3-8 いない
その朝、ミアはいつもより少し遅く目を覚ました。
今日は演習の休養日だった。
三日間続けて迷宮へ潜ったあとの二日休み。そのうち一日は記録の整理や装備の点検があるものの、今日は休養日なので集合する必要もない。昨日までの疲れも残っていたから、ミアも朝食を済ませたあとは、部屋でゆっくりするつもりだった。
だから最初は、何もおかしいと思わなかった。
セレスティーナの姿を見なくても。
普段から休養日に会う約束をしているわけではない。最近は昼食を一緒に取ることが増えたとはいえ、毎日ではない。
けれど、時間が経つほど、昨日の会話が頭の端に引っかかった。
――お前一人なら十階まで行けるんじゃないか。
アレクサンダーの、あの一言。
すぐに冗談だと訂正した。
ミアも念を押した。
「一人で行ったら駄目ですからね」
セレスティーナは確かに、
「承知いたしました」
と答えた。
だから大丈夫。
そう思うのに。
昼前になったところで、ミアはとうとう立ち上がった。
確認するだけだ。
部屋にいるなら、それでいい。
公爵令嬢用の寮棟へ向かい、セレスティーナの部屋を訪ねる。
扉を開けたのはエマだった。
「フェリシアンヌ様?」
「あの、セレスティーナ様、いらっしゃいます?」
「お部屋にはいらっしゃいませんが」
心臓が、ひとつ大きく鳴った。
「……朝から?」
「はい」
「朝ご飯は?」
「召し上がっておりません」
ミアは部屋の中を見た。
寝台は空いている。
いつもの訓練用の外套がない。
「……まさか」
口から出た。
いや。
そんなわけない。
きちんと止めた。
本人も承知したと言った。
第一、昨日一日迷宮へ潜ったばかりなのだ。
今日くらい休む。
普通は。
その言葉を頭の中で繰り返して、余計に嫌な感じがした。
セレスティーナに、普通という言葉が何度役に立っただろう。
ミアはすぐに踵を返した。
アレクサンダーを見つけたのは、食堂の前だった。
ジークバルトとトビアスも一緒にいた。
「アレク様」
「なんだ?」
「セレスティーナ様がいません」
アレクサンダーが眉を寄せた。
「……は?」
「朝から部屋にいないそうです。朝ご飯も食べてません」
少しだけ空気が変わった。
それでもアレクサンダーは、まだ半信半疑だった。
「いや、まさか」
その言葉に、ミアは何も返さなかった。
アレクサンダー自身も、すぐに黙った。
昨日のことを思い出したのだろう。
「……俺、冗談だって言ったよな」
「言いました」
「お前も止めたよな」
「止めました」
「本人も分かったって」
「承知いたしました、って」
四人とも黙った。
それでも、その時点ではまだ。
本当に迷宮へ行ったとまでは思いたくなかった。
学院内を探した。
図書室。
食堂。
訓練場。
温室。
礼拝堂。
教室棟。
教師にも確認した。
誰も見ていない。
時間だけが過ぎた。
正午を過ぎたので、ひとまず人気の少ない食堂で四人で机を囲む。
食べている間も、ミアは食堂の入口を何度も見た。
何を食べているのかもよく分からず、機械的に口に運んでいた。
他の三人も似たような状況だった。
食べ終わった。
来ない。
白いパンと牛乳を持って。
いつものように少し嬉しそうに。
来ない。
「……アレク様」
呼ぶと、アレクサンダーはもう何も言わなかった。
顔が強張っていた。
「迷宮を、確認しましょう」
トビアスが言った。
誰も反対しなかった。
学院側へ事情を話し、四人は最低限の装備を整えた。
夏季演習の班は例年通り四つほどだったが、班ごとに道筋は違う。当然ながら、ミアたちの普段通っている行程には誰も居ないはずだ。
もしセレスティーナが入ったのなら。
一人だ。
その事実を考えるだけで、ミアの胃が冷たくなった。
一階層。
二階層。
最初は普段と何も変わらなかった。
けれど進むにつれて、違和感が出てきた。
「少ないな」
ジークバルトが言った。
魔物が、明らかに少ない。
昨日までなら、一階層進む間に何度か遭遇していたはずなのに、今日はほとんど現れない。
現れても、数体だけだった。
