3-12 王太子の眠れない夜
五歳の春、アレクサンダーは初めてセレスティーナ・フォン・レーヴェンに会った。
王宮の小さな応接室だった。
父王と母后に連れられて入った部屋には、レーヴェン公爵夫妻と、その間に立つ小さな少女がいた。
銀色の髪が、背中へ真っ直ぐ流れていた。
白い肌に、すみれ色の大きな瞳。淡い色のドレスの裾を摘み、少女は教本から抜け出してきたような完璧な礼をした。
「セレスティーナ・フォン・レーヴェンと申します。王太子殿下にお目にかかれましたこと、光栄に存じます」
五歳の子供とは思えない挨拶だった。
アレクサンダーは、しばらく何も言えなかった。
綺麗な子だと思った。
人形みたいだ、とも思った。
その少女が将来、自分の妻になるのだと母后から聞かされて、急に顔が熱くなったことまで覚えている。
妻というものが具体的に何なのか、五歳のアレクサンダーにはよく分かっていなかった。
けれど、父の隣にはいつも母がいる。
いつか自分が王になったとき、その隣にこの綺麗な女の子がいる。
そう思うと、なんだか少し嬉しかった。
「よろしく、セレスティーナ」
なるべく王太子らしく言ったつもりだった。
少女はもう一度、綺麗に頭を下げた。
「はい。アレクサンダー殿下」
それが、十年前だった。
幼い頃、セレスティーナと顔を合わせるのは年に一度か、多くても二度ほどだった。
王家と公爵家の行事。互いの誕生日。あるいは両家の都合が合ったときの茶会。
会うたびに、彼女は何か新しいことができるようになっていた。
六歳の頃には、王国の主だった貴族の家名を覚えていた。七歳の頃には、外国から来た客へ簡単な挨拶ができた。八歳の頃には、大人に混じってもおかしくないほど綺麗な文字を書いた。
最初のうちは、アレクサンダーも素直に感心していた。
けれど、それが面白くなくなったのは、いつ頃だっただろう。
「殿下。レーヴェン公爵令嬢は、すでに隣国の主要都市と産業をすべて暗記なさっているそうですよ」
教師は、そうやって言った。
アレクサンダーが地理の課題を嫌がったときだった。
「セレスティーナ嬢は、もうできるのか」
「ええ。公爵家では、さらに先まで進んでおられるとか」
別の日には歴史だった。
また別の日には礼法。
語学。魔法。舞踏。音楽。
何かにつけて、セレスティーナはもうできる、と言われた。
――殿下も、未来の妃殿下に負けてはいられませんぞ。
うるさい、と思った。
知らない。
そんなのは、セレスティーナが勝手にやっていることだ。
どうしてあいつができるからという理由で、自分まで勉強を増やされなければならないのだ。
一度だけ、本人に言ったことがある。
「お前、そんなに勉強ばかりして楽しいのか?」
十歳か、十一歳の頃だったと思う。
セレスティーナは少し考えてから、澄ました顔で答えた。
「必要なことですもの」
その答えまで優等生じみていて、腹が立った。
せめて一度くらい、嫌だと言えばいいのに。
教師たちが比べるたびに、最初は綺麗だと思った少女の名前が、少しずつ嫌な響きを持つようになった。
それでも、まだその頃はよかった。
十二歳を過ぎる頃には、本人まで嫌な女になった。
「そのようなこともご存じありませんの?」
そう言って、薄く笑う。
使用人の些細な失敗に眉をひそめ、身分の低い者を露骨に見下した。自分よりできない者がいれば、隠そうともせず馬鹿にした。
昔の人形のような少女は、いつの間にか、鼻持ちならない公爵令嬢になっていた。
可愛くない。
顔は、昔と変わらず綺麗だった。
銀色の髪も、すみれ色の瞳も。年を重ねるほど綺麗になっていくのだから、余計に腹が立った。
顔だけなら、文句のつけようもない。
なのに口を開けば嫌味が出てくる。
――あんな女が、自分の妻になるのか。
もう少し可愛ければいいのに。
そんなことを何度思ったか分からない。
学院へ入ってミアと知り合ってからは、なおさらだった。
ミアはよく笑った。
美味しいものを食べれば美味しいと言うし、分からなければ分からないと言う。怒れば頬を膨らませるし、困れば困った顔をする。
素直で、分かりやすい。
こういうのを可愛いと言うのだろうと、十五歳のアレクサンダーにも分かった。
それに比べて、セレスティーナは。
顔を合わせれば嫌味。
何か言えば反論。
ミアには露骨に棘のある言葉を投げ、こちらが庇えばさらに機嫌を悪くする。
やっぱり嫌な女だと思った。
十年も婚約者だったからこそ、分かっているつもりだった。
セレスティーナ・フォン・レーヴェンとは、そういう女だった。
だから。
反省室から出てきた彼女が、突然大人しくなったとき。
信じなかった。
あれほど傲慢だった女が、一晩で変わるはずがない。
