3-9 目覚めた
四人が地上へ戻った頃には、全員が肩で息をしていた。
迷宮の中ではほとんど魔物に遭遇しなかったとはいえ、華奢な令嬢とはいえ、九階層から人ひとりを抱えて戻るのは楽ではない。途中で何度かジークバルトとアレクサンダーが交代し、最後はほとんど走るようにして医務室へ駆け込んだ。
「先生!」
扉を開けるなり、ミアが叫んだ。
医師は机から顔を上げ、四人と、その腕の中にいるセレスティーナを見た。
一瞬だけ目を見開く。
「そこへ寝かせろ」
すぐに寝台が空けられた。
ジークバルトが慎重にセレスティーナを横たえる。左肩へ触れないようにしようとしているのが分かったのか、医師が眉を寄せた。
「何があった」
「迷宮で……」
ミアは答えようとして、言葉に詰まった。
一人で九階層へ行って。
大量の魔物を倒して。
肩を外して、自分で戻して。
傷を自分で治して。
生命力まで魔力へ変えて。
どこから説明すればよいのか分からない。
「あとでいい」
医師は短く言った。
「まず見る」
上着を切る。
血で固まった布が剥がされる。
下から現れた皮膚を見て、医師の顔が険しくなった。
「……これはひどいな」
ミアの胸が詰まった。
脇腹の傷は、一見すると閉じている。
けれど綺麗ではない。
裂けた皮膚を無理やり寄せ、表面だけ塞いだような赤い線が残っている。その周囲は広く腫れ、内側に血が滲んだような暗い色が浮いていた。
太腿も同じだった。
傷口だけは閉じている。
けれど、その内側の組織まで治っているようには見えない。
「自分で治したのか」
「……はい」
ミアが答える。
「肩は?」
「外れたのを、自分で戻したそうです」
医師が目を閉じた。
ほんの一瞬。
それからセレスティーナの左腕を慎重に持ち上げる。
意識は戻らない。
「はまってはいる。だが雑だ。周囲を傷めている可能性がある」
さらに脈を取る。
瞼を持ち上げる。
呼吸を確認する。
「魔力は?」
トビアスが答えた。
「ほぼありません。生命力を四、五回、魔力へ変換したと言っていました」
今度こそ、医師が全員を見た。
「四、五回?」
「本人はそう言いました」
「……よくそれを自分の口で話せたな」
それが誰に向けた言葉なのか、ミアには分からなかった。
四人に。
それとも、まだ意識のないセレスティーナに。
医師は寝台の横へ薬瓶を並べながら、ミアを見た。
「お前、聖女なんだろう」
「……はい」
「光の治癒は?」
「まだ、ちゃんとは」
「できるだけでいい。やってみてくれ。普通の治癒を重ねるよりはましかもしれない」
ミアは寝台へ近づいた。
以前なら。
自分の光の魔法は、まだ不安定だから怖いと思っただろう。
今も怖かった。
けれど、やらないという選択肢はなかった。
「……やります」
セレスティーナの脇腹へ手をかざす。
目を閉じる。
元の形を思う。
傷つく前。
裂ける前。
血が流れる前。
暖かな光が、指の間からゆっくり溢れた。
強くない。
頼りない光だった。
それでも、赤く盛り上がっていた傷跡が、ほんの少し薄くなる。
腫れも、わずかに引いた。
「……あ」
ミアが息を呑む。
医師がすぐに止めた。
「そこまでだ」
「でも、まだ」
「お前まで倒れたら面倒が増える」
「……はい」
次に太腿。
肩。
少しずつ。
完全には戻らない。
けれど、無理やり繋いだようだった傷の線が柔らかくなり、腫れも少しずつ引いていった。
左肩の周囲も、触れただけでひどく強張っていた筋肉が、少しだけ緩む。
ミアは最後まで、セレスティーナの顔を見なかった。
見たら泣きそうだった。
全部終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
医師は新しい包帯を巻き、薬を飲ませる準備を整えた。
「今夜はここで見る」
「私、残ります」
ミアがすぐに言った。
「帰れ」
「でも」
「寝てろ」
「……」
「お前たちも昨日まで三日間迷宮へ入っていたんだろう」
誰も反論できなかった。
「今すぐどうこうなる状態なら帰れとは言わない。一晩様子を見る。目を覚ましたら水分を取らせる。吐かなければ少し食べさせる」
医師は四人を順番に見た。
「気になるなら、明日の朝、また来ればいい」
ミアはしばらく動かなかった。
寝台の上のセレスティーナを見る。
眠っているようにも見える。
ただ、顔色はまだ悪い。
「……分かりました」
最後にそう言った。
四人は医務室を出た。
誰も、ほとんど喋らなかった。
翌朝。
ミアは普段よりずっと早く目を覚ました。
