3-4 三日目
夏季演習の目的は、魔物を倒すことだけではなかった。
学院の地下に広がる訓練用迷宮へ三日間続けて入り、ほぼ同じ行程を繰り返す。長時間歩き、戦い、警戒し、休憩を取り、再び歩く。そうして体力や魔力を一日で使い切るのではなく、翌日、その翌日まで動けるよう配分することも、演習のうちだった。
実戦になれば、今日だけ頑張ればよいとは限らない。
疲れているときほど判断を誤る。魔力が減れば普段なら失敗しない術式を崩し、足が重くなれば避けられる攻撃を受ける。三日目にも初日と同じ判断ができるか――それを見るための訓練でもあった。
初日は、何事もなく終わった。
何事もなく、と言ってよいのかについては、少々疑問が残ったが。
「……二百三十七」
ブリーフィングルームへ戻ってきたトビアスが、今日の討伐記録を見ながら呟いた。
「なんだ」
「セレスティーナが単独で倒した数だ」
アレクサンダーが嫌そうな顔をした。
それとは別に、前衛との共同戦闘で倒したものもいる。全部任せてみれば全部倒し、手を出すなと言えば本当に一切手を出さず、半分と言えばきっちり半分だけ処理する。
途中からアレクサンダーも面白くなったらしく、遭遇するたびに違う指示を出していた。
それでもセレスティーナは、一度も不満そうな顔をしなかった。
むしろ一日を通して、どんどん機嫌がよくなっていったように見えた。
演習が終わる頃にはアレクサンダーもトビアスもそれなりに疲れていた。ミアは足が重かったし、ジークバルトですら額には汗をかいている。
なのに。
「今日はたくさんのお役目をいただきまして、ありがとうございました」
セレスティーナだけが、朝と大して変わらない顔をしていた。
髪も多少は乱れている。頬にも汗はある。けれど背筋は伸びていて、歩調にも乱れがない。
なにより、とても嬉しそうだった。
「……お前、疲れてないのか?」
アレクサンダーが聞いた。
「はい。問題ございません」
迷いのない返事だった。
ミアは少しだけ気になって、
「セレスティーナ様、お水は飲みました?」
と尋ねた。
「先ほどいただきましたよ」
「じゃあいいです」
それなら、まあ。
本人が元気なのだから、いいのだろう。
二日目も、大きな違いはなかった。
朝、集合したセレスティーナは初日と同じように整っていた。
「昨夜は何時間寝ました?」
「六時間です」
「途中で起きたりしてません?」
「しておりませんよ?」
「朝ご飯は?」
「いただきました」
そこまで確認して、ミアは頷いた。
なら大丈夫。
二日目も同じ距離を歩いた。
同じくらいの回数、魔物と遭遇した。
セレスティーナは相変わらず、言われれば何でもやった。
アレクサンダーとジークバルトが前へ出れば側面を片づけ、トビアスが広範囲魔法を使うと言えばその範囲から敵を追い出さないよう誘導する。全部やれと言われれば、細い指を空中で滑らせるだけで氷の針が連続して飛び、魔物がばたばたと倒れていく。
「相変わらず気持ち悪い精度だな」
トビアスが言った。
「ありがとうございます」
「褒めてない」
セレスティーナは一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐにまた機嫌よく前を向いた。
二日目の終わりも、彼女は普通に歩いて帰った。
だから三日目の朝にも、ミアは特に心配していなかった。
疲れが溜まってきたのは、むしろアレクサンダーとトビアスの方だった。
「……足が重い」
昼の休憩で、アレクサンダーが珍しく弱音を吐いた。
「殿下、昨日飛ばしすぎなんですよ」
「お前にだけは言われたくない」
隣ではトビアスが壁にもたれ、無言で水を飲んでいる。
魔力はまだ十分残っている。ただ、二日間の歩行と戦闘の疲れが抜けきっていないのだろう。
一方、ジークバルトは元気だった。
「この程度なら問題ない」
「お前は黙れ」
「何故だ」
「腹が立つからだ」
ミアも足そのものは疲れていたが、まだ余裕はあった。
そもそも自分は緊急時の治癒を優先するため、戦闘中の魔力使用を抑えている。歩き続けるのはしんどいものの、動けなくなるほどではない。
そしてセレスティーナは。
