第7話:死海の水たまりから始まる経営
「限界濃縮の塩水トラップね、わかったわよ。もうどうにでもなれだわ!」
半ばヤケクソ気味に叫んだルミナが、宙に向けてその白皙の腕をかざす。彼女が指先をパチンと鳴らすと、アキトの脳内で残高を示す『12 DP』という数字が瞬く間に減少し、綺麗さっぱり『0』になった。
同時に、ゴゴゴ、と地響きが洞窟内に鳴り響く。 1階層の入り口へと続く一本道の地面がぐにゃりと陥没し、幅約三メートル、深さ五十センチほどの細長い「くぼみ」が形成された。そこへ、どこからともなく湧き出た半透明の液体がなみなみと注がれていく。
「はい、完成。神様の召喚リストから引っ張ってきた『塩水の沼(微小トラップ)』よ。消費DPはきっちり12。……ねえアキト、本当にこれでいいの? 自分で見てみなさいよ、これ」
ルミナに促され、アキトは完成したばかりのトラップへ近づき、水面を覗き込んだ。
そこにあったのは、おどろおどろしい毒の沼地でもなければ、底の見えない地獄の割れ目でもない。ただの、じっとりと濁った「浅い水たまり」だった。 殺傷能力は文字通り皆無。うっかり足を踏みえた冒険者が「うわっ、靴が濡れて最悪だ」と舌打ちして、そのまま跨いで通り過ぎていくだけのレベル――非常に悲しいほどに無害な光景だ。
ルミナは両手を腰に当て、完全に呆れ果てた顔でため息をつく。
「何これ、本当にただのしょっぱい水じゃん……。意味ない、意味なさすぎるわよ。これじゃ侵入してきた冒険者に風邪をひかせることすらできないわ。監査の神様が見たら『お前は何を遊んでいるんだ』って一発で大目玉よ」
「いや、ルミナさん。これ以上ないほど完璧な仕上がりだ。これこそが俺の求めていた『死海』だよ」
アキトはその場にしゃがみ込み、水たまりの表面を愛おしそうに撫でた。
普通の海水じゃない。システムが「トラップ」として生成した、限界まで塩分が濃縮された異常な高濃度塩水。わずかにとろみすら感じるその水面に指先を浸し、ほんの少しだけ舌に乗せてみる。
「──ッ、ぶはっ! 苦い……! 喉が焼ける……ッ!!」
あまりの強烈な塩分と苦味、えぐみにアキトは激しく咳き込んだが、その目は爛々と輝いていた。塩化ナトリウムだけでなく、マグネシウムなどのミネラルがこれでもかと飽和している証拠だ。前世の知識――『化学』が、これこそが最高級の塩に化ける極上の原石だと告げている。
「殺傷能力なんかなくていいんだよ。冒険者が『こんな意味のない水たまり、罠じゃねえよ』って無視してくれるなら、それが一番安全で都合がいい」
アキトは立ち上がり、腰にぶら下げていた、いつも薬草を洗うために使っているブリキのバケツを取り出した。そして、迷うことなくその最弱トラップの中へバケツをドボンと沈め、並々と塩水を汲み上げる。
「さあ大精霊様、ここからは『俺たちの経営』の時間だ」
「経営って……バケツで水を汲んでどうするのよ」
「前世の知識で、この水を最高級の白塩に精製するのさ。ルミナには後で、火を熾すための魔法を手伝ってもらうからな」
バケツを手に、にやりと不敵な笑みを浮かべるアキト。
「言っただろ? 誰も殺さない、誰も傷つけない。ただ、神様のシステムにちょっとだけ裏口からお邪魔をして、俺たちは引きこもりながら大金持ちになるんだ」
その隣で、ルミナは呆れ顔から、徐々に未知のワクワク感を覚えたような複雑な笑みへと変わっていく。
チート能力なんて最初からない。強力な魔物も、恐ろしい罠もまだない。あるのは、一滴の塩水の水たまりと、前世の知恵、システムの穴。そして、ブラック環境全開で壊れかけていた、限界社畜あがりの大精霊のバックアップだけ。
しかし、異世界を震撼させる「極楽温泉リゾート」へのロードマップは、間違いなくこの地味すぎる水たまりから、静かに、そして確実にスタートしたのだった。
(第1章・完)