というより、あまり眠れなかった。
目を閉じると、九階層の壁際に座っていたセレスティーナが浮かぶ。
血だらけで。
顔が真っ白で。
それでも自分たちを見て、少し嬉しそうに笑った。
起き上がる。
顔を洗う。
まだ朝食の時間にも早かった。
それでも医務室へ向かった。
扉の前まで来て。
「あ」
先客がいた。
アレクサンダー。
ジークバルト。
トビアス。
三人ともいた。
「……おはようございます」
「おう」
「早いな」
「みんなもじゃないですか」
誰もそれ以上言わなかった。
しばらく四人で廊下にいた。
なんとなく、誰も動こうとしなかった。
やがて医務室の中から物音がした。
扉が開く。
昨日の医師だった。一晩中ここにいたのか、少し疲れた顔をしている。
「やっぱり居たのか。起きたぞ」
四人が一斉に顔を上げた。
「入れ。ただし騒ぐなよ」
言われる前から、もう全員中へ入っていた。
セレスティーナは寝台の上で上体を起こしていた。
いつも綺麗に伸ばされている背筋は、今日は重ねられた枕のようなものに預けられている。
意識のない間にある程度身なりを整えられたのか、白い面を汚していた血や土汚れは見られなかった。
服も、破れた探索着ではなく、簡素な前合わせの服を着ている。
髪は簡単にまとめられて右肩に寄せられている。
唇の色も淡い。
けれど昨日よりはずっとましだった。
紫色の目も、ちゃんとこちらを見ている。
「おはようございます」
声は少し掠れていた。
それだけで。
ミアは胸の奥が一気に緩んだ。
「おはよう、ございます……」
言葉が続かなかった。
セレスティーナは四人を見て、少しだけ困ったように微笑んだ。
「皆様、お早いのですね」
アレクサンダーの眉が動いた。
何か言いかける。
その前に医師が遮った。
「とりあえず、座って待ってろ」
予想されていたのか、寝台の脇に四人分、簡素な椅子があった。皆でとりあえず腰を下ろす。
医師が裏から盆を持ってきた。
薄い粥と水が乗っている。
「まず食べるのが仕事だ」
「皆様を、お待たせしては」
「いいから」
医師はそれだけ言った。
セレスティーナは少し黙り、それから素直に水を受け取った。
ゆっくり飲む。
一口。
もう一口。
吐き気などはないらしい。
次に粥。
最初の一匙を口へ運ぶ。
よく噛む必要もないくらい柔らかそうだ。
セレスティーナは少し驚いた顔をした。
「美味しいです」
ミアは泣きそうになった。
昨日、あれだけ血まみれだった人が。
今朝、粥を一口食べて。
美味しい、と言っている。
「全部食べてください」
少し強く言った。
「はい」
セレスティーナは素直に頷いた。
とはいえ、少しずつだった。
水も、粥も。
時間をかけて、ほとんど残さず食べた。
医師が脈を取り、問題がないのを確認する。
「よし」
それから四人を見た。
「話すなら短くしろ。疲れたら終わりだ」
「はい」
答えたのはミアだった。
医師は少し離れた机へ戻った。
静かになる。
セレスティーナが四人を見た。
「昨日は、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
その瞬間。
アレクサンダーが椅子を引いた。
寝台の正面へ座る。
ジークバルトも。
トビアスも。
ミアも座った。
四人。
全員が。
セレスティーナを見た。
「……あの」
さすがに少し居心地が悪そうに、セレスティーナが瞬いた。
アレクサンダーが口を開いた。
「じゃあ」
声は低かった。
昨日みたいに怒鳴ってはいない。
そのぶん。
逃がす気もなさそうだった。
「最初から話してもらおうか」
セレスティーナが首を傾げる。
「何をでしょう?」
アレクサンダーのこめかみが、ぴくりと動いた。
「昨日の朝からだ」
「昨日の朝……」
セレスティーナは少し考えた。
「迷宮へ行ったことでしたら――」
「それだ」
「はい」
アレクサンダーは一度息を吐いた。
怒鳴らないようにしているのだと、ミアにも分かった。
「なんで行った」
セレスティーナは、きょとんとした。
「九階層の魔物を減らしておこうと思いまして」
「それは聞いた」
「では……」
「その前だ。どうして、お前が一人で魔物を減らしに行くことになった」
セレスティーナは今度は少し長く考えた。
答えを隠しているようには見えない。
本当に、どこから説明すればいいのか考えているだけらしかった。
「前の晩に、夢を見ました」
「夢?」
ミアが聞き返す。
「はい」
セレスティーナは頷いた。
「次の演習の最後の日に、わたくしたち五人が九階層へ入る夢です」
