六十三、完了
「本当は、まだ迷っているんです。この話をあなたに打ち明けてよいのかと……」
ちゃぷん。
温くなりはじめたお湯に喉元まで浸して、マルコさんはぽつりと呟いた。
普段のマルコさんなら、たぶんこんなことは言わない。『すべては女神の思し召し』と穏やかに微笑んでいるはず……。
疑問は口に出さずとも伝わったようだ。マルコさんはふっと自嘲した後、どこか切なげな眼差しを遠い月へと飛ばして。
「この迷いが生まれたのは、つい先ほどです。女神のように麗しいギルドの受付嬢が、あなたを“男神様”ではなく普通の少年として扱っているのを見たときから……もしや私は間違っているのではないかと。あなたのことを勝手に偶像視して、この重荷を背負わせようとしているなら、それは大人として恥ずべき行為です」
「マルコさん、僕は別にそんなこと」
「気にしなくていい、頼ってくれても構わない、とおっしゃるのでしょう? ですが、今の私には分かります。私を取り巻くこの風が教えてくれるのです。あなたの心は深い苦しみに満ち、今にも壊れそうなほどに張りつめている……違いますか?」
「――ッ」
ざわり、と波立つ心。それをなだめるかのように、僕の前髪をくぐりぬけていく優しい夜風。
この風はマルコさんを慕ってここにいるのだと思っていた。
まさか、守られているのが僕の方だったなんて……。
「はぁ……マルコさんには敵わないなぁ」
僕の漏らした“敗北宣言”に、マルコさんはふわりと微笑んだ。人形みたいに整ったその面立ちに、ようやく人間らしい温もりが戻る。
「あなたの苦しみを知りながら、それでも私はすべてを伝えるべきだと思いました。あなたが例の『質問』を投げられたのも、きっと女神の思し召しなのでしょう」
いつもの決め台詞に、僕は力強くうなずいてみせた。
重たい戦争のことも、帰るべき場所のことも、今だけは忘れよう。
僕はどうしても知りたいから。マルコさんの――いや、精霊術師の心に隠された傷を。
「先ほどの質問にお答えします。私がこの世界でもっとも苦手とするもの、何よりも恐れるものは……『死』です」
「死……」
「私は幼い頃に母を亡くしました。とても残酷な形で……それからというもの、『死』を意識するたびに血まみれになった母の姿が思い浮かぶようになり、いつしか獣や魔物が狩られることも、草花が枯れることでさえも耐えられないほどになったのです」
月明かりの下、紡がれる微かな囁き。その声は精霊の力をまといながら周囲へ広がり、揺らめく波紋を生み出す。
偽りの男神を演じた僕は、静かにその“懺悔”に耳を傾ける。
――マルコさんが母親と暮らしていた小さな村は、ある日野盗に襲われた。村人の半数近くが命を失ったその襲撃のことを、マルコさんは断片的にしか記憶していないという。
微かに残った記憶のピースは、鋭い破片となって今もマルコさんの胸を抉り続けている。
「……その瞬間、私は母の胸に抱かれていました。母の背中から腹へと深く突き刺さった剣は、本来私が受けるはずだったもの。母はとっさに私を庇ったのです。そして、野盗が立ち去るまでけっして私を離そうとしませんでした。どれほど血が流れても、うめき声ひとつ上げずに……」
もっとも辛い記憶を語り終え、大きく息をつくマルコさん。
僕は何も言えなかった。慰めの言葉なんて煩わしい雑音にしかならない。
ノエルやアリスの態度からも薄々察していた話だったけれど……本当にコレが『精霊術師になるための条件』なら、あまりにも哀しすぎる。
そもそも諸悪の根源は村を襲った野盗だ。マルコさんが罪悪感を覚える必要なんてまったくない。
なのに、マルコさんは他人を憎めなかった。むしろ母親に守られて生き延びてしまった自分を憎んだ。
あまりにも純粋すぎる心と、自ら死を求めるほどの絶望――二つの条件が揃ったとき、女神は特別な力を与えるんだろう。
奪われた母の代わりに、精霊の加護を。
この仮説が正しいとしたら、精霊術師になるのはかなり狭き門。マルコさんが言ったとおり、ただ魔力がないとか孤児ってだけじゃダメなんだ。
少なくとも僕には絶対無理だ。
もし僕が大事な人を殺されたとしたら、絶対に犯人を許さない。憎しみを糧に生きていく。敵の命を喰らい尽くすまで――
「ユウさん……大丈夫ですか?」
ハッとして顔をあげると、心配そうに眉を寄せるマルコさんの姿が映った。
僕は慌てて首を振り、ふつふつと湧き上がる暗い感情を心の奥に沈める。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた」
「すみません、私がこんな話をしてしまったせいですね……」
