第28話:ギルド長、温泉と飯に買収される
「あははは! アキト、もう一杯! このウイスキーってやつ、お水を一滴だけ垂らすと、香りがもっとふわぁって開くのよね! 私、もうこの樽ごとここに住むわ!」
『極楽亭』の管理人室の奥。12年熟成の琥珀色の液体を前に、ルミナは完全に出来上がっていた。白銀の髪は乱れ、背中の羽をだらしなく畳の上に引きずりながら、アキトの袖をぐいぐいと引っ張っている。
「ルミナさん、飲みすぎだ。ガルバさんも、どぶろくとウイスキーを交互にちゃんぽんするな」
「うるせえ! ドワーフが最高の酒を前にして日和ってられるか! ぐびっ……ぷはぁ、このスモーキーな余韻がたまらん!」
身内だけの秘密の試飲会は、最高位の精霊と伝説の料理長が醜態をさらす泥酔パーティーと化していた。ルミナが「ねぇアキトぉ、私をもっと褒めなさーい!」と顔を真っ赤にして絡んでくるのを適当にあしらっていると、
──ビーーー、ビーーー。
マスター室の防衛アラートが、静かに、だが重々しく鳴り響いた。
「チッ、営業時間は終わってるはずだが……。ルミナさん、ちょっとシャキッとしてくれ。画面を出すぞ」
アキトが空間にウィンドウを表示した瞬間、管理人室の空気がピシリと張り詰めた。 第4階層の入り口。竹灯籠の淡い光の中に立っていたのは、私兵を率いた小悪党などではなかった。
漆黒の高級外套をまとい、白髪交じりの髪を厳格に整えた一人の老人。 その身から放たれるのは、数々の修羅場をくぐり抜けてきた元高ランク冒険者特有の、圧倒的な威圧感。 このエリアの冒険者ギルドの絶対的頂点──『ギルド長』その人だった。
「……噂の『天国ダンジョン』か。ケセラン男爵の一件、そして我がギルドのサトラたちの変わりよう……。しがないFランク冒険者が『たまたま見つけた隠れ宿』にしては、あまりにも経済の動きが不自然すぎるな」
ギルド長は鋭い眼光で宿の門構えを睨みつけていた。彼は、この街のパワーバランスを揺るがしかねない「謎の巨大勢力」の正体を突き止め、最悪の場合は力ずくで調査(尋問)するために、お忍びでやってきたのだ。
「おっと、大ボスのお出ましだ。ルミナさん、ガルバさん、戦闘配置だ。絶対にボロを出すなよ」
アキトは一瞬で「しがない雇われ管理人」の怯え顔を貼り付けると、大急ぎで門へと駆け出し、ガラガラと扉を開けた。
「こ、これはギルド長閣下……!? 夜分遅くに、このような辺鄙な旅籠に一体どのようなご用件で……っ」
「……挨拶は不要だ、アキト。お前がここの『管理人』だな。ギルド長権限に基づき、この施設の立ち入り調査を行う。案内しろ」
威厳の塊のような声。逆らう者は誰もいないという圧倒的な拒減のオーラ。私兵たちも周囲を警戒し、いつでも武器を抜ける構えをとっている。
(ククク……いいぞ、そのガチガチの緊張感。最高に美味い『滞在時間DP』が搾り取れそうだ)
アキトは腹の底で邪悪に笑いながら、深く頭を下げた。
「もちろんでございます。まずは長旅でお疲れでしょう、当宿自慢の『調査用特別室』へどうぞ」
一時間後。
「……ふぅぅぅぅぅぅぅぅ……っ」
『極楽亭』の最上級露天風呂。 そこには、大岩に背を預け、湯船の中で完全に体の力を抜いて「溶解」しているギルド長の姿があった。
「な……何だ、この湯は……。老境に入り、四十年近く俺を苦しめていた古傷の痛みが……消えていく……。魔力の循環が、全盛期のようにスムーズだ……。これが、癒やしの泉……ッ!」
厳格だった老人の顔は、温泉の 41.5°C の熱の前に完全敗北していた。湯煙の向こうで、ギルド長は生まれたての赤ん坊のような、無防備で恍惚とした表情を浮かべている。
──ピコーン!
【最高権力者の精神的完全緩和を検知】
──ピコーン!