しかも途中から、見覚えのある痕跡が増えてきた。
壁に穿たれた小さな穴。
床に残る細い冷気。
外殻だけが焼けた跡。
「……セレスティーナ様」
ミアが呟いた。
そこからは速かった。
魔物が少ない。
出てきても、すでに数を減らされている。
四人で戦えば、足を止めるほどでもなかった。
いつもなら休憩を挟む場所も、今日はほとんど通り過ぎた。
五階。
六階。
七階。
進むほど、痕跡が増えた。
小さな氷の穿孔。
焼けた石。
壁についた焦げ。
倒された魔物が消えたあとに残る、薄い魔力の揺らぎ。
全部、知っている。
八階層。
昨日よりずっと早く着いた。
九階層へ続く階段が見える。
「九階層ですね」
トビアスが言った。
昨日は、この先へは入っていない。
ミアは走り出しかけた。
ジークバルトが腕を掴む。
「先頭は俺だ」
ミアは黙って頷いた。
階段を下りる。
九階層。
一歩入って。
四人とも止まった。
静かだった。
不自然なくらいに。
魔物がいない。
代わりに、戦った跡だけが残っている。
壁。
床。
削れた石。
焦げ。
何かが強くぶつかったような亀裂。
そして。
「血が、」
ミアが言った。
床に、小さな赤黒い跡があった。
一滴。
その少し先に、もう一滴。
さらに先。
ミアは思わず走りだした。
「ミア!前に出るな!」
アレクサンダーたちも慌てて後を追う。
「セレスティーナ様!」
返事はない。
血の跡を追う。
多くはない。
けれど、途切れない。
途中からは壁にもついたのか、明らかに手をついたような形。
細い指の跡が、赤黒く乾いている。
曲がり角のその先。
「――いた」
誰かが言った。
思わず、息を飲んで足を止める。
通路の壁際に、セレスティーナが座っていた。
最初は、人形が置かれているようにも見えた。
背中を石壁へ預け、片脚を投げ出している。
もう片方の膝は中途半端に曲がり、身体はわずかに右へ傾いていた。
いつもなら真っ直ぐに伸びている背筋は、完全に崩れている。
血に汚れた顔は白かった。
もともと色白なのに、唇までほとんど血の気がない。
額とこめかみには冷たい汗が浮かび、濡れた髪が頬へ何本も張りついている。
紫色の瞳は開いていた。
けれど、こちらに気づくまでに少し時間がかかった。
魔物を警戒してか、懸命に上げようとしたであろう震える右腕が、人影を認めて落ちた。
服もひどい状態だった。
訓練用の上着は、左肩から脇にかけて大きく擦れている。
肩の布は破れ、左腕は身体の横へ力なく落ちていた。
脇腹は裂けた布が黒く血を吸っている。
右の太腿も同じだった。
腿から膝へ、乾いた血が筋になっている。
傷そのものは、妙に閉じていた。
脇腹にも。
太腿にも。
赤く腫れた皮膚の上に、細い線だけが残っている。
右手の指先は血と煤で汚れていた。
下がった右腕が細かく震えている。
止めようとしても止まらないように、小さく揺れていた。
靴にも血がついていた。
片方は乾いた赤に土埃が張りついて、元の色が分からない。
その姿のまま。
セレスティーナは四人を見た。
そして。
少しだけ、安心したように笑った。
「……フェリシアンヌ様」
ミアは駆け寄った。
「セレスティーナ様!」
しゃがみ込む。
近くで見ると、もっとひどかった。
頬に小さな擦り傷。
首元にも乾いた血。
袖にも細い裂け目がいくつもある。
それでも、セレスティーナ本人はいつものような声で言った。
「申し訳ございません」
「なんで謝るんですか!」
「今日は、皆様のお休みの日でしたのに」
「そういうことじゃないです!」
ミアは大きく服の破れた肩に触れた。
「……っ」
触れられた瞬間、左肩が跳ねた。
「今、痛かったですよね?」
「もう戻しましたので、大丈夫です」
「戻した?」
「外れておりましたので」
ミアは自分の顔色が変わるのが分かった。
「自分で?」
「はい」
「…………」
今度は脇腹を見る。
服が裂けている。
血は止まっているようだが、服は元の色が分からないくらい色が変わっている。
右の太腿にも同じものがあった。
