第20話:ドワーフ料理長、アイデンティティ崩壊
街の最南端、煤煙と安酒の臭いが漂うスラム街の片隅に、その場末の宿はあった。 薄暗い酒場のカウンターの奥、山のように積まれた空の酒樽に背を預け、一人の老ドワーフが荒い息を吐いていた。
豊かな白髭を胸元まで伸ばし、丸太のように太い腕を持つその男こそ、かつて王宮の厨房で全権を握っていた伝説の料理長──ガルバである。
「けっ……どいつもこいつも、肉の焼き加減も分からんクソ共が。貴族の豚どもに食わせる料理など、二度と作るか。あんな生ゴミ、家畜の餌にでもしてしまえ」
ガルバは濁ったエールを喉に流し込み、毒づいた。 王宮の上層部が「見栄え」と「贅沢な高級食材」ばかりを強要し、料理の本質である「味」を汚したことに激怒。啖呵を切って飛び出してきたものの、この内陸都市で手に入る食材は、どれも干からびた肉や泥臭い野菜、塩といえば泥臭い岩塩ばかりだ。職人としての情熱は完全に冷え切って、今やただ死を待つように不味い安酒に溺れる毎日だった。
「──相変わらず、ひどい荒れようですね、ガルバさん」
背後からかけられた場違いなほど穏やかな声に、ガルバは鋭い眼光を向けた。 そこに立っていたのは、ボロい革鎧を身につけた、しがないFランク冒険者の青年──アキトだった。その手には、不思議な文様が刻まれた小振りの木箱が握られている。
「あぁ? なんだお前は。小汚い冒険者が、この俺に何の用だ。小銭が欲しいなら他をあたるんだな、失せろ」
「用があるのは俺の方です。王宮を震撼させた最高峰の腕を持つ料理長を、俺の『宿』の厨房長としてスカウトしに来ました」
「ハッ! 厨房長だと!?」
ガルバは鼻で笑い、カウンターをドスンと叩いた。
「笑わせるな! この内陸の果てにある宿など、どこもかしこも腐りかけの干し肉を大雑把に煮ただけのドブシチューしか出さんだろうが! そんな場所で俺が包丁を握れるか! 俺の誇りを、これ以上侮辱するな!」
「まぁ、そう怒らずに。頑固な職人さんを口説くには、言葉よりも『これ』を喰ってもらうのが一番早い」
アキトは静かに笑うと、持参した木箱の蓋を開けた。 瞬間──冷え切った酒場の中に、信じられないほど優しく、香ばしい「湯気」が広がった。
「な……なんだ、この匂いは……!?」
ガルバの鼻髭がピクリと跳ねる。 木箱の中から現れたのは、雪のように白く、真珠のように一粒一粒が艶やかに輝く、炊きたての『白米』。 その上には、網の目のように美しい脂が乗った、これ以上ないほど新鮮な薄紅色の『マグロの刺身』が美しく敷き詰められている。そして仕上げに、アキトは懐から取り出した小瓶から、漆黒の聖水をトロリと回しかけた。
ジュワッ、と白米の熱で醤油の香りが花開く、狂気的なまでに官能的な香りが周囲の空気を支配する。
「お前……これはなんだ、生の魚か!? 正気か! 海から遠く離れたこの街で、生の魚などすぐに腐る! 毒を盛る気か!」
「御託はいいから、黙って口に放り込んでみてください。元王宮料理長の舌が、これが本物かどうかを一番よく知っているはずだ」
アキトから差し出された木製の箸を、ガルバは忌々しげにひったくった。 「死んでも文句を言うなよ」と吐き捨て、白米ごとマグロの切り身を豪快に口へと放り込む。
モグ、と一噛みした。
次の瞬間、ガルバの頑強な身体が、落雷に打たれたかのように激しく硬直した。
「──ッ!?!?!?」
目を見開き、箸を持った手がガタガタと震え出す。
(な、なんだこれは……!? 噛んだ瞬間、お口の中で身がトロリと融けたぞ……!? 泥臭さなど微塵もない、純粋な海の、圧倒的な脂の旨味だ! それに、この白い穀物はなんだ! モチモチとした食感と、噛むほどに溢れる優しい甘みが、魚の脂を完璧に受け止めていやがる……!)
だが、ガルバに最も凄まじい衝撃を与えたのは、それらを一つに纏め上げている「漆黒の液体」だった。
(この黒いタレは……一体何なんだ……! 塩辛いだけじゃない。深み、コク、香ばしさ、および素材の味を極限まで引き上げるこの『旨味』の塊……! 俺が何十年もかけて磨き上げてきた調味料の知識の中に、こんな常識を覆す代物は存在しない……ッ!!)
「美味い……美味すぎる……」
「おい、スープも飲んでみろ」
アキトがすかさず差し出した、マグロのあら出汁と完熟味噌で作った「味噌汁」を、ガルバは貪るように啜った。
「ぶふぁぁぁぁっ……!!」
五臓六腑に染み渡る濃厚な大豆のコクと、完璧に引かれた魚の出汁。 そのあまりの完成度に、ガルバの脳内に築かれていた「王宮料理長としてのプライド」が、文字通り音を立てて粉々に崩壊していった。
「あ、ありえん……こんな料理、世界のどこを探しても存在せん……! なぜだ、なぜFランクのガキが、俺の、いや王宮の全歴史を過去にするような料理を作れるんだ……!」
ガルバの目から、大粒の涙がボロボロと溢れ、白髭を濡らした。 職人として絶望し、腐っていた心の奥底に、かつてないほどの激しい情熱の炎が着火したのだ。
「ガルバさん。俺のダンジョン──いや『宿』には、この新鮮な魚が泳ぐ海も、この白い米が実る水田も、そしてこの調味料を生み出す環境も、すべて揃っています。足りないのは、これを最高の形に仕上げる『厨房の神様』だけだ」
アキトは不敵な、しかし心からの敬意を込めた笑みを浮かべ、右手を差し出した。
「俺と一緒に、世界最高の楽園の厨房を支配しませんか?」
ガルバは涙を袖で乱暴に拭うと、アキトの差し出した手を、骨が軋むほどの怪力でがっしりと握り返した。
「行く……! 行くに決まっているだろうが! その『ショウユ』と『ミソ』の秘密、そしてその極上の食材たち……俺の包丁で、すべてを解き明かしてやる!!」
頑固一徹なドワーフの料理長が、前世の和食の前に完全敗北し、アキトの最強の「右腕」として加入した瞬間だった。




