Chapter26 終幕
視点:???→山田ヒロアキ
戻ってきたバタバタした日常。少し残ったやるべきこと。それをこなしたら、また家に帰ろう。家に帰るまでが遠足だ。
★
家に帰ると、ひどいことになっていた。
まぁわかっていたことだが……。
割れた窓ガラス、千切れたカーテン、血痕は所々に飛び散り、崩れた壁すらある。
床や壁に弾丸による穴が開き、塵がそこら中に散らばり、ひろみのティーポットは割れていた。
被害がないのは俺の部屋と台所と玄関と、奇跡的に難を逃れたコタツさんと、ひろみの白いティーカップ。
「ひろみ、魔法で何とかならない?」
俺がそう言ったら、ひろみは戸惑って、
「え? え? まほう?」
「冗談だよ、しかし……こんな部屋を他人に見せたら通報されるぞ」
「そうねぇ……とりあえず、五分間二人は外に出ていてくれる?」
まちがそんなことを言い出した。一体、五分で何ができるというのだろう。
「いい? 絶対にのぞかないでよ?」
何か鶴の恩返しみたいだな。
「あ、ああ、わかった……ひろみ、出ようか」
「はーい」
「よーし、いい返事だな」
外に出た。
「アッキー、ゆっきーに言わなくていいのー?」
「え? 新渡戸? あー……言うか」
ひろみに言われるまで、新渡戸のことを完全に忘れていた。
「うん。たいやきー」
「たいやきか。後で持ってきてもらおうな」
「うん!」
俺は新渡戸の携帯電話機の番号を押す、発信ボタンを勢いよく押した。
まだ午前四時だけどまぁ、何とかなるだろ。きっと起きて待ってるはずだ。
《もしもし》
「あぁもしもし新渡戸?」
《……ああ、終わったか?》
「終わったよ」
《ひろみは……?》
「それが……」
《……え……? 嘘だろ…………》
慌ててる。面白い。
俺は電話機をひろみに渡した。
「ゆっきー、たいやき持ってきてー……あれ?」
「どうした? ひろみ」
「返事ない……」
「ちょっと貸して」
ひろみの手から電話機を取り上げる。
「新渡戸ー?」
電話は切れていた。
「うーん……どうしよ――」ガン!「――っかぁ!?」
途中で言葉が途切れたのは、まちが勢いよく開けた扉が、俺の左半身を打ったからだった。
痛いっ!
「あ、ヒロアキごめん」
「あはははははは!」
ひろみが指差して笑っていた。
「子育てに悩む親の気持ちねぇ」
「何よそれ」
「いいや」
なんでもないさ。
いいんだ、ひろみは可愛いから。
さて、まちの後に続いて、部屋に入ってみる。
「とりあえずできるだけのことはしたけれど……どうかしら」
壁と窓ガラス以外の、床とか、テーブルとかは完全に修復されて、血痕も消滅していた。
まちがすっごい頑張って床や壁拭いているところを想像すると、少し笑える。
「ひろみは、そのままだと寒いだろ、ちょっと汚れちゃったし、着替えておいで」
「わかったー」
俺の部屋にひろみが消えた。
俺の部屋というか、何かもう俺の部屋じゃないけど……。
「どう、ヒロアキ」
部屋の掃除の評価をきいているのだろう。五分もたたずにここまで修復したのは本当に神業だが、何となく褒めすぎるのもよくないと思い、厳しめに言ってみる。
「窓ガラスと壁が一番の問題だなぁ。そこを何とかしなければ住める場所じゃない」
「そうねぇ」
「二番目はひろみのティーポットだな、あとカップの下に置くやつ」
「そうねぇ」
「ガラス直さないと寒くて仕方ないな」
「私お金ないわよ?」
「……やっぱ無いんだ」
「無いわよ……」
「とりあえず管理人にガラスと壁のこと言うとして……あぁ面倒だ」
そのとき、知り合いの声がした。
「ヒロアキ!! ひろみはっ……!」
新渡戸が息を切らせて走ってきて、着くなり大声で叫んだので。
「「近所迷惑!」」
二人して指差して言って、笑った。
こんなに早く到着するってことは、たぶん新渡戸は、この家の近くでずっと連絡を待っていたんだろう。
