3-2 夏季演習初日
いよいよ演習の初日が始まった。
朝八時。時刻に集まった五人は、事前に地図で決めたルートを辿っていく。もちろん、どこで魔物に遭遇するのか分からないから、慎重に。
最初の敵を見つけたのは、先頭を歩いていたジークバルトだった。
通路の向こう、薄暗い曲がり角から、ざらざらと石を擦るような音が聞こえる。片手を上げて後ろを止めると、ジークバルトは腰の剣を抜いた。
「来る。数は――」
言い終わるより早く、一体目が姿を現した。
人間より一回り小さい、灰色の肌をした亜人型の魔物だった。手には錆びた短剣らしきものを握っている。その後ろから二体、三体、さらにその後ろからも続々と現れた。
「二十……いや、もっといるな」
トビアスが杖を構える。アレクサンダーは既に剣を抜き、ジークバルトの半歩後ろへ並んでいた。
「少し多いが想定内だ。ジーク、俺と前。トビアスは後ろから援護。ミアは補助を優先。セレスティーナは――」
「中衛から前衛のお三方を援護いたします」
セレスティーナが静かに答えた。
それは事前に提出された資料にも書いてあった。アイスアロー、ファイアボールを中心とした中距離魔法によって前衛を援護する。必要に応じて補助魔法と応急治療を担当。
ごく普通の中衛のはずだった。
「よし。行くぞ!」
アレクサンダーが踏み込む。それとほぼ同時に、ミアが覚えたばかりの加速術を前衛二人へ飛ばした。
一気に距離を詰めたジークバルトの剣が、先頭の魔物を横薙ぎに吹き飛ばす。アレクサンダーもその隣へ入り、振り下ろされた短剣を受け流して、返す剣で二体目を斬った。
後方ではトビアスが詠唱を始めている。
初戦としては、悪くない滑り出しなのではないか。
ミアがそう思ったところで、横から冷たい風が流れた。
「――え?」
セレスティーナが右手を上げていた。
大きな動作ではない。ただ、人差し指の先で空中に細い線を描くように、すう、と右から左へなぞる。
白いものが閃いた。
一本、だったのかどうかもミアには分からなかった。
かすかな風切り音が重なり、アレクサンダーとジークバルトが相手をしている二体を避けて、その後ろにいた魔物たちが次々と崩れ落ちていく。
「――炎よ、集いて……」
トビアスの詠唱が止まった。
「トビー!」
「分かってる!」
慌てて詠唱を再開する。
その間にも、セレスティーナの指先がもう一度動いた。
また白い線が走る。
倒れる。
もう一度。
倒れる。
アレクサンダーが目の前の三体目を斬り伏せ、すぐさま次の敵を探して顔を上げた。
「よし、次――」
いなかった。
「……は?」
ジークバルトも剣を構えたまま止まった。
通路を埋めていたはずの魔物は、すべて床に転がっている。
少し離れたところでは、トビアスが完成しかけていた術式をどうしたものかという顔で抱えていた。撃つ相手がいない。
やがて、行き場を失った炎が小さく消えた。
静寂が訪れた。
「……二十三」
トビアスが呟いた。
「何がだ」
「数えてた。二十三体いた」
ジークバルトが自分の足元を見た。
「俺が一体」
「俺が二体」
アレクサンダーが言う。
三人の視線が、ゆっくり後ろへ向いた。
セレスティーナは、最初に立っていた場所からほとんど動いていなかった。
「残り、二十体……?」
「はい」
当たり前のように返事が来た。
ミアもぽかんと彼女を見ていた。
「……今の、何ですか?」
「アイスアローです」
「アイスアロー?」
「はい」
ミアは自分の右手を見た。
学院に入って三か月。つい先日、ようやく安定して使えるようになった魔法である。水を集め、形を整え、凍らせて、狙いを定める。ここまでやってだいたい二十秒。先生には、入学したばかりなのだから十分ですよと褒めてもらった。
今のは二十秒どころか、一秒の間に何本飛んだのかさえ見えなかった。
「……私の知ってるアイスアローと違う」
「基本術式は同じですよ?」
セレスティーナが不思議そうに首を傾げた。
トビアスが無言で眼鏡を押し上げた。
