3-7 夢の中の夢
一人で潜る迷宮は、思っていたよりずっと静かだった。
八階層までは、驚くほど順調だった。
五人で進むときには、前衛が敵を引き受けるのを待ち、トビアスが詠唱を始めればその射線を空け、ミアが遅れないよう歩調を合わせる。休憩も全員の状態を見て決める。
今日は、それがない。
魔物を見つければ、その場で倒す。通路が空けば、そのまま進む。昨日通ったばかりの道だから迷うこともなかった。
「……やはり、一人ですと早いのですね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
昨日なら、この辺りに来る頃にはもう少し時間がかかっていた。
これなら九階層へ着いてからも、十分に余裕がある。
六階層を抜けたところで、一度足を止めた。
特に疲れているとは思わない。
身体も動く。魔法も問題なく使える。
けれど、右膝へ視線を落とした。
ほんの少し、震えている。
「……あ」
フェリシアンヌ様に言われたことを思い出す。
膝が震えたら休む。
セレスティーナは素直に壁際へ腰を下ろした。
水筒を開け、水を飲む。携帯食も少し食べた。
十分。
時計を見て、きちんと待つ。
何もしないで座っているのは少し落ち着かなかったが、フェリシアンヌ様がそうした方がよいと教えてくださったのだ。
なら、そうするべきだろう。
十分後。
立つ。
膝はもう震えていない。
「大丈夫です」
少し嬉しくなった。
ちゃんとできた。
これなら、一人でも問題ない。
七階層。
八階層。
昨日よりもずっと早く進んだ。
途中で指先が少し震えたので、もう一度休んだ。
今度も十分。
水を飲む。少し食べる。立ってみる。
手を開いて、閉じる。
魔法を一つ試す。
小さな氷が、いつも通りの形で指先に生まれた。
問題ない。
セレスティーナは九階層へ続く階段の前に立った。
昨日は、ここで引き返した。
今日は違う。
階段を下りる。
一段。
また一段。
そして九階層へ足を踏み入れた瞬間。
夢で見た光景が、そのまま目の前にあった。
通路が、黒い。
数えきれないほどの魔物がいた。
一群ではない。
奥にもいる。
さらにその奥からも、こちらへ向かってくる。
夢の中と同じだった。
「……本当に」
思わず息を呑んだ。
怖い、とはあまり思わなかった。
それよりも。
間に合った。
その気持ちの方が大きかった。
このままなら、次の演習日に殿下方がここへ来る。
そして戦闘が長引く。
殿下がお怪我をなさる。
フェリシアンヌ様が泣く。
ならば。
今、減らせばいい。
「参ります」
誰もいないのに、そう言って。
セレスティーナは右手を上げた。
最初の十体。
氷。
次。
十体。
さらに次。
白い線が通路を走り、前方の魔物が次々と崩れていく。
ここまでは、いつも通りだった。
三十。
四十。
五十。
まだいる。
奥から出てくる。
背後からも現れて、少しずつ立ち位置を動かした。
一度に狙える数には限界がある。
狙う。
撃つ。
次。
撃つ。
それでも距離が縮まってくる。
「……少し、多いですね」
独り言のように呟いた。
人型だけではない。
四足型。
外皮の硬い個体。
天井近くを飛ぶ小型種。
混じっている。
氷だけでは足りない。
青白い火球を混ぜる。
硬い外殻へ同じ場所を連続して撃ち込む。割れたところへ氷を通す。
一体。
二体。
三体。
その間にも、別の群れが距離を詰めてくる。
右から四足型が飛び込んだ。
避けることはできる。
けれどその先では、三体の人型がこちらへ駆けていた。
先にそちらを落とす。
セレスティーナは半歩だけ身体をずらし、三本の氷を放った。
同時に。
鋭い爪が脇腹を掠めた。
布が裂ける。
遅れて、熱いものが流れた。
「……」
一瞬だけ視線を落とす。
血は流れている。
けれど傷は浅い。
足は動く。
なら、今は問題ない。
四足型がもう一度こちらへ向き直るより先に、その眼窩へ氷を撃ち込んだ。
倒れる。
次。
前方から、硬い殻に覆われた大型種が突進してくる。
正面から止めるには魔力がかかる。
横へ避ければよい。
そう判断して踏み出した、その瞬間。
足元に倒れていた魔物の腕を踏んだ。
ほんの少し、重心がずれた。
避けきれない。
大型種の肩が半身へぶつかった。
身体が壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃。
左肩の奥で、何かがずれた。
腕が垂れる。
上がらない。
「……外れましたか」
確認する暇はなかった。
大型種が振り返る。
右手は使える。
なら、まだ戦える。
青白い火球を四発。
同じ一点。
外殻が割れる。
五発目を撃ち込む。
大型種が倒れた。
左腕は動かない。
けれど、魔法は片手で使える。
問題ない。
奥からまた来る。
今度は数が多かった。
人型の間を、小型の魔物が走り抜けてくる。
照準を分ける。
八体。
六体。
三体。
撃つ。
一体が死角へ入った。
気づいたときには遅かった。
低い位置から刃のような爪が走り、右の太腿を裂いた。
膝が一瞬沈む。
「……っ」
初めて、声が漏れた。
けれど倒れない。
傷は深くない。
歩ける。
なら後で治せる。
その一体を落とす。
さらに二体。
三体。
次第に、魔法の出が重くなった。
指先が冷たい。
右膝が震えている。
呼吸も、時折深くなる。
フェリシアンヌ様に言われた。
ここで休む。
そうだった。
「十分……」
休まなければ。
そう思った。
けれど、目の前には、まだ魔物がいる。