ひろみが、のそっと顔を出す。
「ひろみ……ひろみは……って…………いるじゃねえか!」
新渡戸が俺をにらみつけたので、俺はぺろっと舌を出してやった。
「ゆっきー、たいやきはー?」とひろみ。
「た、たいやき!? ごめん、持ってきてない」
「ゆっきーさいてー」
「最低ってお前……」
ふと、まちが思いついた顔をして、ひろみに向かって言う。
「あぁ、そうだわ、ひろみ。今日は新渡戸の家に行ってもらっていい? 私とヒロアキは少し用事があるのよ」
「俺の同意とか得る気ないの?」と新渡戸。
「当たり前でしょ。ないわよ。とにかく、新渡戸を信じてひろみを預ける。私たちは少しだけやるべきことがあるから」
「まっちー……アッキー……」
不安そうなひろみの声。できればそばにいてやりたい。
だが、俺とまちには、まだ最後の仕上げが残っているようだからな。
「ひろみ、新渡戸に付いていって」
と俺が優しく言ってやると、
「ゆっきーたいやきくれる?」
ひろみは新渡戸に向かってそんなことを言ったのだった。
「ひろみは、俺とたいやきどっちが好きだ?」
「たいやき」
「即答かい……まぁいい。途中で買って行こうか」
「ゆっきー、すき」
「たいやき買ってくれるから好きなんだよな」
新渡戸は、溜息まじりにそう言った。
「うん」即答で頷いた。
「じゃあ、まっちー、アッキー。いってきまーす」
何故か制服に着替えいたひろみは俺達に手を振って新渡戸と共に歩き出す。
「いってらっしゃい」
送り出し、しばらく遠ざかっていく光景を眺める。
「ゆっきー、手」
「ん? 手? 繋ぐか?」
「うん!」
「ひろみ……それ手繋ぐって言わない。これは腕を組むだ」
「何?」
「いや……何でも……でもこれちょっとセクハラだぞ?」
「セクハラじゃないよぉ?」
新渡戸の右腕にしがみついて歩いていく。
ああ、何かイライラする。
「娘に彼氏ができた親の気持ちかぁ」
「何よそれ」
と、すかさずまちが言ってきた。
「まぁ気にするな」
★
「それで、まち、用事って?」
「部屋の修理については、まだこんな時間だから後回しよ。もう一つ、やらなきゃいけないこと……私達の戦いを終わらせるために、会いに行かなきゃならない人がいるわ」
「会いにって……? 誰に?」
「ヒロアキ、岩城の話を憶えてる? えっと……レイコ、をめぐる男が三人居て、岩城と森岡と……あと一人。その最後の一人。その男のところへ行くのよ」
「……なるほど」
「とりあえず着替えましょう」
「あ、あぁ……」
着替えて出てきた姿は、制服に赤いソックスという見慣れた姿だった。
普段の学園生活では紺のソックスを着用しているが、とりあえず赤は彼女の正装のようだ。
赤い眼鏡は胸ポケットに裸のまま入っているし、とにかく赤いな。
俺はいつも通り背広……と思ったのだが、ちょっと上着がボロボロになってしまったので俺も制服で行くことにした。
折角なので俺も緑の何かを着用しようと思ったが、ピンとくるような魅力的なものが無かったので学校指定のワイシャツの中に緑のTシャツを着た。
ゆるゆるに紺のネクタイを結び、紺のブレザーを着て、まちと合流。
「いくわよ」
「ああ」
気持ち良いくらいに割れた窓から飛び出す。
まちの背中じゃないと寒いなとか、馬鹿なこと考えたら、ビルの屋上に張った水たまりの氷に滑って、転んだ。
痛い。
罰が当たったのかな。
「何やってんの? 馬鹿ね」
普段なら鍛錬不足だって言われるところだろうが、彼女なりに、さっきの俺の勝利を祝福しているんじゃないかと思う。
「ごめん、馬鹿だった」
「背中、乗る?」
「――乗る」
即答。
これでいいんだろうか。男として。さすがに、情けないわねとか言われそう。
「情けないわね」
やっぱりな。
彼女の次に放つ言葉がわかったことで、本当に通じ合えているような気がして、本当にうれしかった。
