第15話:1〜3階層、完成された楽園
「……ねえアキト。これ、本当に私の知ってる『ダンジョン』の姿かしら?」
大精霊ルミナが、引きつった笑みを浮かべながら呆然と呟いた。 無理もない。彼女が命を削る思いで(実際にはDPを全額ベットしただけだが)解放した空間は、神が定めた『人類の間引き場』という定義を、跡形もなく粉砕していた。
現在のダンジョンは、アキトの綿密な内政投資によって3つの広大な階層へと生まれ変わっていた。
まず足を踏み入れる第1階層。 かつて通路にだけ「超高濃度塩水の水たまり」という、地味極まりない最弱トラップが設置されていた第1階層。そこは今や、どこまでも透明なエメラルドグリーンの海と、遮るもののない真っ白な砂浜が広がり、端の方にある磯場、南国リゾートのような空間になっていた。 天井には神のシステムによって擬似的な太陽が輝き、心地よい潮風が吹き抜けている。そして何より、波打ち際を覗き込めば、丸々と太ったアジやサバ、タイ、そして巨大なマグロといった新鮮な魚介類が、群れをなして楽しそうに泳いているのが視認できた。
階段を下りた先にある第2階層には、優しく流れる清流と、どこまでも続く広大な大平原が広がっていた。そこには、規則正しく並んだ美しい水田と、青々と茂る麦畑、色とりどりの野菜が実る畑がどこまでも続いている。 すでにいくつかのエリアでは、アキトが待ち望んだ「米」が、収穫期を迎えたかのように黄金色の穂を重そうに垂らして頭を垂れていた。
さらに奥の第3階層は、心地よい風が吹き抜ける緑豊かな牧場だった。 ふかふかの芝生の上を、毛並みの良い牛や豚、羊、および元気に走り回る鶏たちがのんびりと過ごしている。凶悪な魔獣など一匹もいない、まさに家畜たちの地上の楽園だ。
「……いや、おかしい。おかしいわよアキト!」
ルミナはハッと我に返ると、アキトの胸ぐらを掴む勢いで詰め寄った。
「確かに私の魔法だけど、こんな階層設定、神のシステム(仕様書)には一言も書いてなかったわよ!? なんで釣り上げたり、野菜を収穫したり、肉を確保しても『3日で完全に復元する』なんて滅茶苦茶なルールになってるのよ! これじゃただの無限湧きじゃない!」
「バグじゃなくて仕様だよ、ルミナさん」
アキトは悪い笑顔を浮かべ、手元に表示されたマスター用のステータス画面を指弾いた。
「ダンジョンの資源配置ルールを『トラップの一種(植物・動物型)』として登録したんだ。ほら、一度発動したトラップは一定時間でリセットされて再配置されるだろ? あれをシステム的に拡大解釈させて、この生態系全体に適用したのさ」
「あんたの頭、本当にどうなってんのよ……」
ルミナは頭を抱えた。神が作った厳格なダンジョン運営システムを、この最弱マスターは「ただの便利な無料スーパーマーケット」として完成させてしまったのだ。
「完璧だ。完璧すぎる……。これだよルミナさん、これこそが俺の求めていた『完全なる自給自足のインフラ』だ!」
アキトは第1階層の波打ち際に立ち、感動のあまり涙ぐんでいた。 五年だ。この世界に転生してからの五年間、毎日毎日、砂混じりの硬い黒パンと、獣臭くて塩辛いだけのシチューを胃袋に流し込んできた。 「生きるための栄養摂取」ではない。五感のすべてで味わう、あの前世の「美味い飯」が、ついに手の届く場所に揃ったのだ。
「まぁ、確かに綺麗な景色だし、お腹の底がワクワクするような匂いがするけれど……。ねえアキト、まずは何から始めるの? 私、次のお肉料理、すっごく楽しみにしてるんだから!」
ルミナが口元を袖で隠しながら、期待に満ちた目でアキトを覗き込んでくる。すっかり餌付けされた大精霊は、すでに次の「美味」を催促していた。
「フッ、ルミナさん。肉もいいが、今日の主役はこいつさ」
アキトはDPで生成した、強靭な魔導繊維製の釣り竿を構えた。 狙いを定めたのは、エメラルドグリーンの海面の下、悠々と影を落として泳ぐ、体長一メートルを優に超える巨大な巨魚。前世の言葉で言うなら──「クロマグロ」に酷似した、極上の回遊魚だ。
「よし、かかった……っ!」
グン、と竿が限界までしなり、アキトは全身の体重をかけてリールを巻き上げる。Fランク冒険者として泥臭く鍛えた肉体は、こういう時にこそ役に立つ。
バシャアアアンッ!!
激しい水飛沫をあげて砂浜へと引き揚げられたのは、銀色にギラギラと輝く、丸々と太った見事なマグロだった。 陸に上がってもなお、強靭な尾鰭をバタバタと激しく打ち付け、生命の輝きを放っている。
「信じられない……。街の市場じゃ、海沿いの国から魔法の氷でガチガチに凍らせて運ばれてくる、ドロドロに腐りかけた魚しか見たことないわ。こんなにピチピチ跳ねてるお魚、初めて見た……!」
ルミナが驚愕して口を手で覆う。
「だろ? 内陸の人間にとっては、獲れたての生魚なんて伝説の存在だからな。だが、うちのダンジョンなら、いつでもこれが『最高に新鮮な状態』で手に入るんだ」
アキトは腰から、普段の薬草採取用ではなく、この日のためにDPで特別に作らせた「出刃包丁」を抜き放った。刃先が疑似太陽の光を浴びて、不気味なほど鋭く煌めく。
「さあ、五年越しの悲願だ。……最高の『刺身』を、今ここで作ってやる」
アキトは膝をつき、激しく暴れるマグロの巨体を片手でがっしりと押さえつけた。 狙うは、エラの後
ろ。一息に生命の息の根を止め、新鮮な血を抜くための、完璧な一撃──。
念願の生魚との対面に、アキトの胸の鼓動は最高潮に達していた。 しかし、この直後、彼が包丁を振り下ろした瞬間に「神のシステムの致命的なバグ」が発動することを、この時のアキトはまだ知る由もなかった。