「マルコさんのせいじゃないよ。たぶん湯当たりしたせいかな。それで、その後はどうなったの?」
「はい。天涯孤独となった私は、村外れの厩舎で暮らすようになったのですが……この身体に不思議な現象が起きるようになりました。傷が勝手に治ってしまうのです」
それは女神の意志を受けて、マルコさんに取り憑いた精霊の力。
しかし、マルコさんはその力を否定した。力が発揮されるたびに死んだ母親のことを思い出して苦しんだ。
そしてマルコさんには、苦しみを分かち合う相手もいなかった。
村人たちは当初、マルコさんを“奇跡の子”と呼び、自身の傷を癒してほしいと縋った。それができないと分かると、「自分だけが助かればいいのか」と一方的に責めたて、手のひらを返したように冷遇した。
結局マルコさんは、故郷から逃げ出すことになった。
「行くあてのない旅でした。ただ私を冥府へ導いてくれる相手を求めて、ふらふらと彷徨っていた気がします。食べ物を口にすることもなく、水さえも摂らずに……」
そう言われて、僕はアリスの語ってくれた身の上話を思い出す。マルコさんが無意識に選択した行動は、奇しくも精霊術師としての“修行”となってしまったようだ。
それにしても……。
チラッ。
僕はお湯の中に隠れた、マルコさんの裸体を見やる。
ドーナツをたらふく食べたとは思えない、あばら骨がくっきり見えるくらいの細さ。今でコレなら当時はどれほど痩せていたのか……。
という疑問も、マルコさんにはお見通しだったらしく。
「その頃の私は、かなり不気味だったと思いますよ。すれ違った旅人からは幽鬼とでも思われていたことでしょう。実際魔物と間違えられて矢を射かけられたこともありました。太陽の下でも動ける『SSランク』の魔物だと言われて……フフフ……」
……ヤバイ、どうやら地雷を踏んでしまったようだ。
僕は速やかに話題を斜め上へぶん投げる!
「わ、わぁー、すごいなぁ。マルコさんって何気に最強キャラだよね。何も食べなくても生きていけて、魔物には恐れられて、病気や怪我とも無縁だなんて。全人類の憧れだよ」
「本当に皮肉な話ですよ。世の中には生きたくても生きられない方がたくさんいるのに、死を望む私がこんな身体になってしまったんですからね……」
フッと鼻で笑うマルコさんの瞳に、陰鬱な影は見えない。幽鬼モードはなんとか脱出できたようだ。
僕は畳み掛けるように次の質問を。
「それで、どうしてこの街に来ることになったの?」
「旅人の中に心優しい方がいたのです……ボロを纏った私に食事を分け与え、馬車に乗せてくださって。その方のご厚意に甘えながら過ごしているうちに、この聖都オリエンスへ辿り着いたのです。世界の果てにある“地上の楽園”に」
「地上の楽園、ねぇ……この崖っぷちの街が?」
「他国に対しては情報が操作されているんでしょう。実際私も“死の霧”を目にしたときは、言い知れぬ恐怖を覚えました。あの霧に飲まれたら、不死身の私でさえ命を奪われかねないと思い、慌てて逃げ出したんです」
「へぇ、よくそこで死なずに踏みとどまったね」
僕の漏らした素直な感想に、マルコさんは少しバツが悪そうに答える。
「母が亡くなった直後なら、迷わず飛び込んだことでしょう。でも私は恩人のことを考えました。彼は商人だったので、何か恩返しをしなければ死ねないと……ただ残念ながら私にとって『商人』という仕事は絶望的なまでに向いておらず、むしろご迷惑をおかけするばかりというか合わせる顔がないほどの失態を犯し……これはもう女神の下で善行を積んで赦しを得るしかないと」
「なるほど、それで神殿へ行ったってわけか」
ようやく繋がった過去と現在。
僕は最後の質問を投げた。どうしても言わせたい一言を引き出すために。
「じゃあ、今でもマルコさんは『死』が怖い? まだ死にたいって思う?」
「前者については肯定します。私は私以外の命が消えることが恐ろしい。たとえ魔物であっても、その死骸を目にするだけで胸が潰れそうなほどに苦しくなります。ただ後者については……私自身の命については否定します。この魂はすでに女神へ捧げたのもの。生きるも死ぬも、すべては女神の思し召しです」
「そっか、それなら良いんだ」
及第点の答えを聞き、僕は会話を終えようとしたものの。
マルコさんの告白には、まだ続きがあった。
「……すみません、今の答えは嘘です。なんだか私は、とてもわがままになってしまった気がします」
「わがまま?」
「はい。本音を言いますと、私は死にたくありません。たとえ女神の意志に逆らうとしても」
「ふーん。それってもしかして」
――好きなひとができたから?
