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3-6 十階層

八月の夏季演習も、残すところあと二回になっていた。


最初の頃こそ一日を終えるだけで精一杯だった五人も、今では随分と迷宮に慣れている。前衛三人が敵を引き受け、セレスティーナが周囲の魔物を減らす。数が多ければトビアスの広範囲魔法を先に通し、硬い敵にはアレクサンダーが狙う場所を決める。セレスティーナは必要に応じて加速や筋力強化を重ね、本当に危ない一撃だけを氷や火で潰した。


誰が何をするのか、いちいち相談することも減っていた。


そのぶん、進める距離も長くなった。


三日目の演習を終えた夕方。


ブリーフィングルームの机いっぱいに地図を広げ、五人は今日の記録を確認していた。


「ここまで来たんだよな」


アレクサンダーが地図の一点を指で叩く。


九階層の入口。


その先には、まだ十分に調べられていない九階層の通路が伸びている。さらに奥には十階層へ続く階段があるはずだった。


学院の夏季演習では、一年生は浅い階層を中心に活動する。十階層まで到達するのは、例年なら二年生になってからだった。


「今日、九階には入れたんですよね」


ミアが地図を覗き込む。


「入口だけな」


トビアスが答えた。


「あと二、三時間あれば、もう少し先まで見られただろうが」


「無理だ」


アレクサンダーが椅子の背にもたれた。


「帰れなくなる」


実際、その判断自体は正しかった。


九階層へ下りた時点で、帰還予定時刻までの余裕がなくなっていた。無理をすればさらに進めただろうが、翌日の疲労まで考えれば撤退するべきだった。


ジークバルトも頷く。


「次はもう少し早く九階へ到達できるだろう。だが、十階となると厳しいな」


「今年行けたら、ちょっとすごかったんですけどね」


ミアは少し残念そうに言った。


一年生のうちに十階層。


絶対に達成しなければならないものではない。それどころか、教師から求められてすらいない。


ただ、もう少しで手が届きそうなのだ。


届きそうなら、行ってみたい。


その程度の話だった。


「行きだけなら行ける」


トビアスが言った。


「帰りを考えなければな」


「それ、行けるって言わないですよ」


「知ってる」


ここ数回、五人は十階層へ到達するために、細かな工夫を重ねていた。


休憩場所を変えた。


戦闘後の確認時間を短縮した。


魔物の少ない通路を記録し、次の探索では迂回する。


セレスティーナにすべて倒させれば、確かに進行は速い。けれど三日目まで同じ調子でやれば、以前のように帰還後立てなくなる可能性がある。


そもそも演習の意味が皆無になる。


最近ではミアがかなり早い段階で止めるようになっていた。


膝が震えたら休む。


指先に細かな震えが出たら休む。


魔法の直後に、こめかみへ冷たい汗が浮かんだら休む。


どれか一つなら少し様子を見る。二つ重なれば最低十分休憩する。


セレスティーナ本人よりも、ミアの方がよほど彼女の残り体力に詳しかった。


その管理を入れるようになってから、セレスティーナが帰還後に動けなくなることはなくなっている。


安全になった。


その代わり、進める距離にはどうしても限界がある。


「惜しいんだよなあ……」


アレクサンダーが地図を見ながらぼやいた。


今日も疲れている。


三日連続の最終日だ。ジークバルト以外は、程度の差こそあれ全員に疲労があった。


特にアレクサンダーは午後から何度も足が重いと言っていたし、トビアスも最後の一時間はほとんど大きな魔法を使わなかった。


その横で、セレスティーナだけは姿勢よく座っていた。


もちろん、ミアにはもう分かる。


完全に元気なわけではない。


さきほどから座ったまま、何度か僅かに重心を整えている。


普段のセレスティーナならば、一度腰を下ろしたら手本のような体勢を崩さない。


けれど動けないようなところには程遠い。


今日も、うまく止められた。


「お前なんか、最後まで余裕そうなのにな」


アレクサンダーがセレスティーナを見る。


「はい?」


