第17話:大精霊をエアコンにする男
「いやぁ、獲れたての刺身は最高だな。身が締まっていて、噛むたびに上品な脂の甘みが広がる……。これだけでも、あのカチカチの黒いパンと干し肉の生活から比べれば天国そのものだ」
第1階層の美しい砂浜に生成した特製の木製テーブルで、アキトは一切れのマグロの刺身を口に運び、うっとりと目を細めていた。
だが、モグモグと咀嚼し、ゴクンと飲み込んだ後、アキトはふぅと贅沢なため息をつくと、手元の皿を見つめてどこか物足りなさそうに眉をひそめた。
「……美味い。美味いんだが、やっぱり何かが致命的に足りない。ただの塩水で洗っただけの刺身じゃ、満足しきれないんだ。俺の魂が、もっと『黒くて深い味わい』を求めてる」
「ちょっとアキト、贅沢も程々にしなさいよ。こんなに新鮮で美味しいお魚、王侯貴族だって一生に一度、食べられるかどうかよ? これ以上何を求めるのよ?」
隣でマグロの切り身を器用にフォークで突き刺し、バクバクと平らげていたルミナが呆れたように言った。彼女の口元には、新鮮な魚の脂がキラキラと輝いている。
「ルミナさん、日本人──いや、俺の前世の民族にとって、生の魚と絶対に切り離せない『究極の相棒』があるんだ。それが、大豆を発酵させて作る、漆黒の聖水……『醤油』。そして、深いコクを生み出す『味噌』だ」
アキトはガタッと椅子を蹴立てて立ち上がった。その目は、獲物を狙うハンターよりも鋭くギラついている。
「インフラは整った。第2階層の畑には、俺が真っ先に植えさせた『大豆』が、すでに疑似太陽の光を浴びて実り、収穫を待っている! 素材はあるんだ。なら、作るしかないだろう!」
「ミソ? ショウユ? そういえば前になんかそんなこと言ってたわねぇ、また私が知らないような不穏な単語が出てきたわね……。でも、素材があるならすぐに作ればいいじゃない」
「そんなに簡単な話じゃないんだよ、発酵食品ってやつは」
アキトは腕を組み、深刻な顔で首を横に振った。
「味噌や醤油を作るには、まず蒸した大豆や小麦に『麹菌』という目に見えない極小の生き物を植え付けて、繁殖させなきゃならない。これを『麹造り』と言うんだが……これがとんでもなくデリケートなんだ。温度は常に三十二度前後、湿度は菌が死なない程度に高く保ち、かつ、余計な雑菌が繁殖しないように厳密に管理しなきゃいけない。前世の職人だって寝ずの番で管理するレベルなんだぞ。冷たくて湿ったただの洞窟じゃ、一瞬でカビの塊になって終わりだ」
「へぇー、目に見えない生き物を育てるんだ。大変なのねぇ(モグモグ)」
完全に他人事のルミナは、最後のマグロを口に放り込んで幸福そうに咀嚼している。 そんな大精霊の前に、アキトはぬっと影を落とすように歩み寄り、その両肩をがっしりと掴んだ。
「──そこでだ、ルミナさん。世界最高位の、至高にして全能なる大精霊様の出番だ」
「……え? な、なよ、急に改まって。お世辞を言っても、次の獲れたてマグロを釣るまでは魔法は使わないわよ?」
じりじりと後退しようとするルミナ。だが、アキトの「悪い笑顔」がそれを許さない。
「ルミナさん、あんたの誇る超高度な古代魔法(結界・環境操作)があれば、たかが数メートルの空間の『温度と湿度を、24時間完全に一定にキープする』なんて、お茶の子さいさいだろ?」
「は? ……いや、それは、魔力の出力を気をつけて微妙に調整すれば、理論上は完璧にコントロールできるけど……」
「よし決まりだ! 設定温度は三十二度。湿度は八十パーセント。この値を一分一秒とも狂わせずに維持してくれ」
アキトは輝く笑顔で、DPで即座に生成した木製の大きな箱(特製麹室)をルミナの目の前にドスンと置いた。その中には、第2階層から大急ぎで収穫し、蒸し上げて種菌をまぶした大豆と麦が、麻布に包まれて綺麗に並んでいる。
「ちょっと待ちなさいよアキト!!」
ルミナはバッと翼を広げ、信じられないものを見る目で大絶叫した。
「大精霊であるこの私を、そんな……目に見えないちっぽけな菌を育てるための『超高性能の結氷魔石や焦熱魔石』扱いするなんて、正気なの!? 私は世界の理を操る上位存在よ!? 誇り高き古代魔法を、ただの部屋の温度調節に使うなんて、前代未聞の侮辱だわ!!」
「ルミナさん。これが成功すれば、明日の夜には、香ばしい醤油をたっぷりと塗ってパチパチと炙った『マグロの串焼き』と、濃厚な味噌を溶かした『新鮮な魚介のあら汁』が食卓に並ぶ」
ごくり。
マスター室に、驚くほど大きな不調和音が響いた。大精霊の喉が、自尊心よりもはるかに素真面目な音を立てて動いたのだ。 ルミナの頭脳の中で、【大精霊としてのプライド】と【まだ見ぬ究極の和食】が激しいデッドヒートを繰り広げ──わずか三秒で後者が圧勝した。
「……き、きっちり三十二度、湿度八十パーセントね? 分かったわよ、やればいいんでしょ、やれば!」
ルミナは涙目でツンと顔を背けながらも、木箱に向かってそっと両手をかざした。 彼女の指先から、一切の揺らぎがない完璧な魔力の障壁が放たれ、木箱を優しく包み込む。内部の温度が、アキトの指示した「発酵の最適値」へと瞬時に書き換わっていく。
「設定温度、誤差ゼロ。これで文句ないかしら!?」
「素晴らしいよ、ルミナエアコン。さすが世界一の相棒だ!」
「エアコンってなによー、訳わかんないこと言うなーーー!!」
大精霊の怒声が響く中、アキトは木箱の中で心地よさそうに発酵を始める大豆を見つめ、静かにガッツポーズを決めた。食への狂気的な執念が、ついに世界最高位の精霊をも完璧なインフラとしてコントロールした瞬間だった。