「これも?」
「治癒魔法で治しました」
「治ったように見えませんけど」
「魔力が足りなくて…、けれど表面は閉じましたので」
「表面って何ですか!?」
声が震えた。
その声だけは、ひどく穏やかだった。
立ち尽くしていたアレクサンダーたちが歩み寄ってくる。
「セレスティーナ!」
セレスティーナが声の方を見た。
ほんの少し、嬉しそうに笑った。
「殿下」
アレクサンダーが足を止めた。
「お前、なんでここにいる」
「九階層の魔物を、減らしておこうかと」
「は?」
「次の演習で、殿下がお怪我をなさるので」
何事もないように言われた言葉の意味が分からない。
アレクサンダーが眉を寄せた。
「何言ってるんだ」
「……申し訳ございません」
「だから謝るな!」
今度はアレクサンダーが怒鳴った。
セレスティーナは目を丸くした。
「アレク様、今は…」
セレスティーナは普通の声で話しているようで、時折深く息を付いている。
聞きたいことが多いのはミアも同じだが、今はそれより先にすべきことがあった。
「魔力が無いのか?」
トビアスが横から聞いた。
「途中で魔法を使えなくなりまして。何度かは奥から引き出して使ったのですが」
「まさか…、生命力変換を使ったのか」
「ああ、そう呼ぶのでしたね」
「何度も使ったと言ったな!?何回だ!?」
普段飄々とした態度のトビアスの顔色が変わった。
セレスティーナは少し考える顔をして答えた。
「四、五回程度かと」
そこで、誰も何も言えなくなった。
ジークバルトは少し離れた場所で、床を見ていた。
消えかけている魔物の痕跡。
通路の奥まで続いている。
「これを全部、一人で?」
「はい」
「何体だ」
「途中から、数えておりません」
ジークバルトが黙った。
セレスティーナは少し困ったように口を開いた。
「でも。きちんと休みました」
四人で思わず顔を見合わせる。
「フェリシアンヌ様に教えていただいた通りに。膝が震えたら十分、手が震えたら十分、お水も、行動食もいただきましたし――」
「……セレスティーナ様」
ミアは、なんとか名前を呼んだ。
「はい」
「それ、今日、何回やりました?」
「……分かりません」
ミアの胸がぐっと詰まった。
「……私。そんな使い方してって、教えたんじゃないです」
セレスティーナが驚いたように目を見開いた。
誰も、何も言えない。
静かな通路に、セレスティーナの浅い呼吸だけが聞こえた。
ミアは汚れた右手をそっと握った。
「セレスティーナ様」
「はい」
「帰りましょう」
「……少し休めば、歩けると思います」
「動いちゃダメです」
セレスティーナが少しだけ目を瞬いた。
「ーージーク」
立ち尽くしていたアレクサンダーが、声を出した。
「頼めるか」
「ああ」
ジークバルトがかがみこんだ。
冷たい石壁に完全に背中を預けているセレスティーナの傷に触れないよう、慎重に身体を抱き起こす。
持ち上げられる前に、セレスティーナも右手を床につこうとした。自力で立とうとでもしたのだろう。
「そのままでいい」
ジークバルトが言った。
セレスティーナは素直に動きを止めた。
その身体が床から離れる。
ジークバルトの腕の中に収まる。
「……申し訳ございません」
「いい」
短い返事だった。
四人はすぐに戻り始めた。
アレクサンダーが先頭。
トビアスが周囲を警戒する。
ミアはジークバルトの横についた。
来たときと同じように、魔物は少なかった。
けれど帰り道は、行きよりずっと長く感じた。
数歩進んだところで。
セレスティーナの頭が、ふっと傾いた。
「セレスティーナ様?」
返事がない。
ミアが顔を覗き込む。
紫色の瞳は閉じていた。
身体から、すっかり力が抜けている。
「セレスティーナ様!」
呼んでも反応しない。
ジークバルトが抱き直す。
「完全に意識がない」
その一言で、全員の足が速くなった。
「急ぐぞ」
アレクサンダーが言った。
もう誰も返事をしなかった。
半月かけて覚えた連携のまま。
一人を抱えた四人は。
できるだけ早く、地上へ戻った。




