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3-10 見ていられない

医務室を出たあと、四人はそのまま食堂へ向かった。


まだ朝が早い。いつもの混雑には少し早く、食堂にいる生徒もまばらだった。四人はそれぞれ朝食を受け取り、自然と同じ卓についた。


誰も、ほとんど喋らなかった。


ミアはパンをちぎり、口へ入れる。


味がしない。


向かいではアレクサンダーが、さっきから一向に食事へ手をつけていなかった。ジークバルトも黙々と食べているだけで、トビアスに至ってはスープを匙で掻き回している。


しばらくして。


「――なんだ、あれは!」


突然、アレクサンダーが叫んだ。


近くにいた生徒が驚いて振り返る。


けれど、そんなことを気にする余裕もないらしい。アレクサンダーは頭を抱え、そのまま卓に肘をついた。


「なんなんだ、あいつは……!」


誰も答えなかった。


「俺が怪我をする夢を見たから、一人で九階まで行った? 俺たちがいなければいい? 自分が怪我をしたら治せる? 治せてないだろ!」


最後の方は、ほとんど誰に言っているのか分からなかった。


「それであの有様になって、最後に言うことが、俺が怪我をしなくてよかっただと?」


拳が卓に落ちる。


けれど叩きつけるほどの力もなく、ただ置かれただけだった。


「なんで俺は……」


アレクサンダーが呻いた。


「なんで俺は、こんなに腹が立ってるんだ……」


そのままずるずると頭を抱える。


昨日までなら、セレスティーナのすることに腹が立つ理由なんて、いくらでも説明できたはずだった。


嫌味だから。


傲慢だから。


ミアに意地悪をするから。


自分を馬鹿にしているから。


今度は何を企んでいるのか分からないから。


けれど、今の苛立ちは、そのどれとも違った。


トビアスがスープをかき混ぜながら、独り言のように口を開い。


「……あれを」


小さく言う。


「あいつを、元のレーヴェン公爵令嬢だと思うの、やめるべきなのかもな」


アレクサンダーが顔を上げた。


「何?」


「俺たち、ずっとそれで見てただろ」


トビアスはスープを混ぜる手を止めた。


顔を上げてアレクサンダーの顔を見る。


「何か言えば嫌味。大人しくなったら演技。仕事を受ければ何か企んでる。できなければ本性が出ると思ってた」


誰も否定しなかった。


「でも、もう二か月近い」


トビアスの声は淡々としていた。


「反省室から出てきたあいつが、何か企んで得したこと、あったか?」


答えはなかった。


むしろ逆だった。


食事を抜いた。


眠らなかった。


熱があっても働こうとした。


焼き菓子をもらって喜んだ。


迷宮では言われた通りに魔法を使い、言われた通りに休み、そして昨日、一人で九階層まで行った。


その結果が、あれだった。


ジークバルトが黙ったまま、自分の手を見ていた。


握る。


開く。


もう一度、握る。


昨日、その腕でセレスティーナを抱き上げた。


肩を傷めているからと、できるだけ揺らさないように。


最初は、軽いと思った。


けれど九階層から地上まで運べば、当然腕は疲れる。それでも、抱き上げた瞬間の感触だけは、妙に手に残っていた。


血まみれの身体。


力の抜けた腕。


そして、思っていたよりずっと軽かった。


ミアはそれを見ているうちに、胸の奥がまた苦しくなった。


「……セレスティーナ様」


ぽつりと言った。


三人の視線が集まった。


「私、ずっと同じ焼き菓子をあげてるんです」


「焼き菓子?」


アレクサンダーが聞く。


「はい。町でも売ってる、普通のです。…庶民でも買える、そんなに高くもないやつ」


最初は一つだった。


次は二つ。


それからも、何度も。


「何度渡しても、同じように嬉しそうに食べるんです」


ミアは自分の皿を見た。


今日の朝食には、パンのほかにも卵と肉があった。


スープもある。


果物も少し。


「一か月くらい、ずっと同じものなんですよ。だからこの前、飽きませんかって聞いたんです」


思い出す。


――なぜですか?