それから倒れている一体のそばへしゃがみ込む。身体をひっくり返し、胸を見て、腹を見て、妙な顔をした。
「傷がない」
「え?」
ミアも覗き込む。
確かに、ない。剣で斬られた三体とは違い、服もほとんど汚れていない。
「どうやって倒したんだ?」
「急所を狙いました」
セレスティーナが答える。
「だから、その急所が――」
トビアスの手が止まった。
魔物の片目から、ほんの細く血が流れている。
髪をかき分ける。後頭部に、ごく小さな穴があった。
しばらく沈黙してから、トビアスは眼鏡を外した。服の裾でレンズを拭いて、もう一度掛ける。
「……目から入れたのか?」
「はい。その方が必要な魔力が少なく済みますので」
「…………」
「正面を向いておりましたので、狙いやすかったです」
ミアは自分のアイスアローを思い出した。
二十秒かけて作った氷の矢を、的の真ん中に当てられたと喜んでいた自分を思い出した。
ちょっと座りたくなった。
「セレスティーナ」
アレクサンダーがようやく口を開いた。
「はい、殿下」
「お前の資料には、なんて書いてあった?」
「わたくしの役割でしょうか?」
「そうだ」
セレスティーナは少し考え、それから淀みなく答えた。
「中衛としてアイスアロー、ファイアボールを使用し、前衛を援護いたします。前衛の交戦を妨げず、側面及び後方より接近する敵を優先して排除する、と」
トビアスが鞄から資料を取り出した。
本当にそう書いてあった。
「……排除」
小さく呟いて、倒れている二十体を見る。
「お前、これを援護って書いたのか?」
「はい?」
セレスティーナは、今度こそ本当に分からないらしかった。
「ですが、殿下方が交戦なさっていた魔物には、一切手を出しておりませんよ?」
「そこじゃない」
「?」
「もういい」
トビアスが資料を閉じた。
その横で、セレスティーナはアレクサンダーへ向き直った。
「殿下」
「……なんだ」
「お邪魔になってはおりませんでしたでしょうか?」
「…………」
「殿下方には、目の前のお相手に専念していただけるよう努めたのですが」
そこで、ほんの少し嬉しそうに微笑む。
「わたくしはお役目を果たせましたでしょうか?」
アレクサンダーは答えなかった。
セレスティーナの笑顔が、見る間に不安そうなものへ変わった。
「……何か、お気に障ることをしてしまいましたか?」
「いや」
返事をしたのはジークバルトだった。
「何も間違ってはいない」
「そうですか。よかったです」
ほっとしたように笑う。
ジークバルトは黙ってアレクサンダーを見た。
アレクサンダーも黙ってジークバルトを見た。
トビアスだけは、もう一度資料を開いていた。
「……中衛」
どうにも納得できないらしい。
ミアはそんな三人の横で、まだ自分の右手を見ていた。
二十秒に一本。
セレスティーナは、たぶん一秒に十本くらい。
しばらく考えてから、ミアはそっとトビアスの袖を引いた。
「トビー」
「なんだ」
「私、アイスアロー苦手なんでしょうか」
「安心しろ」
トビアスは疲れた顔で眼鏡を押し上げた。
「あいつがおかしい」
その先では、セレスティーナが何事もなかったように次の階層へ向かう準備をしている。
夏季演習は、まだ始まって一時間も経っていなかった。
二度目の遭遇は、それから二十分ほど後だった。
先ほどより通路が広くなった区画で、今度は三十体近い魔物が現れた。先頭を歩いていたジークバルトが足を止め、アレクサンダーが剣を抜く。セレスティーナもいつものように一歩後ろへ下がり、右手を軽く持ち上げた。
その指先を見て、アレクサンダーが振り返った。
「待て」
「はい?」
「今度は、お前が全部やれ」
セレスティーナが目を瞬いた。
「わたくしが、でございますか?」
「ああ。さっきのが偶然じゃないっていうなら、できるだろ」
挑発のつもりだった。
先ほどは前衛が三体を引き受け、その間に残りを処理した。敵の注意が分散していたからできたことかもしれない。今度は最初から三十体すべてがセレスティーナを含む五人へ向かってくる。