「返す言葉もない」
「いいわ」
俺は、まちの背中に飛び乗った。
「まち、いい匂い」
「振り落とすわよ」
「ごめん」
そう言って、笑う。
「ヒロアキ、好きよ」
彼女が言った時、俺はこう返した。
「――俺の方が好きだね」
「どうしてそういう……あっ」
まちが足を滑らせた。
珍しい。
でも転ばないところが俺との違い。
「今のまち、ちょっと可愛かったな」
「……振り落とすわよ」
「ごめん」
その後、しばらく無言だった。
沈黙を破って、俺は言う。
「まち」
「何よ」
「好きだ」
「私の方が好きよ」
「あのなぁ……不毛だと思わないか?」
「いいのよこれで」
「まぁ、まちがいいなら、いいよ」
「ええ、いいわ」
そして、蔵野まちは、少し悲しみを押し殺すような声で、こう言った。
「こんなことを言う立場じゃないけれど……本当に、本当に霧野みやこには感謝しないといけないわね」
「本当に言う立場じゃないな」
今のまちの発言は、きっと俺に責められようとして言った言葉だったと思う。
「ええ……ごめんなさい」
★
しばらく都会の町を飛び回り、住宅街の一角に着いた。
「ここ?」
まちの背を降りながら、訊く。
「あの組織の男からもらった地図では、ここみたいだけど……」
「廃墟の塔……ね」
真白いフェンスと常緑樹が囲う中、その中心に塔があった。
取り壊しが決まっている団地のようだった。
無人のその中、錆付いた遊具のある広場。
そのすぐ傍に金網のフェンスと、その上の有刺鉄線に囲まれて建つ、傾きそうな塔があった。
塔には木蔦が絡みつき。
塔の半分の高さの場所まで生い茂っていた。
冷たい風が通り過ぎる。
「不気味ね」
「だが、俺には組織の施設のあの不自然なくらいに真っ白な建物の方が不気味に見えるな」
「そうかしら」
まちは不気味だと言う割にはあっさりと白刃で網のフェンスを切り裂き、円く下弦の半月のような形の入口を作った。
「いくわよ」
「ああ」
まちの右手を俺の左手と繋ぐ。アーチをくぐる。
塔の前に立った。鉄扉があった。まちが開く。簡単に開いた。
入口を抜けると、すぐに人がいた。
組織の人間だろう。
三十代前半くらいの男。
特に特徴がない、何度見ても記憶できなさそうな感じの不自然すぎるくらいに普通の男だった。
戦いになるかと心構えをしてきたが、全く殺気を感じられない。
しばらく、探るように彼のことを見ていたら、やがて、男は言った。
「蔵野まち様、山田ヒロアキ様ですね」
同時に返事する。彼女が「ええ」と言って、俺が「ああ」と返した。
「リグレットを……」と相手の男。
「これが見えない?」
まちは、リグレット、白い刃を見せつけた。
「……はい。結構です。あの方は屋上でお待ちです……」
「どうも」
軽く会釈したまち、狭く、急な螺旋階段を上っていく。
塔自体そんな大きくはないし、とても高いとは言えない。
一人分の通路を、まちが手を引いて歩いていく。
敵意の雰囲気は微塵も無い。
でも、どうしてだろう、まちは何かに怯えているようだった。
「まち? どうかした?」
「いいえ? なにも」
明らかに嘘だけど、まぁ……いいことにしよう。
扉を押し開けて、寒風吹き荒れる塔のてっぺんに出た。
鉄扉が閉まる音。
塔の頂上。一メートルほどの高さの鉄柵が囲っていて、三人が立つには狭い場所、半径二メートルくらいの足の踏み場だった。
老いた男が一人、鉄柵に頬杖をついていたが、やがてこちらを向き直った。
「お前は……」
見覚えがあった。
俺に新渡戸夕実を殺せと命じた男。
俺に新渡戸夕実が人間だったと告げた男。
俺は思わず、鞘からイノセンスを取り出して、突きつけた。
刃が普通の刀とは反対側についているので、刃を突きつけたことにはならないが、武器を突きつけたことには変わりなかった。
「イノセンス……か」
男は呟いた。