四人の顔が変わった。
「九階層には、前日よりもずっとたくさんの魔物がおりました。それで、戦闘が長くなって」
そこで一度、アレクサンダーを見る。
「殿下がお怪我をなさっていました」
「俺が?」
「はい」
「……それで?」
「フェリシアンヌ様が、とても泣いていらっしゃいました」
ミアは黙った。
セレスティーナの方は、ただ事実を説明している。
「それから、フェリシアンヌ様が殿下を治療なさって。光の魔法をお使いになっていました」
「光……」
ミアが自分の手を見る。
昨日、セレスティーナの傷を少しだけ戻した、あの光。
「日付も、次の演習の日でした」
トビアスが眼鏡を押し上げた。
「それを、どうしてそんなにはっきり分かるんだ」
「……」
セレスティーナが口を開く。
声が出なかった。
一度、唇を閉じる。
「ああ」
小さく呟いた。
「申し訳ございません。そこは、うまくお話しできないようです」
それ以上、トビアスは聞かなかった。
医務室の中が少し静かになる。
アレクサンダーが言った。
「で。夢を見たから、九階層へ行った?」
「はい」
「夢だぞ」
「はい」
「現実になるかなんて分からないだろ」
「そうですね」
あっさりと同意した。
その返事に、アレクサンダーの方が詰まった。
「だったら」
「ですが、何も起きなければ、それでよいのではないかと思いました」
セレスティーナは穏やかに続けた。
「九階層に魔物が増えていなければ、そのまま帰ればよいだけですから」
誰も何も言わない。
「もし夢の通り増えていたなら、先に減らしておけば、次の演習が楽になります」
そして少し嬉しそうに。
「それに、殿下もお怪我をなさらずに済みます」
アレクサンダーが目を閉じた。
「……なんで俺たちに言わなかった」
「申し上げましたら、皆様もご一緒に来てくださるかもしれませんので」
「当たり前だろ」
「それでは、意味がございません」
「は?」
「夢の中では、五人で九階層へ入りました」
セレスティーナは不思議そうに説明した。
「ですから、皆様がいらっしゃらなければよいのではないかと」
ミアの眉が寄った。
「……それで、一人で?」
「はい」
「私たちを連れて行かなければ、アレク様が怪我をすることも、私が……泣くこともないから?」
「はい」
綺麗な理屈だった。
その計算の中に。
セレスティーナ本人だけがいなかった。
ミアは膝の上で手を握った。
「セレスティーナ様」
「はい」
「自分が怪我することは?」
「治せますので」
即答だった。
「実際、治せてなかったじゃないですか」
「……少し、魔力が足りませんでした」
「肩も外れてたんですよね」
「はい」
「立てなくもなった」
「はい」
「意識もなくなりました」
「……はい」
だんだん返事が小さくなる。
ようやく、自分が叱られていることだけは分かってきたらしい。
「それでも」
ミアは続けた。
「みんなが怪我するより、自分一人で行った方がいいって思ったんですか」
セレスティーナは少し考えた。
「……はい」
ミアは天井を見た。
今泣くのは嫌だった。
ミアが泣くからと、そんな夢を見たからと一人で迷宮に入る人だ。次はどんなことを考えるのか分からない。
「フェリシアンヌ様?」
「ちょっと、待ってください」
「はい」
ミアが黙っている間に、アレクサンダーが口を開いた。
「俺が昨日、あんなこと言ったからか」
「十階層のことでしょうか?」
「そうだ」
セレスティーナの表情が、少し明るくなった。
それを見て、アレクサンダーの顔がまた曇る。
「嬉しかったです」
「……何が」
「殿下が、わたくしなら一人でも十階層まで行けるのではないかと仰ってくださったことが」
「冗談だって言っただろ」
「はい」
「ミアも行くなって言った」
「はい」
「お前も分かったって言った」
「はい」
「じゃあなんでだ」
セレスティーナは少し首を傾げた。
「その時点では、行くつもりはございませんでした」
アレクサンダーが止まった。
「……その時点では?」
「はい。夢を見ましたので」
なるほど。
約束を破ったつもりすらないのだ。
昨日の時点では、本当に行くつもりはなかった。
そのあと事情が変わった。
九階層で危険が起きると分かった。
ならば、その危険を取り除けばいい。
「それに」
セレスティーナが続ける。
「十階層へ行こうとしたわけではございません」
四人が一斉に見た。
「……は?」
「目的は九階層でした」
「いや、お前」
アレクサンダーが額を押さえた。