「午後はもう少し奥まで参りますか?」
初日と同じ顔をしていた。
「……お前、本当に元気だな」
アレクサンダーがぼそりと言った。
「はい」
嬉しそうに返事をする。
ミアはパンを食べながら、じっとセレスティーナを見た。
少し汗はかいている。
でも顔色は悪くない。昼食も、教科書通りの味も素っ気もない行動食を持参してきちんと食べていた。水も先ほど飲ませた。
大丈夫なのだろう。
たぶん。
午後、予定していた最深部まで到達したところで、アレクサンダーは盛大に息を吐いた。
「よし。帰るぞ」
あとは来た道を戻るだけだった。
ただし当然ながら、帰り道にも魔物は出る。
最初の群れを前にして、アレクサンダーは剣へ手を伸ばしかけ――やめた。
「セレスティーナ」
「はい」
「帰りはお前がやれ」
ぱっと、セレスティーナの顔が明るくなった。
「かしこまりました」
「危なそうなら俺たちも出るからな」
「はい」
返事だけ聞けば、いたって普通だった。
最初の十七体は、二秒もかからなかった。
次は九体。
その次は二十四体。
細い氷の針が、ほとんど途切れることなく飛んでいく。
人型の魔物なら目や喉。四足型なら眼窩や口腔。硬い外皮を持つ相手には青白い火球を同じ一点へ叩き込む。
セレスティーナは派手な魔法を使わなかった。
大きく腕を振ることもない。
ただ歩みを止め、指先を滑らせる。
敵が倒れる。
「終了いたしました」
そして、また歩き出す。
ダンジョンの魔物が、倒してしばらくしたら消える仕組みでなかったら、人形のような公爵令嬢の背景は酷いことになっていただろうなと、場違いなことを考えるゆとりすらあった。
五度目の遭遇を終えたところで、ミアは少し気になった。
「セレスティーナ様」
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「もちろんです」
すぐに返事が来る。
「まだ問題なく魔法も使えますよ」
そう言って笑った。
本当に、楽しそうだった。
ミアは口を閉じた。
魔力を使いすぎているようには見えない。術の威力も、最初と変わっていない。
足取りもいつも通りに見える。
なら、大丈夫なのだろう。
七度目。
八度目。
九度目。
アレクサンダーは途中から完全に剣を抜かなくなった。
「……楽だな」
「殿下、それ言っちゃ駄目なやつじゃないですか」
「じゃあお前がやるか?」
「嫌です」
トビアスも詠唱する気配すらない。
「本人が嬉しそうなんだからいいだろ」
「まあ……そうなんですけど」
ミアは前を歩くセレスティーナを見た。
ちょうど十度目の群れを倒したところだった。
「殿下、終了いたしました」
「おう」
「ほかに何かございますか?」
「ない。あとは帰るだけだ」
「承知いたしました」
どことなく残念そうだった。
本当にこの人は、頼まれ事が好きらしい。
少し変わっている。
けれど、それだけだとミアは思った。
学院へ戻り、装備を預け、それから五人はラウンジへ入った。
三日間の演習を終えた簡単な振り返りが行われる。
誰がどれだけ魔力を使ったか。
どの場面で判断が遅れたか。
休憩の取り方は適切だったか。
セレスティーナもいつも通り椅子に座り、自分の記録を確認しながら話していた。
「三日目の午後は、少し火属性の使用量が増えました。硬い外皮を持つ魔物が多かったためかと」
「お前、あれだけ撃ってまだ残ってるのか?」
「はい。まだ問題なく使用できます」
「……本当に燃費どうなってるんだ」
トビアスが呆れたように言う。
セレスティーナは小さく首を傾げた。
そのあとも普通に話した。
笑った。
ミアが水を飲みましたかと聞けば、「先ほどいただきました」と答えた。
いつも通りだった。
そして振り返りが終わった。
「じゃあ今日はここまで。解散」
アレクサンダーが立ち上がる。
ジークバルトも立った。
トビアスは「やっと終わった」と言いながら腰を伸ばした。
ミアも鞄を持った。
そのときだった。
「あら?」
小さな声がした。
振り返る。
セレスティーナが、まだ椅子に座っていた。
「どうしました?」
「いえ」
セレスティーナは不思議そうに自分の足を見た。
