務室にいたよな?」
「はい」
「一週間は絶対安静だって言われてたよな?」
「そのことでしたら」
セレスティーナの顔が、ふわりと明るくなった。
「昨日、ミア様に奇跡の光で治していただきましたので、もうずいぶん良くなりました」
「……は?」
聞き返したところで。
「セラ様!?」
後ろから声が飛んだ。
振り返るとミアがいた。
その少し後ろから、ジークバルトとトビアスも歩いてくる。
ミアはアレクサンダーの横を通り過ぎ、まっすぐセレスティーナへ駆け寄った。
「どうして探索着なんですか!」
「本日は演習ですので」
「演習に行くんですか!?」
「はい」
「昨日まで寝てたのに!?」
「昨日、ミア様に治していただきましたから」
アレクサンダーは二人を見た。
ミア様。
セラ様。
昨日までは。
フェリシアンヌ様。
セレスティーナ様。
「……待て」
頭が痛い。
「待て、待て。ちょっと待て」
四人がこちらを見る。
「まず」
セレスティーナを指した。
「なんでこいつが探索着を着てる」
「それは私も今聞いてます!」
「次」
ミアを指す。
「なんでお前はこいつをセラ様って呼んでる」
「昨日、そう呼ばせてもらうことにしたんです」
「次」
またセレスティーナ。
「なんでお前はミア様なんだ」
「昨日、ミア様にそうお呼びすることを許していただきました」
「それから」
ミアが続ける。
「奇跡の光も、昨日よりずっと強く使えたんです。それでセラ様の傷もかなり治って」
「待てって言ってるだろ!」
本当に頭が追いつかない。
横でトビアスが笑った。
「殿下、寝てないの?」
「うるさい」
「顔ひどいよ」
「誰のせいだと思ってる」
「少なくとも僕じゃないね」
「とにかく」
アレクサンダーはセレスティーナを見た。
「まず、医務室へ行くぞ」
「ですが、演習が」
「行くぞ」
「身体はもう問題なく動きますよ?」
「それは何度も聞いた!」
ミアも頷く。
「行きましょう、セラ様」
「ミア様まで……」
「行きます」
「……はい」
結局。
五人揃って医務室へ向かうことになった。
医師は、探索着姿のセレスティーナを見るなりため息をついた。
「一応聞くが、何の用だ?」
「本日の演習へ参加してもよろしいか、確認に参りました」
「駄目に決まっているだろう」
即答だった。
「ですが、身体は問題なく――」
「迷宮へは、行くな」
「……はい」
強い。
ミアが少しほっとした顔をした。
医師はセレスティーナを座らせ、背後に立つアレクサンダーたちに視線を向けた。
「……本人は何度も言ったんだが、多分無駄だからお前たちに言うぞ」
独り言のように呟いた。
「聖女の力については、俺にも詳しいことは分からん。伝承にあるだけのものだからな」
ミアが自分の手を見た。
「昨日なんだか、いつもより強い光が出ました」
「それについては専門外だ、後で教会にでも聞いてくれ。今分かるのは、少なくとも外傷は消えてる。肩も問題ない。無理やり治した傷の影響も、今のところ見当たらん」
「でしたら」
セレスティーナが口を開く。
「迷宮は駄目だ」
「……」
先回りされた。
「問題は血だ」
医師が言った。
「血?」
アレクサンダーが聞き返す。
「一昨日、こいつは相当出血してる。聖女の光が傷を元へ戻したとしても、失った血まで戻ったかどうかは分からん」
医師はセレスティーナの瞼を引き下げた。
「少なくとも、俺には戻ったと判断できる根拠がない。重い貧血が残ってると思っておいた方がいい」
「ですが、ふらつきなどはございません」
「お前の自己申告は参考程度に聞く」
「……」
「なんでか分かるか?」
「いいえ」
「動ければ大丈夫だと言うからだ」
セレスティーナは少し考えた。
「ですが、実際に動けますので」
「ほらな」
医師がアレクサンダーたちを見た。
誰も反論できなかった。