ここで座れば、その十分の間に距離を詰められる。
ならば、目の前だけ。
あと少し減らしてから。
ほんの少しだけ。
身体の奥から、別の力を引き出す。
これは、ずいぶん前からできることだった。
魔力を使い切っても、身体の奥にはまだ力が残っている。そこから引き出せば、ある程度術を続けることができる。
後になって、よく似たものを生命力変換と呼ぶのだと習った。
魔力を失った術者が命の危機に瀕した際、生命力を魔力へ転換して術を行使する。身体への負担が大きく、原則として使用してはならない。
けれど、セレスティーナが昔から行っていたものは、そこまで大袈裟なものではない。
少し身体が重くなるだけだ。
幼い頃、修練の課題がどうしても終わらない日に、時折使っていた。翌日にはいつも通り動けたのだから、今も一度くらいなら問題ないだろう。
この群れを片づけて、休むまで。
一度。
氷が出た。
十数体の魔物が貫かれて消えていく。
まだ途切れない。
魔力が途切れた。
二度、三度繰り返しても休む時間は作れない。
視界の端が少し暗くなった。
けれど身体は動く。
四度目。
魔法はまだ出る。
なら、使える。
五度目。
一瞬だけ、音が遠くなった。
それでも術式は崩れなかった。
撃つ。
魔物が倒れた。
やがて。
通路が静かになった。
動いている魔物が、いなくなった。
セレスティーナはしばらくその場に立っていた。
本当にいない。
奥からも来ない。
「……終わりました」
声に出してから、ゆっくり息を吐く。
右手が震えている。
膝も。
こめかみには冷たい汗が浮かんでいる。
「休憩ですね」
今度こそ。
そう思った。
けれどその前に、身体の状態を確かめる。
脇腹。
右脚。
左肩。
戦闘中に受けたものは、その三つが大きい。
脇腹の傷は血が流れている。
太腿も同じ。
左肩は外れている。
まず、血を止める。
残っている魔力を集める。
もう多くはない。
それでも、治癒魔法一回分くらいなら。
水と地。
裂けた皮膚を寄せる。
血管を閉じる。
脇腹。
次に太腿。
痛みは残る。
深いところまで綺麗に治すほどの魔力も技術もない。
けれど表面は閉じた。
血も止まっている。
「よかった」
これなら服を替えれば、すぐには分からないだろう。
問題は左肩だった。
腕が上がらない。
治癒魔法で関節まで戻す余裕はない。
なら、自分で戻す。
セレスティーナは壁へ左肩を預けた。
右手で腕を支える。
位置を確認する。
息を吸う。
一度で。
体重をかけた。
鈍い音。
視界が白く弾ける。
身体が一瞬、言うことを聞かなくなった。
それでも数秒待てば、また頭が働いた。
左手を開く。
閉じる。
腕を少し持ち上げる。
動く。
「大丈夫です」
帰れる。
九階層を戻る。
八階。
七階。
途中で休めばいい。
水もある。
携帯食も残っている。
フェリシアンヌ様に教えていただいた通りにすればいい。
それに。
治癒魔法を使うための魔力も、ぎりぎり残せた。
もし帰り道でまた傷を負っても、最低限は処置できる。
きちんと配分できた。
そう思って。
セレスティーナは一歩を踏み出そうとした。
足が動かなかった。
「……あら?」
右足へ力を入れる。
膝が崩れる。
床へ手をついた。
右腕も、身体を支えきれない。
そのまま座り込んだ。
「……」
少し休めばいい。
そう思った。
以前も、そうだった。
立てなくなっても、十分ほど休めば動けるようになった。
今日は少し使いすぎただけだ。
時計を見る。
十分。
震える右腕で水を飲んだ。
動けるようになるには、きちんと、休まなければならない。
しばらく待って立とうとする。
無理だった。
脚に力が入らない。
右手の震えも止まらない。
左肩は戻したはずなのに、腕全体が重い。
頭は起きている。
目も見える。
考えることもできる。
なのに、身体だけが動かなかった。
「……おかしいですね」
困った。
帰らなければならない。
次の演習日までに、何事もなかったようにしておきたかった。
そうすれば皆、九階層で楽になる。
殿下は怪我をしない。
フェリシアンヌ様も泣かない。
それでよかったのに。
もう一度身体を起こそうとする。
できない。
そこでようやく、閉じたはずの傷に思い当たった。
そういえば、人間は血を失ったら動けなくなる。
先程まで動いていた。魔力は身体の奥から引き出せた。
だから、まだ大丈夫だと思った。
「……そうでしたか」
少し納得した。
魔力がないのではなく。
体力も、もうなかったのだ。
なら、しばらく休めば――。
そこまで考えたところで。
遠くから足音が聞こえた。
一つではない。
複数。
速い。
「……?」
魔物だろうか。
右手を上げようとした。
上がらない。
少し困った。
魔法も、もうほとんど出ない。
どうしようかと考えているうちに。
「セレスティーナ様!」
聞き慣れた声がした。
目を瞬く。
通路の奥から、フェリシアンヌが走ってきた。
その後ろにアレクサンダーとジークバルト。
トビアスもいる。
どうして。
今日は、お休みの日なのに。
四人とも、休んでいるはずなのに。
ミアが駆け寄ってくる。
「何してるんですか!?」
怒っている。
泣きそうな顔で。
セレスティーナは少し驚いて、それから申し訳なくなった。
せっかく休んでいただける日だったのに、来させてしまった。
自分がもう少し配分を上手くやれていれば、誰かを煩わせずにきちんと帰れたのに。
それが、ひどく申し訳なかった。