【滞在時間DP:超超高レートのボーナスが発生中!】
「お待たせいたしました、ギルド長閣下。湯上がりのお食事でございます」
アキトが静かに部屋へ運んできたのは、ガルバが腕によりをかけた極上の料理。 銀シャリの白米、新鮮なマグロを特製生醤油で漬け込んだ「漬け丼」、そしてカニの出汁を限界まで引き出した濃厚な味噌汁だ。
「生の魚……? いや、この香りは……」
ギルド長は温泉でふにゃふにゃになった手で箸を持ち、漬け丼を口に運んだ。
「──ッ!!!!」
老人の背筋がピンと伸びた。
「美味い……!! 魚の官能的な脂の旨味を、この漆黒の聖水のような醤油が完璧に支配している! 固い干し肉と酸っぱいワインしか知らん我が王国の食文化は、この一杯の前に灰燼に帰したわ!」
涙を流んばかりの勢いで、ギルド長は丼を貪り喰う。威厳など、温泉とガルバの飯の前には消し飛ぶただの飾りだった。
そして、仕上げ。 アキトは、一晩で 12年 熟成させた、あの琥珀色の液体を満たしたロックグラスを、そっとテーブルに置いた。丸く削られた氷が、カラン、と涼やかな音を立てる。
「……これは?」
「当宿の秘蔵酒、『ウイスキー』12年物でございます」
ギルド長はグラスを持ち上げ、一口、静かに口に含んだ。 カァァァ……と、彼の喉の奥が熱くなる。その瞬間、ギルド長はガタッと椅子を蹴立てて立ち上がり、グラスを見つめて震え出した。
「ば、馬鹿な……ッ! 樽の、この気高く深い香りは何だ……!? 荒々しい酒を、気の遠くなるような『歳月』だけで磨き上げた、まさに時間の芸術品……! こんな幻の酒、王都の地下宮殿にすら眠っていないぞ……!!」
ギルド長は、信じられないものを見る目でアキトを見つめた。 温泉、神の飯、そしてこの 12年 熟成の琥珀色の液体。これほどの贅沢を生み出せる施設が、ただの「たまたま見つけた隠れ宿」なわけがない。間違いなく、この青年は世界の裏を支配する何か──。
ゴクリ、とギルド長は唾を呑み、アキトの前に歩み寄った。尋問が始まるか。アキトが身構えた、その瞬間。 ギルド長はアキトの両手をがっしりと握りしめ、これ以上ないほどの満面の営業スマイルを浮かべた。
「アキト君。いや、アキト殿! 今後の、我が冒険者ギルドの上級職員向け『優先特別予約枠』の締結についてだが……今すぐ書類を作らせよう。もちろん、この宿の安全性はギルド長たる私が公式に完全保証し、絶対の後ろ盾となろう!」
「は、はぁ……ありがとうございます(秒で買収されたな……)」
「つきましては、この琥珀色の聖水を、毎月私の部屋に二本ほど融通してもらうわけにはいかないだろうか? いや、一本でもいい! 頼む、アキト君!」
威厳に満ちていたはずの街のトップは、ウイスキーを一舐めした瞬間に、ただの「常連になりたいおねだり親父」へと完全に豹変していた。
──ピコーン!
【最重要拠点の買収に成功しました】
──ピコーン!
【『絶対不可侵の後ろ盾』を獲得。人間界からの干渉難易度が大幅に低下しました】
その後、上機嫌になったギルド長を、アキトは極上の羽毛布団が敷かれた最高級の特別室へと丁重に送り届けた。大ボスは「最高の夜だ……」と呟き、ベッドに沈み込んで秒で爆睡した。
嵐のような大物の対応を終え、ようやく管理人室へと戻ってきたアキト。 部屋の陰からその様子を見ていたルミナが、どぶろくの入ったお猪口を揺らしながら「チョロいわねぇ」とクスクス笑う。
「ふぅ、大仕事を終えたあとの酒は格別だな。よし、お偉いさんも大人しく寝たことだし、俺たちだけで改めて勝利の祝杯を挙げようか!」
「賛成! ガルバ、早くウイスキーの新しい樽を開けなさい!」
「がはは、待ってろ! ギルドのトップを骨抜きにした記念だ、今夜はとことん付き合うぞ!」
人間界最高の「権力(盾)」をも温泉と酒でハメ落とした最弱のマスター。アキトはガルバとルミナに酒を注ぎ、これからの完璧な引きこもりライフを確信して、最悪に邪悪な「悪い笑顔」を夜の闇に浮かべるのだった。
しかし、この時の彼らはまだ知らなかった。 この極上のウイスキーの誕生を、人間界だけでなく、「天界のあの存在」までもがシステムログ越しにじっと見つめていたということを──。
(第4章・完)




