3-3 幸せな夢の続き
夏季演習の初日は、朝からとても楽しかった。
学院の地下に広がる迷宮を歩くことも、セレスティーナにとっては初めての経験だった。決められた隊列を守り、地図と周囲を確認しながら進む。いつ魔物が現れるか分からないため、気を抜いてはいけない。
そして何より、自分にはきちんと役目があった。
中衛として前衛を援護する。
殿下方のお邪魔をせず、そのお力を存分に振るっていただけるよう、側面や後方から近づく敵を排除する。負傷者が出れば治療し、必要であれば補助魔法も使う。
事前に考えた通りにできれば、きっと皆様のお役に立てる。
最初の魔物が現れたとき、アレクサンダーはすぐに指示を出した。
ジークバルトとアレクサンダーが前衛。トビアスが後方から援護し、ミアは補助を優先する。
「セレスティーナは――」
「中衛から前衛のお三方を援護いたします」
そう答えると、アレクサンダーは止めなかった。
それだけで、少し嬉しかった。
殿下のお役に立つこと。
殿方より前へ出て目立つのではなく、影からそのお働きを支えること。
それは王太子妃となる者に必要な心得として、幼い頃から何度も教わってきたことだった。
アレクサンダーとジークバルトが前へ出る。
それぞれが一体ずつ魔物を引き受け、トビアスは後方で大きな術式を組み始めている。
ならば、ほかの魔物が邪魔をしてはいけない。
セレスティーナは右手を上げた。
水を集め、凍らせ、細く絞る。同時に風を絡め、回転させる。
前衛のお二人が相手をしているものを除外。
トビアスの射線も避ける。
残り二十。
指先を滑らせた。
十。
もう一度。
さらに十。
途中で数体が位置を変えたため、最後だけ少し狙いを修正した。
すべてが倒れたのを確認して、セレスティーナは手を下ろした。
少し遅かっただろうか。
初めの十本はほぼ同時に当たったが、二射目ではわずかに着弾がずれた。右端の一体に対する照準にも、余計な動きがあったように思う。
お母様なら、きっと気づかれる。
けれど今は訓練中なのだから、反省はあとでいい。
それよりも。
殿下のお邪魔には、ならなかっただろうか。
そう思ったら、聞きたくなってしまった。
「殿下」
「……なんだ」
「お邪魔になってはおりませんでしたでしょうか?」
アレクサンダーが黙った。
やはり、何か間違えただろうか。
それでも、もう口にしてしまったものは仕方がない。
「殿下方には、目の前のお相手に専念していただけるよう努めたのですが」
迷ってから、もう一言だけ続けた。
「わたくしはお役目を果たせましたでしょうか?」
言った瞬間、いけなかったと思った。
できたかどうかを、自分から尋ねてしまった。
褒めてほしいとねだっているようではないか。
お母様なら、きっとお叱りになる。
与えられた役目を果たすのは当然のこと。それをわざわざ他人に確かめ、評価を求めるなど淑女のすることではない。
帰ったら、きちんと反省しよう。
「いや」
答えてくださったのは、ジークバルトだった。
「何も間違ってはいない」
「そうですか。よかったです」
それなら十分だった。
胸の中にあった小さな不安が消える。
少なくとも、失敗はしなかったらしい。
それから二十分ほど歩いたところで、二度目の魔物が現れた。
セレスティーナが援護の準備をすると、アレクサンダーがそれを止めた。
「今度は、お前が全部やれ」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「わたくしが、でございますか?」
「ああ。さっきのが偶然じゃないっていうなら、できるだろ」
全部。
今度は、自分一人に任せてくださる。
「かしこまりました」
声が弾みそうになって、少しだけ気をつけた。
三十体近くいるが、先ほどと同じ亜人型だ。急所の位置も変わらない。全員がこちらを向いているため、むしろ狙いやすい。
三度、指を滑らせる。
途中で左右へ散ったものだけ、個別に狙い直す。
最後の一体が背を向けたところで、セレスティーナは指を止めた。
逃走する敵を追うべきかどうかまでは、事前に決めていない。
勝手な判断をしてはいけない。
「逃走するものも、討伐対象に含まれますでしょうか?」
「……ああ」
「かしこまりました」
最後の一体を撃つ。
これで、すべて。
「終了いたしました」
それから、少しだけ迷った。
先ほど余計なことを聞いたばかりだ。
今度は、役に立ったかなどと尋ねてはいけない。
けれど、殿下からいただいた指示を正しく理解できていたかは、確認しておいた方がよいだろう。
「ご指示の通りにできましたでしょうか?」
「…………ああ」
胸の奥が、ぱっと明るくなった。
「よかったです」
できた。
殿下からいただいたお役目を、今度はきちんと果たせた。
それだけで、次の道のりは少し足が軽かった。
三度目の戦闘では、まったく逆のことを命じられた。
「お前は手を出すな」
「承知いたしました」
すぐに手を下ろし、ミアの隣まで下がる。
今度の役目は、何もしないことらしい。
それなら、何もしなければいい。
アレクサンダーとジークバルトが魔物へ向かい、トビアスが後方から魔法を放つ。
皆、とてもお強い。
特にアレクサンダーは、剣を振るう姿まで美しかった。
王太子である殿下が自ら剣を取り、危険な魔物と戦っている。その姿を間近で見ることができるだけでも、なんだか得をしたような気持ちになる。
やがて最後の一体が倒れた。
「お見事です、殿下」
思わず口から出た。
アレクサンダーが振り返る。
「……お前、本当に何もしなかったな」
「はい。殿下より、手を出さないようにと仰せつかりましたので」
補助くらいはしてもよかったのではないかと言われて、少し驚いた。