「今日は大人しくしてろ。昼は温かくて消化のいいものを食え。水分も取れ。少しでもふらついたり、息苦しかったりしたらすぐ来い」
「承知いたしました」
「迷宮は行かないな?」
「…はい」
「よし」
ようやく解放された。
演習場へ戻る意味もなくなったので、五人はいつものラウンジへ移動した。
なんとなく皆でいつものの席へ座り、そこでようやく、アレクサンダーは深く息を吐いた。
「……で」
机に肘をつきそうになって、王太子としてどうかと思い直してやめる。
「最初から話してくれ」
「何をですか?」
ミアが聞いた。
「昨日だよ。俺たちが医務室を出たあと」
ミアとセレスティーナが顔を見合わせる。
「私、もう一度医務室へ行ったんです」
ミアが話し始めた。
「セラ様と、少しお話ししたくて」
「それでセラ様?」
「はい」
ミアは少しだけ照れたように笑った。
「私、フェリシアンヌって名前があまり好きじゃないんです。それで、ミアって呼んでほしいってお願いしました」
「以前も言ってなかったか?」
「言いました」
「……ああ」
その先は聞かなくても分かった。
以前のセレスティーナは、断ったのだろう。
「でも、昨日もう一度お願いしたら、セラ様は聞いてくださいました」
「ミア様とお呼びすることを許していただきました」
セレスティーナも嬉しそうだった。
「それで、私も愛称で呼ばせてほしいってお願いして。セラ様になりました」
「……なるほど」
そこは分かった。
思っていたより簡単な話だった。
「それから、何だかできる気がしたので、もう一度奇跡の光を使ってみたんです」
ミアが自分の手を見た。
「一昨日、最初に使ったときより、ずっと強い光が出ました」
「なんで?」
「分かりません」
「分からないのか」
「私だって、まだ聖女になって半年も経ってないんですよ」
それはそうだった。
聖女。
誰もが知っている言葉なのに。
実際に何ができるのかと問われれば、知っている者はいない。
「予言には、なんて書いてあったんだ?」
ジークバルトが尋ねた。
「魔を払う光を持つ聖女が現れる、だったかな」
トビアスが答える。
「災厄が訪れるとき、聖女の光がそれを退ける。今分かってるのはその程度だよ」
「治癒については?」
「そこまであったか?」
トビアスも首を傾げた。
「伝承にはございます」
答えたのはセレスティーナだった。
四人の視線が集まる。
「百二年前、王都近郊で魔獣の大規模な氾濫がございました」
すらすらと話し始める。
「当時の聖女様は王都南門で負傷者の治療に当たったとされています。その際、すでに呼吸が止まり、治療師が蘇生を諦めた騎士を光で蘇らせたという記録が残っております」
「死んだ人を?」
ミアが目を丸くする。
「正確には、死亡が確認されていたかどうかは不明です」
セレスティーナはすぐに補足した。
「当時の記録には『息絶えた』とありますが、現在の医術における死亡の判定とは異なります。ただ、その騎士が胸部に致命傷を負い、呼吸を失っていたことは複数の記録で一致しております」
「へえ……」
「ほかにも、魔に侵された土地を光で浄化した、魔獣の群れを退けた、疫病の流行を鎮めたという伝承がございます。ただし、後世の脚色が疑われるものも多く――」
「詳しいな」
アレクサンダーが言った。
セレスティーナが止まった。
「……そうでしょうか」
「俺は、前の聖女が何年前に居たかなんて、聞いた覚えもないぞ」
「俺もです」
ジークバルトが言う。
トビアスは少し考えてから、
「僕は聞いたことくらいは。でも、南門の記録までは知らないな」
セレスティーナの顔が、少しずつ明るくなった。
「お役に立ちましたか?」
「ああ。少なくとも俺より詳しい」
ぱっと。
嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