「いや」


地図へ視線を戻す。


「休憩さえちゃんと取って体力さえあれば、魔力はまだ残ってるだろ?」


「はい。まだ使用できます」


「だったら、お前一人なら十階まで行けるんじゃないか」


軽い調子だった。


深く考えた言葉ではない。


今日一日歩いて疲れて、あと少しなのに届かないことが面白くなくて、ただ口から出ただけだった。


けれど。


セレスティーナの目が、ぱっと明るくなった。


「わたくしが、一人で、でございますか?」


「アレク様」


ミアが即座に遮った。


声が低い。


アレクサンダーもすぐに気づいた。


「あー……いや。今のは冗談だ」


「ですよね?」


「分かってるって」


「セレスティーナ様もですからね」


ミアが念を押す。


セレスティーナは少しだけ目を瞬いてから、微笑んだ。


「…はい」


「一人で行ったら駄目ですからね」


「承知いたしました」


きちんと返事をした。


だから、その場ではそれで終わった。


アレクサンダーも、すぐ別の話へ移った。


次回は九階層までの到達時間をもう少し縮められないか。


最後の二回の演習で、どこまで進めるだろうか。


そんな、いつもの振り返りだった。


けれどセレスティーナは、少しだけ嬉しかった。


殿下は。


自分なら、一人で十階層まで行けるのではないかと。


そう思ってくださった。


冗談だったらしい。


ミアにも止められた。


だから、そのまましてはいけないことなのだろう。


それでも。


そんなことを言っていただいたのは、初めてだった。


自分一人なら、できるのではないか。


殿下がそう思ってくださった。


それだけで、その日の夜は、いつもより少し幸せな気持ちで眠りについた。


そして、夢を見た。


また、あの夢だった。


セレスティーナの夢を見るずっと前に、ちーちゃんと読んだ、あの漫画。


長い間、思い出そうとしても輪郭しか浮かばなかったはずなのに、突然、目の前へ本そのものを開かれたように鮮明になる。


白い紙。


黒い枠線。


色のついた絵。


頁をめくっている感覚すらないのに、場面が次々と進んでいく。


夏。


学院。


地下迷宮。


五人がいた。


アレクサンダー。


ジークバルト。


トビアス。


フェリシアンヌ。


そして。


セレスティーナ。


今の自分とは違う。


目を細め、少し苛立った顔でアレクサンダーの後ろを歩いている。


漫画の中のセレスティーナは、皆から嫌われていた。


自分もまた、皆を嫌っているようだった。


けれど、それでも五人で迷宮へ入っている。


頁の隅に、小さな文字が見えた。


王国歴三一五年八月。


一年生最後の演習。


日付まであった。


セレスティーナは夢の中で、その数字を見つめた。


知っている。


次の演習の日だった。


場面が変わる。


八階層を抜ける。


九階層へ下りる階段。


そこまでは、昨日見た景色とよく似ていた。


けれど。


九階層へ入った瞬間。


通路の奥が、黒かった。


魔物。


数えきれないほどの魔物がいた。


普段の演習で遭遇する一群とは違う。


通路を埋めるように、奥から次々と現れる。


『こんな数、聞いてないぞ!』


誰かが叫ぶ。


場面が切り替わる。


五人が戦っている。


数が多い。


倒しても、まだいる。


さらに奥から来る。


アレクサンダーが前へ出る。


ジークバルトも続く。


トビアスの炎が通路を焼く。


フェリシアンヌが補助を飛ばしている。


セレスティーナも魔法を使っていた。


けれど追いつかない。


九階層での戦闘が長引き、押し寄せる魔物に五人は押されるように奥へ進んでいく。


次の頁。


十階層へ続く階段が見えた。


その近くで、アレクサンダーが振り返る。


死角。


黒い爪。


血。


『アレク様!』


フェリシアンヌが叫ぶ。


アレクサンダーが倒れる。


腕から、肩から、赤いものが流れていた。


次の頁。


フェリシアンヌが泣いている。


震える手で傷に触れる。