手を出すな、という言葉には補助魔法は含まれないらしい。
一つ覚えた。
「次から補助くらいしろ」
「かしこまりました」
次もある。
それが嬉しかった。
けれど、今度はきちんとできただろうか。
何もしないという役目は、敵を倒すよりも成果が見えにくい。
迷った末、また聞いてしまった。
「わたくし、きちんとお役に立てましたでしょうか?」
「今の戦闘では何もしてないだろ」
「はい」
それは分かっている。
何もしないようにと言われたから、何もしなかったのだ。
「殿下のお望み通り、何もいたしませんでした」
しばらくして、アレクサンダーが答えた。
「……まあ、邪魔ではなかった」
セレスティーナは目を瞬いた。
それから、じわりと嬉しくなった。
「まあ。ありがとうございます、殿下」
邪魔ではなかった。
ちゃんと殿下のお望み通りにできたらしい。
今日はもう、二度も確認してしまった。
さすがにこれ以上は慎まなければならない。
そう思ってからは、聞かなかった。
けれど、聞く必要もなかった。
次々と役目をいただけたからだ。
「今度は普通にやるぞ」
「はい」
「セレスティーナは待機!」
「かしこまりました!」
「半分!」
「どちら側を担当いたしましょう?」
「……右!」
「かしこまりました!」
右側を排除する。
次は待つ。
補助と言われれば補助する。
前衛のお邪魔になりそうな魔物だけを落とし、殿下が交戦されているものには決して手を出さない。
一つ終わる。
また次をいただく。
それを終える。
すると、また次がある。
不思議だった。
以前は、何をしてもなかなか満足に役目を果たせなかった。
言われたことを一度でできなければ叱られた。できたと思っても、もっと早く、もっと多く、もっと正確にと、次に直すべきところを教えていただいた。
それが当然だった。
自分は覚えが悪かったから、たくさん教えていただかなければならなかったのだ。
けれど、この夢の中では。
一つ終わるたびに、殿下がまた次のことを言ってくださる。
もうよい、と見放されない。
役に立たないから下がっていろ、とも言われない。
次。
その次。
また次。
気づけば、朝から何度も魔物と戦っていた。
身体はまだ問題なく動いている。
魔力も出る。
素晴らしい身体だと思う。
休憩になったときには、アレクサンダーから「座れ」とまで言っていただいた。
「わたくしも、ですか?」
「お前以外に誰がいるんだ」
「まあ。ありがとうございます」
戦わせていただいて。
そのうえ、休ませてまでいただける。
本当に、申し訳ないくらいだった。
セレスティーナは大人しく腰を下ろし、水筒を手に取った。
今日は、楽しい。
朝からずっと楽しかった。
だからこそ、また聞きたくなった。
けれど、我慢した。
先ほどから何度も、殿下のお言葉を確かめてしまっている。
お役に立てているかなど、尋ねるものではない。
役に立っているのなら、次のお役目をいただける。
それで十分ではないか。
そう思っていた。
けれど休憩が終わりに近づいても、胸の中に小さな気持ちが残っていた。
今日は、たくさんのことをさせていただいた。
一人で倒せと言われた。
待てとも言われた。
半分を任せていただいた。
どれも、自分なりに精一杯やった。
だから。
どうしても、一度だけ。
「殿下」
「今度はなんだ」
「本日は、たくさんのお役目をいただきまして、ありがとうございます」
そこまでは言えた。
この先は、言わない方がいい。
そう思ったのに。
「わたくし、お役に立てておりますでしょうか?」
言ってしまった。
しまった、と思った。
やはり今日は、少し浮かれている。
お母様に知られたら、きっとたくさんお叱りになる。
役に立ったかどうかを自ら尋ねるなど、褒めてほしいと言っているのと同じではないか。
けれどアレクサンダーは、叱らなかった。
少し疲れたような、困ったような顔をしただけだった。
そして。
「……まあ、役には立っている。俺たちより元気そうだしな」
そう言ってくださった。
一瞬。
何も考えられなくなった。
役に立っている。
殿下が。
自分を。
セレスティーナは、嬉しくなった。
嬉しくて、けれどそんなことで浮かれてはいけないと思って、なるべくいつも通りに答えた。
「はい。まだ問題なく動けます」
身体は動く。
魔法も使える。
ならば、もっとできる。
今日一日だけでも、こんなにたくさんの役目をいただけた。
そのうえ、役に立っているとまで言っていただけたのだ。
「ですので、何でもお申し付けください」
「やめろ。今それを聞くとなんだか腹が立つ」
「……?」
嬉しかった気持ちが、すっと縮んだ。
また何か間違えたらしい。
「申し訳ございません。何か、お気に障ることを――」
「違う!」
大きな声に、セレスティーナは目を丸くした。
違うらしい。
では、何が違うのだろう。
考えても分からなかった。
けれどミアは笑っている。
ジークバルトも怒ってはいないようだったし、トビアスはなぜか眼鏡を外して眉間を揉んでいる。
ならば、たぶん。
ひどい失敗ではないのだろう。
セレスティーナは少し安心して、水筒を両手で持ち直した。
殿下は、本当にお優しい。
自分から役に立ったかなどと、何度もおこがましいことを尋ねてしまったのに、叱らなかった。
それどころか。
役に立っている、と。
そう言ってくださった。
きっと今日は、ずっと覚えている。
次は尋ねなくても済むようにしよう。
もっと上手に。
もっと早く。
殿下が何も仰らなくても必要なことが分かるくらい、きちんとお支えできるようになればいい。
そうすれば、もっとお役に立てる。
まだ初日の午前中だった。
それなのにセレスティーナは、この夏季演習が始まって本当によかったと、心からそう思っていた。