麗しい受付嬢のお姉さんを思い浮かべ、僕はついニヤニヤしてしまう。そこまで本気なら、僕もちょっとくらい協力してあげてもいいかな、なんて……。
呑気なことを考えていた僕は、本当にバカだった。
うっすらと白み始めた空の下、マルコさんは真っ直ぐに僕を見つめ、神々しいまでの笑みを浮かべて。
「私は、私を救ってくださった方のために生きたい」
トパーズのように煌めくマルコさんの瞳が、なぜか眩しげに細められる。敬愛だとか信愛だとか、そういう言葉では言い表せない特別な感情を秘めて。
……とりあえず、僕は首を後ろに捻じ曲げた。もしや僕の背後に別の誰かがいるのかと。
でもそこにあるのは、魔物の死骸でできたグロテスクな塔だけで。
「あ、あの、マルコさん……?」
「この街へ来てからも、私は不用意に他人とかかわることを避けてきました。恩人の彼から離れたのも、結局は私の弱さが原因です。私のせいでまた誰かを死なせてしまっては耐えられないと、常に恐れおののきながら生きてきたのです――あなたと出会うまでは」
「……ッ」
「魔石狩りの若者と対峙するあなたの姿は、まさに鬼神のごとき猛々しさでした。私は男神様がようやく私を迎えに来てくれたと思いました。なのに、あなたは私に『生きろ』と言った。何度も、何度も……」
長い睫毛を震わせ、必死で涙を堪えながら感謝の気持ちを語るマルコさん。
愛情に満ちた台詞と包みこむような眼差しを受け、自ずと顔が熱くなってくる。恥ずかしさに耐えられなくなった僕は、ぬるくなったお湯に鼻先までどぷんと浸かった。
……ゴメンナサイ。あのときの僕には、そんなつもり全くなかったです。
ただ目の前に死にたがってる人が現れたから止めただけで、あくまで一般常識の範囲内っていうか……。
お湯の中でぶつぶつ言いながら亀のように縮こまっていると、マルコさんはどこか吹っ切れたような笑みを浮かべて。
「本当にユウさんは不思議な方です。『普通の少年』とはどうしても思えない……だから、私はあなたのために生きたい。あなたの望みを叶えたい。そう感じてしまうことも、きっと女神の思し召しなのでしょう」
ニコッ。
神々しいアルカイックスマイル――ニセモノじゃなく本物の――を浮かべたマルコさんの背後から、すうっと眩い光が放たれた。
これは月光じゃなく、夜明けの光。
灰色の霧を純白へと変えるその光は、僕の中に巣食う暗い欲望をも浄化するように美しかった。
そのとき、僕は決意した。
マルコさんに真実を伝えよう。
僕が隠してきた邪悪な欲望を、すべて曝け出してしまおう……。
「マルコさん、ありがとう。マルコさんの言ってくれたこと、すごく嬉しかった。その気持ちを僕は全力で受け止めようと思う」
「ユウさん……ッ」
「だから、さっそくだけど僕のために一働きして欲しいんだ」
ニコッ。
と優しく微笑み返したところ、マルコさんは形良い眉をキュッと寄せた。そしてなぜかざぶざぶと狭い湯船の中を後退していく。すぐに岩の縁へぶつかってしまうのに。
「えぇと、確かにユウさんのために働きたいのはやまやまですが、今の未熟な私にできることなど何一つ」
「あります。だから――ゴメンナサイ!」
全身全霊で叫ぶや、僕は湯船の脇に置いていた魔石を一つ握りしめた。そして全裸のマルコさんを結界のボールに閉じ込める。
半透明の球体の中、腰を抜かしへたり込んだマルコさんは、真っ青な顔で僕を見上げて。
「ゆ、ユウさん、いったい何を……」
「大丈夫、ちゃんと結界で包んであげたから。せっかくお風呂入ったのに、あのデロデロでまた汚しちゃうのもナンだし。まあ汚れたとしても朝日を浴びればキレイになるんだけど、アレに直接触らせるのはさすがに可哀想かなって」
「そんな、まさか……」
「お願いだから、そのまま気を失わないで、あそこに飛んでけ――ッ!」
再び放り投げられた大玉は、天高く……ではなく、岩山のすぐ脇へポイッと落とされた。
待ち構えているのは、マルコさんがもっとも苦手とするモノ――朝日を浴びてぐずぐずと溶けだした死骸の塔。
直径二メートルの球体は、柔らかな肉塊にズポッ!
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ――!」
放たれる『絶叫チート魔術』は、純白の霧を遠くへ追いやると同時、霧の中で涎を垂らしながら待ち構えていた雑魚魔物たちをも一掃!
「ふぅ……これで任務完了、かな?」
数分後、肉塊の塔はお宝の山になった。霧の撤退した跡地も、キラキラした赤い大地へ変わった。
そうしてマルコさんは、僕の願いを見事なまでに叶えてくれたのだった。