これまで使えなかったはずの光が、指の隙間から溢れた。


白い光。


傷が消えた。


聖女の力が目覚める。


物語なら、きっと大切な場面だった。


王子が傷ついたことで、聖女が初めて本当の治癒の力に目覚める。


二人の関係が大きく変わる、小さな転機。


以前読んだときには、そのように思ったのかもしれない。


けれど今は。


血のついたアレクサンダーの顔と泣いているフェリシアンヌの顔の方が、目に残った。


そこで夢が途切れた。


セレスティーナは目を開けた。


暗い部屋だった。


しばらく天井を見つめる。


それから起き上がった。


日付を確認する。


合っている。


夢で見たのは、夏の最後の演習だった。


あと数日。


五人で迷宮へ入る最後の日。


九階層で、魔物が異常に増えている。


そこで戦闘が長引く。


その先で、殿下が怪我をする。


フェリシアンヌ様が泣く。


セレスティーナは、昨日のアレクサンダーの言葉を思い出した。


――お前一人なら十階まで行けるんじゃないか。


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


殿下は、自分ならできると思ってくださった。


本当は冗談だったらしい。


それでも。


九階層までなら、昨日すでに行っている。


そこに魔物が増えているのなら。


今日のうちに減らしておけばよい。


そうすれば次の演習では、皆が楽になる。


殿下は怪我をしない。


フェリシアンヌ様も、泣かなくていい。


十階層には行ってはいけないと言われた。


けれど、九階層なら、昨日も目の前まで行った。


一人で行って、九階層の魔物をできるだけ減らして帰ればいい。


それなら、できそうだった。


一人なら、五人で進むときとは違う。


後衛の歩調を待たなくていい。


トビアスの詠唱を待つ必要もない。


休憩の場所も、自分で決められる。


魔物の少ない道を選び、出てきたら最小限の力で倒せばいい。


それに、休むところも、もう教えていただいた。


足が震えたら、十分。


指先が震えたら、十分。


冷たい汗が出たら、十分。


フェリシアンヌ様が、何度も教えてくださった。


以前は分からなかったけれど、今ならできる。


きちんと休めばいいのだ。


なら。


今日、行ってしまえばいい。


次の演習日になる前に。


九階層の魔物を減らしておけば。


次の演習では、誰も嫌な思いをせずに、皆もっと楽に進める。


殿下が望んでいた十階層にも、もしかしたら届きやすくなる。


誰も困らない。


とてもよいことのように思えた。


今日は演習の休養日だ。


ほかの四人は、疲れて休んでいるだろう。


自分は、たくさん休ませていただいて、もう十分動ける。


ならば問題はない。


セレスティーナは寝台を抜け出した。


まだ夜明け前だった。


侍女を起こすほどでもない。


動きやすい服へ着替え、髪をまとめる。


水筒。


携帯食。


魔力回復用の薬。


地図。


必要なものを一つずつ確認していく。


以前なら、ただ行ったかもしれない。


けれど今は違う。


フェリシアンヌ様に、いろいろ教えていただいた。


お水は飲む。


食事も取る。


足が震えたら休む。


動けなくなってはいけない。


それさえ守れば大丈夫だ。


セレスティーナは最後に、学院の地下迷宮の地図を畳んだ。


目的は九階層。


次の演習日に、魔物が異常に増える場所。


そこを、少しだけ楽にしておく。


それだけだ。


「……大丈夫です」


誰もいない部屋で、小さく呟いた。


今日は一人だ。


誰にも歩調を合わせなくていい。


誰も守らなくていい。


自分の身体だけなら、ちゃんと見ればいい。


フェリシアンヌ様に教えていただいた通りに。


危なくなる前に、休めばいい。


それなら。


きっと、できる。


夜明けの学院は、まだ静かだった。


セレスティーナは誰にも告げず、一人で地下へ向かった。


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