本当に、分からない顔だった。


「今日も美味しいですね、って」


誰も笑わなかった。


「お昼も」


声が少し震えた。


「いくら勧めても、パン一つでいいって言うんです。白くて、柔らかくて、美味しいからって。牛乳もいただけるんですよ、って」


一度、息を吸った。


「もっと食べたらって言ったこともあります。でも、食べきれないからって」


その言葉を口にした瞬間。


何かが、耐えられなくなった。


「あれが……貴族令嬢なんです?」


ぽつりと、盆の上へ涙が落ちた。


「あそこまでなんて、私……」


言葉が続かなかった。


落ちる涙を慌てて拭う。


けれど、止まらない。


「……見てられないんです」


声が震えた。


「私、最初はセレスティーナ様が怖かったです。フェリシアンヌって呼ばれるのも嫌だったし。今だって、前に言われたことがなくなったわけじゃないです」


それでも。


「でも、見てられないんです」


もう一度言った。


「焼き菓子一つで、あんなに喜ぶのも。パン一つ食べて幸せそうなのも。熱があっても動けるから大丈夫って言うのも。昨日みたいになっても、アレク様が怪我しなくてよかったって……」


ミアが耐えきれないようにうつむいて顔を覆った。


「そんなの、見てられないです……」


アレクサンダーは俯いたまま、低い声を出した。


「あいつは、昔から嫌味な奴で」


少しだけミアが顔を上げた。


「いつも偉そうで。何か言えば、いちいち人を見下したようなことを言って。ミアにもあんな態度だった」


アレクサンダーは自分の皿を見ていた。


「だから、反省室から出てきたあとも、今度は何を企んでるんだって思ってた」


誰も口を挟まない。


「ちょっとくらい痛い目に遭えばいいって、思ってたこともある」


告白するような声だった。


「俺の言うことを何でも聞くようになって……そのうち化けの皮が剥がれるって。腹が立って、そのうちに絶対に本性を出すって…」


そこで言葉が切れた。


昨日の姿が、四人の間にあるようだった。


石壁に寄りかかって。


血まみれで。


立てなくなって。


それでも、迎えに来た四人を見て笑った少女。


「あんな……」


それ以上は出てこなかった。


長い沈黙のあと。


ジークバルトが口を開いた。


「トビアス」


「なんです?」


「あの魔法。お前、真似できるか」


唐突な問いだった。


けれど、トビアスには何のことか分かったらしい。


「アイスアローとファイアボールだ」


ジークバルトは自分の手を見たまま言った。


「異様な圧縮率と、あの連射速度」


トビアスが黙る。


「俺は、昔から要領が悪い」


ジークバルトはゆっくり手を握った。


「いくら修練しても、あれを真似できるようにはなりそうにない」


それは卑下ではなかった。


剣ならば、ジークバルトの方が遥かに上だ。


魔法より身体を鍛えることを選び、その結果として今の力を得ている。


「だが、要領だけであれができるようになるはずがないってことくらいは、分かる」


トビアスはしばらく答えなかった。


やがて、椅子の背へ身体を預ける。


「……おそらく」


いつもの自信に満ちた声ではなかった。


「できなくはないでしょう」


ジークバルトが見る。


「理屈は分かります。圧縮の仕方も、術式の省略も。あれだけ見せられれば、何をしているかくらいは」


「なら」


「ですが」


トビアスが遮った。


「実戦で、考えもせずあの速度で撃てるところまで持っていくなら」


指先で卓を軽く叩く。


一度。


二度。


三度。


「バカみたいな時間、同じことを繰り返して、身体に馴染ませなければ不可能ですよ」


少し間を置いた。


「ほんと、バカな女です」


いつもならもっと棘のある言い方をするはずだった。


今日は、その語気がひどく弱かった。


また誰も喋らなくなった。


食事はとっくに終わっていた。


皿も空いている。


それでも四人とも、席を立とうとはしなかった。


何を話せばいいのか分からない。


何を考えればいいのかも、まだ分からない。


元のセレスティーナがいなくなったわけではない。


されたことも、言われたことも消えない。


けれど。


今、医務室の寝台にいる少女を。


それと同じものとして見続けていいのか。


誰にも答えがなかった。


やがて、大きく息をついたアレクサンダーが口を開いた。


「……とりあえず」


三人が見る。


「みんな、疲れただろう」


昨日は三日目の演習を終えたばかりだった。


その翌日に九階層まで駆け下り、セレスティーナを連れて戻った。


夜もろくに眠れていない。


「一回、部屋に戻って休もう」


アレクサンダーはそう言ってから、自分の手のひらを見た。


ゆっくり開く。


昨日。


途中でジークバルトと交代して、自分もセレスティーナを抱いた。


意識のない身体は、自分では何も支えてくれない。


血で汚れた服。


冷たい汗。


力なく揺れる手。


それなのに。


腕へ受け取ったとき。


思っていたより、ずっと軽かった。


アレクサンダーは手を握った。


「俺も……」


しばらく、その拳を見つめる。


「少し、考える時間が欲しい」


誰も反対しなかった。


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