それから、机に手をついて立ち上がろうとした。
身体が少し浮く。
けれど、すぐに椅子へ戻った。
「……?」
もう一度。
今度は両手で机を押す。
膝に力を入れようとしているのが分かった。
けれど、立てない。
「セレスティーナ様?」
ミアが近づいた。
「どうしました?」
「少々、お待ちください」
声は普通だった。
顔色も、白っぽい気はするが、急激に悪くなったわけではない。
セレスティーナ自身も、困っているというより、本当に不思議そうだった。
「立てないようです」
「……え?」
ほんの少し前まで、普通に話していた。
半刻前には、自分でここまで歩いてきた。
その少し前まで、魔物を次々と倒していた。
「足、痛いんですか?」
「いいえ」
「痺れてます?」
「それも、特には」
「じゃあなんで……」
「分かりません」
セレスティーナは自分の膝を見て、それから申し訳なさそうに眉を下げた。
「少し、疲れてしまったのでしょうか」
その言い方が、妙に軽かった。
「あの」
ミアはかがみ込んだ。
「疲れてるって、今まで思ってなかったんですか?」
「はい」
当然のように答えた。
「先ほどまでは普通に動けておりましたので」
背中が、ぞわりとした。
先ほどまで動けていた。
だから、疲れていなかった。
この人は、そう判断していたのだ。
「少し休めば、また動くと思います」
セレスティーナはむしろミアを安心させるように笑った。
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
「……謝らなくていいです」
「はい」
アレクサンダーが戻ってきた。
「何してるんだ?」
「立てないそうです」
「は?」
「セレスティーナ様が」
アレクサンダーも目を丸くした。
「お前、さっきまで普通だっただろ」
「はい。ですので、わたくしも少し不思議で」
本人だけが、一番平然としている。
トビアスも戻ってきて、セレスティーナの顔を覗き込んだ。
「魔力切れか?」
「いいえ。魔法はまだ使用できます」
「じゃあ体力か」
「おそらくは」
ジークバルトが腕を組む。
「三日間だ。疲労が溜まっていてもおかしくはない」
「そうですね」
セレスティーナは素直に頷いた。
「配分を間違えてしまったようです。申し訳ございません」
反省するところが、そこなのだ。
ミアは何も言えなかった。
十分ほど座って休むと、本当にセレスティーナは立てるようになった。
最初は机に手をついたものの、数歩歩けば、もう普通に見えた。
「ほら、大丈夫です」
少し嬉しそうに言う。
「歩けますよ」
「……はい」
「ご心配をおかけしました」
「はい……」
ミアは返事をしながら、その足元を見ていた。
さっきまで、立てなかった。
なのにもう歩いている。
この人は、どこからが疲れているのだろう。
学院の廊下へ出るところで、ミアは足を止めた。
「アレク様」
「なんだ」
「次から」
少し迷って、それでも言った。
「セレスティーナ様に、何でもかんでも任せるの、やめませんか」
アレクサンダーが眉を寄せた。
「別に無理やりやらせてたわけじゃないぞ」
「分かってます」
むしろ本人は、楽しそうだった。
頼まれるたびに嬉しそうに返事をしていた。
だから、ミアも止めなかった。
「でも……たぶん」
もう一度、前を歩くセレスティーナを見る。
普通に歩いている。
何事もなかったように。
「セレスティーナ様が『疲れました』って言う頃には、もう立てないんじゃないかって」
アレクサンダーが黙った。
トビアスも何も言わなかった。
少し先を歩いていたセレスティーナが振り返った。
「フェリシアンヌ様?」
「なんでもないです」
「そうですか?」
微笑んで、また前を向く。
その足取りは、もうほとんどいつも通りに見えた。
それが余計に、ミアには怖かった。
三日間の演習で学ぶはずだったのは、疲労した状態でも冷静に判断することだった。
けれどミアが三日目に学んだのは、少し違う。
セレスティーナ・フォン・レーヴェンは。
疲れていても、疲れているようには見えない。
そして本人も。
動けなくなるまで、それに気づかないらしい。