「ヒロアキ、やめて……」
少し震えたまちの声。
「…………」
俺は何となく罪悪感を感じながらその黒刃を引っ込め、まちにもらった鞘に納めた。
周囲を見渡す。
塔からは、白いフェンスに囲われた世界が一望できた。
東の空が少し赤くなっていた。
「…………レイ……コ……?」
老いた男は、驚いた顔。まちの顔をみて、レイコという名を呟いた。
「私は蔵野まち。お話を聞きに来ました」
「……君は確か……あの男が初めて連れてきた子供だったな」
「あの男……現在の組織の最上部にいる男のことね」
「ああ……」
「まず、貴方の名前を訊こうかしら。他の人たちと違って、ちゃんと名前があるんでしょう?」
「……私は、松島」
男は名乗る。
「松島……」
「あの男は私のことを何と言っていた?」
「何も。ただ、自分が松島の地位を奪ったとかそんなようなことを言っていたわ」とまちが言う。
「奪われたんじゃないな……私は逃げたんだ。そう、逃げた」
自分を責めるように、男は声を出した。
「どういうことだよ」と俺は言う。
「山田君、すまなかった」頭を下げてくる。「新渡戸夕実を殺させてしまったのは我々のミスだ……君の所為になどして、申し訳ない」
「申し訳ないったって……」
「昔、私には二人の親友と、愛する人がいた」
「岩城と森岡と白石レイコね」
「知っているのか?」
松島は目をむいて、まちに向かって問うた。
「会ったわ」
「どうしていた? あの二人は! やはり、まだレイコを生き返らせようなどと馬鹿なことを……」
「死んだわ」
「死んだ……あの二人が……」
「森岡は既に死んでいて、岩城は私が殺した」
「あれはまちのせいじゃないだろ」すかさず俺は言ったが、
「ヒロアキは黙っていて」
言われた通り、黙っていることにする。
「レイコも死んだわ」
「ああ……」
「違うわよ! 貴方の知らないレイコよ!」
それはまるで猛獣の咆哮のようだった。
このまちの声を何度か脳内再生してみてもその猛獣っていう比喩が正しいものとは思えなかったが、その瞬間のまちは間違いなく獣のような気迫だった。
声なき声が、声を凌駕したような、そういった感じだろうか。
松島は少し戸惑っているようだった。
蔵野まちの中では、もともとの白石レイコと、〈器〉としてのレイコが、明確に区別されているのだ。松島の方は、〈器〉のレイコを、そもそも白石レイコだと認識していない。だから、この会話にズレが生じた、といったところだろう。
「話して」と、まちが言う。
松島は話をはじめた。
「二人が、レイコを生き返らせようとしていることを聞いて、私は二人に会いに行った。馬鹿な真似はよせと言ったが聞き入れてくれなくてな、殴り合いになったが二対一で勝てるわけもなかった。
だが、死んだ人間を生き返らせるという行為は、開けてはいけない禁断の箱のようなもの。そんなことが簡単に叶ってしまったなら、命の意味が消え、世界は混乱し、やがて崩壊すると思った。だから止めようとした」
「そして組織を創ったのね?」
まちの言葉に、男は頷いた。
「……レイコが死んでしまってから何年後だったか……きっかけは私が落ちぶれた挙句、酒を飲みすぎて倒れているところをあの男に拾われたことだ。当時、まだ青年で修行中だったその男は、戦闘術を極めようとしていた。そして私は思いついたように組織を創る話をしたんだ。
奴は乗ってきてくれたよ。奴の人脈を使って、術を教える人間も確保できた。私は勉強等を教える教師のような役割を自らこなした。金だけは親の遺産があって、溢れていた。そんな金を使うのに抵抗がなかったわけではない。
しかし私はその時には、もう自暴自棄になっていたんだろう……。あんな白い建物を作って、身寄りの無い子供に人の道は教えず戦う術を教え、器を壊す機械を生み出していった。ただ人を鍛え、知識を叩き込み、器を壊す思想を叩き込んだ。