ジークバルトが何か言いたそうにアレクサンダーを見たが、セレスティーナは先に微笑んだ。
「かしこまりました」
その声が、妙に嬉しそうだった。
「殿下方は、どうぞそのままで」
「いや、危なくなったら――」
ジークバルトの言葉が終わる前に、セレスティーナの指が動いた。
一度。
二度。
三度。
白いものが連続して空間を走り、先頭の魔物が倒れた。次の列も、その次も、まるで見えない糸を切られたように崩れていく。
後方にいた数体が左右へ散った。
セレスティーナの視線が動く。
右手の人差し指が、ほんのわずかに右へ向いた。
一体が倒れた。
左へ。
二体が倒れた。
最後の一体が慌てたように背を向ける。セレスティーナはそれを見送りかけ、アレクサンダーを振り返った。
「逃走するものも、討伐対象に含まれますでしょうか?」
「……ああ」
「かしこまりました」
指先が小さく動いた。
遠ざかっていた最後の一体が倒れた。
静かになった。
「終了いたしました」
セレスティーナは右手を下ろし、アレクサンダーへ向き直った。
「ご指示の通りにできましたでしょうか?」
「…………ああ」
ぱっと、紫色の瞳が明るくなった。
「よかったです」
ミアは思った。
なんだか、褒めてもらえるのを待っている子供みたいだ。
「では、参りましょうか」
何事もなかったように歩き出すセレスティーナを、四人が追った。
その足取りは軽かった。
少なくとも、後ろを歩く四人よりは。
すでに一時間以上歩いて、今し方三十体の魔物を倒したばかりだというのに。
三度目の遭遇は、さらに一時間ほど進んだ先だった。
今度は数が少ない。十二体。
姿を確認するなりセレスティーナが右手を上げたので、アレクサンダーが言った。
「お前は手を出すな」
ぴたり、と指が止まった。
「承知いたしました」
「今度は俺たちだけでやる」
「はい」
不満そうな顔一つしなかった。
むしろ邪魔にならないようにとミアの隣まで下がり、両手を身体の前で重ね、いつものように姿勢良く立っている。
アレクサンダーが走った。
ジークバルトが続く。
トビアスが詠唱を始めた。
十二体程度なら問題はない。最初の一体をアレクサンダーが斬り、二体をジークバルトがまとめて引き受ける。トビアスの火炎魔法が三体を巻き込み、倒しきれなかった一体へアレクサンダーがとどめを刺した。
数分で、十二体すべてが動かなくなった。
「よし」
剣についた血を払い、アレクサンダーが息を吐く。
先ほどより、少し呼吸が速い。
ジークバルトも平然としてはいるものの、額には薄く汗が浮いていた。トビアスは杖を下ろし、詠唱で乾いた喉を鳴らしている。
「お見事です、殿下」
後ろから声がした。
セレスティーナだった。
「……お前、本当に何もしなかったな」
「はい。殿下より、手を出さないようにと仰せつかりましたので」
「いや、それはそうなんだが」
アレクサンダーは妙な顔をした。
「補助くらいはしてもよかったんじゃないか?」
「手を出すな、とのことでしたので」
「…………」
正しい。
あまりにも正しい。
「次から補助くらいしろ」
「かしこまりました」
セレスティーナが微笑んだ。
それから、少しだけ期待するようにアレクサンダーを見る。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、きちんとお役に立てましたでしょうか?」
「今の戦闘では何もしてないだろ」
「はい」
嬉しそうだった。
「殿下のお望み通り、何もいたしませんでした」
アレクサンダーは黙った。
ミアも黙った。
ジークバルトは何とも言えない顔で剣を鞘へ戻し、トビアスは眼鏡の位置を直した。
どうやら彼女の中では、敵を三十体倒すのも、十二体を前にして何もしないのも、同じらしい。
殿下に言われたことを、きちんとできた。
それだけでいいのだ。
「……まあ、邪魔ではなかった」