「その違い、今なんか意味あるか?」
「ございますよ?」
心底不思議そうだった。
「フェリシアンヌ様には、一人で十階層へ行ってはならないと――」
「一人で行ったら駄目って言いました!」
ミアが思わず遮った。
「十階層限定じゃないです!」
セレスティーナが目を丸くした。
「……そうだったのですか?」
「そうです!」
「それは、申し訳ございません」
「だから!」
声を上げかけて、ミアは止まった。
息を吸う。
吐く。
医師がこちらをちらりと見ている。
騒ぐなと言われたばかりだった。
「……もういいです」
「はい」
「よくないですけど、今はいいです」
「はい……?」
アレクサンダーはまだ額を押さえていた。
ジークバルトはずっと黙っている。
トビアスは寝台の横で腕を組み、セレスティーナを見ていた。
「で」
今度はトビアスが言った。
「九階へ入ったら、本当に魔物が増えてたんだな」
「はい」
「どのくらい」
「分かりません。…見渡す限り、いたように思います」
「それで帰らなかった」
「減らしに参りましたので」
「多すぎると思った時点で?」
「……」
セレスティーナが考える。
「少し、予定より多いとは思いました」
「少し」
「はい」
トビアスは眼鏡を外した。
拭きもしない。
ただ手に持ったまま、しばらく黙った。
「生命力を魔力に変え始めた時点では?」
「その群れを倒しましたら、休むつもりでした」
「一回目で?」
「はい」
「二回目は?」
「時間がありませんでした」
「三回目」
「……背後から、きたので」
「四回目」
「…………」
「五回目」
セレスティーナは目を伏せた。
「…覚えて、おりません」
トビアスが眼鏡を掛け直した。
「そうか」
それだけだった。
なぜか、その言い方が一番怖かった。
ミアはセレスティーナを見る。
「休む練習、しましたよね」
「はい」
「膝が震えたら」
「十分休みます」
「手が震えたら」
「十分」
「冷たい汗が出たら」
「十分休みます」
全部覚えている。
「昨日も?」
「休みましたよ」
少し嬉しそうに言った。
「八階層までは、とても上手にできたと思います」
ミアは顔を覆った。
「そこじゃない……」
「?」
「魔物に囲まれて休めないところまで行っちゃ駄目なんです」
セレスティーナが黙った。
「休める状態を残しておくんです。休めなくなる前に戻るんです」
「……なるほど」
納得したように頷く。
本当に、今初めて知ったような顔だった。
ミアは絶望しかけた。
自分はこの半月で。
この人に。
危険になる前に休む方法を教えたつもりだった。
実際に教えたのは。
危険になっても十分休めば、また動いてよい。
だったらしい。
「フェリシアンヌ様」
「なんですか……」
「次からは、休めない状況になる前に戻るようにいたします」
にこりとする。
改善したつもりのようだ。
「次はありません」
ミアは即答した。
「……はい?」
「一人で迷宮に行く次は、ありません」
セレスティーナは少し困った。
「ですが、必要な場合は」
「ありません」
「もし――」
「ありません」
三度目は言わせなかった。
しばらく見つめ合う。
やがてセレスティーナの方が折れた。
「……承知いたしました」
今度のそれを、どこまで信用してよいのか。
ミアにはもう分からなかった。
重たい沈黙が落ちる。
ふと、セレスティーナが息をついた。
そこで医師が立ち上がった。
「そこまでにしておけ」
四人が振り返る。
「患者が起きたばかりだと言っただろう」
「……すみません」
「今日は寝かせる。話の続きは元気になってからにしろ」
セレスティーナがすぐに言った。
「もう、十分元気です」
医師が無言で見る。
「……」
セレスティーナは大人しく手伝われて布団へ戻った。
ミアは思わず、少し笑った。
医師が、とても頼もしく見えた。
横になったセレスティーナの顔を見る。
その顔にはまだ血の気が足りない。
昨日よりましになっただけで、元気には程遠く見えた
「あの、皆様」
布団の中から、セレスティーナが言った。
「昨日は本当に、ありがとうございました」
アレクサンダーが変な顔をした。
「……何に対してだ」
「迎えに来てくださったことです」
「誰のせいで行ったと思ってる」
「わたくし、ですね」
「分かってるじゃないか!」
医師が睨んだ。
アレクサンダーが口を閉じた。
セレスティーナは少し笑った。
そして。
「でも」
小さく続けた。
「殿下がお怪我をなさらなくて、良かったです」
今度こそ。
誰も。
何も言えなかった。