君達はその犠牲者……運の悪い、子供だった。
しばらくして、〈器〉と呼ばれるものが運ばれてくるようになった。森岡と岩城が動き出したことを示していた。白石レイコという名で、堂々と社会を歩かせようとしていた。
許せなかった。
白石レイコ……彼女を愛していた。素直で、よく笑った。
三人の中で誰が好きかと訊くと、彼女は、いつも押し黙ってしまい、その度笑って誤魔化した。レイコは事故で死んだ。反対方向の電車に乗るのを私達三人が駅のホームから見送った後に、急停車した拍子に手すりに頭をぶつけたのだ。偶然の事故。誰のせいでもない。だが、
――もしも、その場に私がいたなら。
――私達三人の誰かがいて、手を伸ばせたなら……。
意味のない後悔だ。どうしようもない。事実としてあるのは、レイコの死が、私達四人を引き離してしまったこと……。
組織の建物に、何人ものレイコの死体が運ばれてきて、私は戦慄した。恐怖した。私は自分に言い聞かせたよ。レイコが何人も、何人も死んでいるとはいっても、これは人間じゃない。生き返った人間じゃない。器、そう、空の器だ。人の入っていない器。そんな風に言い聞かせた。実際、どんなものなのか、私は知らない。本当は人間なのかもしれない。
それでも、〈器〉の全てを否定したかった。
……少し後になって、生きて動いていたものだったと考えて、彼女たちの墓を作った……。壊れた〈器〉が運ばれて来るたびに、一つ石柱を用意して、私が字を刻み込んだ。そんなことくらいしかできない自分が、あまりにも悲しかった」
俺とまちは、黙って彼の話に耳を傾ける。
「……次は、そうだな……新渡戸夕実……彼女を殺してしまったこと……。山田君に命じて殺させて、〈器〉でなかったとわかった途端に掌を返してしまった。
私はその責任を取って組織をあの男に譲渡することにした。逃げたんだ。新渡戸夕実が人間だった、初めてのことだった、調査ミスだったが、これからも人間を殺してしまうことがあるかも知れない。それが限りなく怖かった。あの名前のない男はその願いを聞き届けてくれた。
だから、私は一人でこの近くにある家に住んでいる。
この廃墟みたいな街は、かつて私たち四人が合宿をした場所なんだ。一番楽しかった頃……その面影を追って、この街に来た。日進月歩の世界にあっては、思い出の場所などというものもすぐに風化してしまうのだろうな……。この団地も間もなく壊れる。駅前にあった店も多くが入れ替わる。楽しかった日々が戻らないことを問答無用に理解させられる。
もしもレイコが生きてくれていたら……。
そんな、潰えた可能性の影を追う、愚かな老人だろう?」
「ええ。愚かね」
まちはすっぱりと言ってのけた。
「まち……そんな……」
俺には、そんなはっきりと、彼を責めることができなかった。
もしかしたら、俺たちだって、誰だって、この松島という男のような選択をしてしまうかもしれないと思ったからだ。
けれども、まちは、俺と違って、悪いものは悪いときっぱりと言えるのだ。
「だって、この男は自分の手を汚さずに何も知らない何人もの子供達を使って人を何人も殺したのよ?」
「ああ、私は最低な男だ」と松島。
「ええ、最低ね。バカヤロウね」
「ああ、馬鹿だ」
それからしばらく、無言。
松島が、一つ溜息を吐き、再び語り始める。
「この塔は、昔、まだここが廃墟ではなかった頃、立ち入り禁止だったんだが、四人で忍び込んでね、見つかって捕まって叱られた。思い出して笑えてしまうほどに楽しくて、だからこそ、今が悲しい。岩城も森岡もレイコも死んだ……。私が生きている理由も意味ももう無い」
そして、松島は両手を広げて、俺たち二人の名前を呼んだ。
「蔵野まち、山田ヒロアキ」
「何よ」と、まちだけが答えた。
俺は、異変に気付いて身構えた。
振動、遠くからの轟音、いくらか鳥たちが飛び立つのが見えた。