礼を言われた。
アレクサンダーは少し戸惑った。
褒めたつもりですらなかったのだが。
「でも、そうなると」
ミアが自分の手を見つめる。
「昨日の光も、その力なんでしょうか」
「可能性は高いと思います」
セレスティーナが答える。
「ただ、伝承では聖女の奇跡を魔術のように体系化した記録はほとんどございません。歴代の聖女ごとに、できたことにも違いがあるようですので」
「じゃあ、やっぱり試していくしかないんですね…」
ミアは肩を落とした。
「そうなるね」
トビアスが言った。
「ただし、人を瀕死にして実験するわけにもいかない」
「しませんよ!」
「一応言っただけ」
「しません!」
そんな話をしているうちに。
窓から差し込む光が、少しずつ高くなっていった。
迷宮へ入る予定だった午前中は、結局そのままラウンジで過ぎた。
誰も急いで立とうとはしなかった。
少なくとも。
セレスティーナを連れて迷宮へ行こうと言い出す者はいなかった。
昼が近くなった頃。
「それで」
アレクサンダーが思い出したように口を開いた。何とは無しにトビアスを見やる。
「演習、どうしたら良いだろうな?」
「休みでいいんじゃない?」
あっさり返ってきた。
「いいのか?」
「そもそも夏季演習って、決められた日に全員で同じことをする授業じゃないからね。期間中に規定の回数をこなせばいいし、日程もある程度は生徒側に任されてる」
トビアスは指を折った。
「僕たちはかなり詰めて入ってたから、必要な回数はもう十分。迷宮の報告書も作らないといけないし」
「そういえば、まだだったな」
ジークバルトが言った。
「昨日はそれどころじゃなかったから」
「あと五日もすれば九月だよ」
トビアスが続ける。
「九月からは平常授業に戻る。今さら最後の数日で無理してもう一回潜る必要もないだろ」
「五日……」
アレクサンダーは窓の外を見た。
夏が終わる。
ついこの間、五人で初めて迷宮へ入ったような気がするのに。
「じゃあ、迷宮探索は終わりですか?」
ミアが聞いた。
「今回の夏季演習としてはね」
「なんだか、最後がすごかったですね……」
「誰かさんのおかげでな」
アレクサンダーが言う。
視線の先で。
セレスティーナが首を傾げた。
「わたくしでしょうか」
「お前以外に誰がいる」
「申し訳ございません」
「謝ればいいって話でもない」
「……はい」
少ししょんぼりしている。
その顔を見ると、それ以上言う気も失せた。
アレクサンダーは息を吐いた。
「とにかく、今月の残りの五日間は休みだな」
「報告書は作るけどね」
「それは休みって言うのか?」
ジークバルトが口を挟む。
「迷宮へ行かないだけ、だいぶ休みだよ」
「それもそうか。少し物足りないが」
ミアが少し慌てて口を開いた。
「あの、セラ様は、報告書も無理に作らなくていいと思います」
「ですが、わたくしも参加しておりますので」
「お前はまず血を作れ」
アレクサンダーが言った。
「……血を?」
「医者に言われただろ。食って寝ろ」
「はい」
返事だけはいい。
その返事をどこまで信用していいのか。
昨日までなら、考えもしなかった。
今は。
考えずにはいられない。
その横で、ミアが小さく笑った。
「アレク様」
「なんだ」
「優しくなりましたね」
「……誰が」
「アレク様が」
「別に」
「セラ様に」
最後の一言だけ、わざわざ付け足された。
トビアスが吹き出した。
ジークバルトは口元を押さえた。
「お前らな……!」
セレスティーナだけが、何を笑われているのか分からない顔で四人を見ていた。
そして。
「殿下は、以前からお優しい方ですよ?」
と言った。
今度こそ。
みんなが声を上げて笑った。
結局、今のセレスティーナを一人にさせておく方が怖いとのミアの意見が通り、残りの五日間、五人は和やかにゆっくり報告書を作ったのだった。