やがてアレクサンダーが答えた。
「まあ」
また、目が輝いた。
「ありがとうございます、殿下」
その後も、魔物との遭遇は続いた。
四度目は二十六体。
「今度は普通にやるぞ」
アレクサンダーが言った。
普通とは何なのだろう、とミアは少し思った。
結局アレクサンダーとジークバルトがそれぞれ一体を相手にしている間に、トビアスが四体を焼き、セレスティーナが残りを倒した。
五度目は八体だった。
狭い通路だったため、ジークバルトが前を塞いだ。アレクサンダーがその脇から二体を倒し、トビアスが中距離魔法で一体を仕留める。
残りはいつの間にか死んでいた。
六度目。
「二十二!」
ジークバルトが叫ぶ。
「俺とジークでやる! トビアス、後ろに抜けたのだけ頼む!」
「分かった!」
「セレスティーナは待機!」
「かしこまりました!」
セレスティーナの返事だけが妙に元気だった。
七度目。
「三十五体!」
「セレスティーナ!」
「はい!」
「半分!」
「どちら側を担当いたしましょう?」
「……右!」
「かしこまりました!」
右側だけが三秒で消えた。
左側を倒すのには、二分近くかかった。
八度目の戦闘を終えた頃には、さすがに全員の口数が減っていた。
夏季演習は一日二日で終わるものではない。探索そのものにも体力を使う。装備を身につけ、荷物を背負い、警戒しながら歩き続け、その合間に何度も戦闘するのだ。
体力自慢のジークバルトですら汗をかいている。
アレクサンダーは水筒を傾けながら壁にもたれた。トビアスはとうとう地面へ座り込み、ミアもその隣で足を投げ出している。
「疲れた……」
「まだ初日だぞ」
「分かってます……」
ミアは水を一口飲んで、顔を上げた。
その視線の先で、セレスティーナが立っていた。
疲れていないわけではないのだろう。よく見れば呼吸は最初より少し深くなっているし、頬にも薄く汗が浮いている。
けれど背筋は伸びていた。
なにより。
機嫌がいい。
ものすごく機嫌がいい。
普段からよく微笑むようにはなっていたけれど、今日はどこか違う。次に何を頼まれるのか待っているような、期待に満ちた気配が全身から漂っている。
セレスティーナは水を飲み終えたアレクサンダーを見て、そっと尋ねた。
「殿下」
「……なんだ」
「次は、どのようにいたしましょう?」
アレクサンダーが水筒から口を離した。
「……休憩だ」
「はい」
「座れ」
「わたくしも、ですか?」
「お前以外に誰がいるんだ」
「まあ」
嬉しそうに、セレスティーナが腰を下ろした。
「ありがとうございます」
アレクサンダーの眉間に皺が寄った。
「……なんで休憩させた俺が礼を言われるんだ」
誰も答えなかった。
少しして、セレスティーナがまた口を開いた。
「殿下」
「今度はなんだ」
「本日は、たくさんのお役目をいただきまして、ありがとうございます」
「…………」
「わたくし、お役に立てておりますでしょうか?」
紫色の瞳がきらきらしていた。
三十体を一人で殲滅させても。
一匹も倒すなと命じても。
半分だけ任せても。
何をさせても、全部その通りにする。
そして終わるたびに、褒めてもらえるのを待つような顔でこちらを見る。
アレクサンダーは何か言いかけ、結局、深く息を吐いた。
「……まあ、役には立っている。俺たちより元気そうだしな」
「はい。まだ問題なく動けます」
セレスティーナは胸を張るでもなく、ごく当然のこととして答えた。
「ですので、何でもお申し付けください」
「やめろ。今それを聞くとなんだか腹が立つ」
「……?」
きらきらしていた気配が、ほんの少し萎んだ。
「申し訳ございません。何か、お気に障ることを――」
「違う!」
アレクサンダーの声が通路に響いた。
セレスティーナが目を丸くする。
ミアはとうとう吹き出した。
トビアスが眼鏡を外し、眉間を揉んだ。
ジークバルトだけが、どこか遠い目をしていた。
夏季演習初日。
まだ昼にもなっていなかった。