「さよならだ」と手を広げたまま、松島が言う。
はっきりとした轟音と振動によって、塔が傾くのがわかった。
「何、これ」
戸惑う、蔵野まち。
塔が本格的に傾きはじめた。松島は鉄柵を乗り越えて、縁へ立つ。幅十五センチのコンクリートを歩く。
またしても轟音。
「私はここで散る! 私はもう舞台から降りるぞ! 後は…………!」
「まち!」
叫ぶ。轟音の中、傾く足場。
男は、両の手を伸ばして十字を描いて背中から倒れ込んだ。
「まかせて」
投身した松島という名の老人は、まちに抱えられてあっさり救出された。
俺も北向きに倒れはじめた塔を滑り台のように滑り降りる。
朝日を背にして降りて行く。
途中で蔦に足を取られて転ぶ、絡まった。
黒い刀、まさに鎌のようなイノセンスで、その植物を切り裂いた。
跳躍。着地。崩れていく塔。
崩れ切ったのを見てから、まちの元に駆け寄る。
「まち」
「ヒロアキ……」
「え? まち……これって」
「死んでるわね……」
まちのそばには、老人の亡骸。
「なんで……」
「でもみて、ヒロアキ……このひと、幸せそうな顔して……笑ってて……」
「亡くなられましたか……」
男の声が聞こえた。丁寧で、感情のない声。
ついさっき塔の入口にいた男。
「……あなたは?」
「私は大した者ではございません。松島様が、私に自分の亡骸を回収して欲しいと頼まれて、ここに……」
その言葉に、まちが意見する。
「待って。私達に任せてもらえないかしら?」
「ですが本人の希望が……」
「ここで貴方を倒してでも連れて行くわ」
「……どこへ……でしょうか?」
「森岡って男と、岩城って男と、レイコ……三人が眠っている場所よ」
「わかりました。そういうことでしたら」
「任せてくれるのね?」
「ええ、任せましょう……」
意外なほどあっさりと、丁寧な男は折れた。
「ありがとう」そして、まちは、松島の手をとって、「……行きましょう。ヒロアキ」
「ああ」
まちが老人を背負ったとき、俺はまちの前に立って、振り返った。
壊れた廃墟を背景に、感慨深げに空を見上げる組織の男が見えた。
朝焼けはもう消えて、太陽が完全に顔を出していた。
とても綺麗だと思った。
「やることが一つ増えたわね」
まちが言ったが、俺は反論する。
「いや、増えてないよ。加賀が霧野みやこの墓を作ったように、俺達もあそこに何かを作る必要があると思ってたから……」
その言葉に、彼女はしっかりと頷いた。
「飛ばすわよ、付いてきて!」
蔵野まちはいつもより高速で駆け出した。
どれくらい高速かというと、風の強い日に通学路に吹くビル風よりもずっと速く、ジェット機みたいに飛んでいって、見えなくなってしまった。
「はっや……」
俺の疲れた足では追いつくことなんてできそうもなかったから、マイペースで行くことにした。
★
「おっそい!」
樹海の森の入口で、俺を待ち構えていた女が、ものすごく怒っていた。どれくらい怒っていたかというと、勝手に縄張りに入ってきた奴に威嚇する動物くらい怒っていた。
「何? 放置プレイ?」
何わけのわからないことを言っているんだこの娘は……。
「まぁ落ち着け」
「鍛錬不足よ」
「そうだ、鍛錬不足だ」
これについては、反論できやしない。
「どうせあんたここから先入ったら迷うと思ってここで待っててあげたのよ」
背負っていた松島の姿が無かったから、一度あの地下施設のところまで行って、その骸を置いて、戻って来たのだろう。
「あんたがいないと困るのよ」
「怒ったまちも可愛い」
ドゴン、と衝撃。後ろ回し蹴りが来た……いつもより数倍増しの威力……。
「面倒だわ、乗りなさい!」
命令された。
まちが背中を向けてくる。
不機嫌だ。
「はい……」
俺はまちの背に乗った。
「ぅおあ!」
恐怖のジェットコースター!
やばいやばい!
すげえこわい!