何を企んでいるのか。
どこまで続けるつもりなのか。
そう思っていた。
だから最初は、少し面白かった。
頼めば、何でもやった。
嫌味を言っても怒らない。
仕事を押しつけても、微笑んで引き受けた。
「では、これも頼めるか?」
「はい。もちろんです」
「こっちも」
「承知いたしました」
「……これも?」
「はい」
そのうち、どこまでやれば怒るのか試しているようになった。
今思えば、とっくに軽口で済む範囲を越えていた。
けれど、そのときは気づかなかった。
どうせ演技だと思っていた。
腹を立てればいいと思った。
もう嫌だと投げ出して、いつものようにこちらを睨みつければいい。
そうしたら笑ってやろうと思っていた。
――ほら見ろ。やっぱりお前は何も変わっていない。
そう言ってやるつもりだった。
なのに。
寝台の上で、アレクサンダーは目を閉じた。
昨日のことが、また浮かんだ。
九階層の石壁にもたれて座り込んでいたセレスティーナ。
千切れた服が黒く血に濡れていた。
左腕はまともに動かず、立ち上がることさえできなくなっていた。
それなのに。
自分たちを見つけた瞬間、彼女は笑った。
安堵したように。
嬉しそうに。
本当に、幸せそうに。
自分が怪我をしなくてよかった、と。
何がよかったのだ。
何一つよくなかった。
そのあと、意識を失ったセレスティーナを抱き上げた。
その感触まで、まだ腕に残っている。
軽かった。
ジークバルトが抱えて地上まで戻る前、ほんの少しの間だけだった。それでも、思っていたよりずっと軽かったことを覚えている。
そして。
柔らかかった。
アレクサンダーは目を開けた。
「…………」
なんで今、そんなことを思い出した。
一人で顔が熱くなって、掛布を引き上げる。
違う。
そういう意味ではない。
血の匂いがしていた。
力の抜けた身体だった。
呼びかけても返事をしない。
いつも背筋を伸ばして、こちらを睨み返してきた女が、自分の腕の中でぐったりしていた。
ただ、それだけだ。
それだけなのに。
あんなに嫌な女だと思っていたのに。
腕の中にいたのは、驚くほど軽くて、柔らかい、ただの女の子だった。
自分と同じ十五歳の。
怪我をすれば血が出るし、力尽きれば立てなくなる身体をした女の子だった。
「……くそ」
アレクサンダーは寝返りを打った。
五歳の少女が浮かぶ。
完璧な礼をした、人形のような少女。
十二歳の、鼻持ちならない少女。
学院でミアを睨みつけていた少女。
反省室から出てきて、別人のように微笑んだ少女。
五人分の仕事を押しつけても、「承知いたしました」と答えた少女。
そして。
血まみれで、自分を見て幸せそうに笑った少女。
全部同じ顔なのに、どうしても一人の人間として繋がらない。
今日、トビアスが言った。
――あいつを、元のレーヴェン公爵令嬢だと思うの、やめるべきなのかもな。
そんな簡単な話なのだろうか。
では、自分が十年間知っていたセレスティーナは何だったのか。
今、医務室で眠っているあいつは何なのか。
分からない。
考えても、分からなかった。
ただ。
今のセレスティーナは、嫌味を言わない。
怒らない。
何かを頼めば、嬉しそうに引き受ける。
焼き菓子一つで喜ぶらしい。
パン一つ食べて、幸せそうにするらしい。
それを思うと、また胸のあたりが妙な感じになった。
昔は、もう少し可愛ければいいのにと思っていた。
ミアみたいに、素直に笑えばいいのに。
何かしてやったら喜んで、嫌なことがあったら嫌だと言えばいいのに。
そう思っていたはずなのに。
「……これはこれで、可愛くないだろ」
誰もいない部屋で呟いた。
何をしても笑う。
何を頼んでも喜ぶ。
怪我をしても、自分より他人が無事だったことを喜ぶ。
こんなのは、違う。
もっと普通でいい。
少しくらい文句を言えばいい。
腹を立てたっていい。
――少なくとも、血まみれになってまで笑う必要なんかない。
アレクサンダーは掛布を鼻先まで引き上げた。
明日。
明日、会ったら。
少しくらい、優しくしてやろう。
仕事を押しつけるのもやめる。
嫌味も言わない。
何か頼む前に、本当にあいつに頼む必要があるのか考える。
それくらいなら、自分にもできる。
「……よし」
小さく呟いて、目を閉じる。
今度こそ眠ろうとした。
けれど、腕の中に残った軽さを思い出した。
柔らかさを思い出した。
それから、血に汚れた白い顔でこちらを見上げた、あの笑顔。
アレクサンダーは勢いよく寝返りを打った。
「……だから、なんなんだよ、あいつ」
十五歳の少年には、それが罪悪感なのか、心配なのか、それとも別の何かなのか、まだよく分からなかった。
結局、その夜はなかなか眠れなかった。