枝が頬を切り裂いた。
「まち! こわい! こわいよぉ!」
しがみつく。
耳元で叫んだ声も聞こえないんじゃないかって程のスピード。
ていうか情けないこと叫んじゃったよ……。
でもこれは本当に恐怖。
音をその場所に置き去りにして、遠ざかっていく音が聴こえて来るようなそんな。
「うわぁああ!」
またしても、情けなく俺は恐怖に叫ぶのだった。
★
やがて、森の中、ぽっかりと木の無い場所が姿を現したところで、まちは止まり、俺は恐怖から解放された。
強い風が吹いていた。
そこは螺旋階段の地下施設があったあの場所に行く途中だった。
何で途中で止まったんだろう?
あの場所にはやっぱり……行きたくないんだろうか……。
「着いたわよ! さっさと降りて!」
「え、ああ」
「遅い! はやく降りろ」
「まち……」
のろのろしていたら、ゴスンと肘入れられた……。
「……まち、ごめんよ……」
「別にいいわよ」
ふう、と大きな溜息一つ吐いた蔵野まち。
「そういえば地面掘るものとか持ってきてないな……どうするんだ?」
俺が言うと、
「まぁ見てて、すごいの見せてあげるから」
さっきの溜息で切り替えたのか、急にニコニコし出した。
「いくわよ」
「どうぞ」
「とうっ」
上空高く高く舞い上がった彼女は……上空……えっと何百メートルだ。豆粒みたいな大きさにまで飛び上がった。
そして、髪の毛を逆立てながら急降下してきた。
地面に向かって回転蹴りをした瞬間、
ッボァン!!
爆発音に似た、尋常じゃない音がした。
そして舞う土煙。
茶色の煙幕が晴れた時、砂だらけのまちが、クレーター状の大穴で手を振っていた。
――正直、恐怖っす……まちさん怖いっす……。
「ヒロアキ、松島連れてきて」
「わかった」
俺は近くに横たわっていた松島を抱えて、まちの元へ行った。
「ねえねえ、どう? 見てた? すごかったでしょう?」
「すごいっていうか……」
「いうか……?」
言葉が見つからない……。
すごいっていうか……何だ?
何ていえばいい?
こわい、とか言ったら傷つくかな。
「まち、砂すごい付いてるよ」
誤魔化そうとペシペシと頭を払ってやる。
「けほけほ……煙い……」
「おぉ、ごめんごめん」
「…………」
誤魔化せた。
★
松島を土に埋めた。
「……さて、次は何しようか」
「石、私は石を斬ってくるわ」
「じゃあ俺は木の実でも取ってくる」
と、言った後、木の実を取りながら気付いたんだが、これってイメージ的には男女逆だよな……。
ま、まぁ気にしないことだ。
で、まちが三メートルはありそうな巨大な石を担いできて、俺は果実を木から奪った。
「巨大な岩だな……」
「本気出したわ」
さすがに疲れが見える。
肩で息をしているまちの姿は、なかなか見られるものではない。
「大丈夫か?」
「休むわ、石、切っておいて……」
まちは脱力して寝転がり、空を見上げて目を閉じた。
大の字。スカートがめくれ上がっている事は言わないほうが良いのかな。
とりあえず見ないでおこう。
ダジャレでも考えて煩悩を振り払うんだ。
……石の意思。……有名な夢。……レイコの霊魂。
石を綺麗に形を整えようとしたが、なかなかうまくできない。
俺は上着を脱いだ。信じられないことにこの寒空の下で眠ってしまったまちに脱いだそれを掛けてやる。
眺める。
やっぱり可愛いよな、だとか、性格がもっとやわらかかったらな、だとか、そういう煩悩まみれのことをひとしきり考えてから、石を斬る作業に戻る。
まちが目覚めた時に、
――全然進んでないじゃない!
と蹴り飛ばされるのは嫌だから。
★
「ん…………」
まちが目覚めたようだ。
「まち」
「できた?」
「できたといえばできたが……」
とても歪な形をした石の塊があった。自分の不器用さが情けない。
「素敵ね!」
だが喜んでくれたようだ。
「本気出したからな」
俺は落ちていたリグレットを渡し、
「まち、仕上げだ」
「ええ」
まず綺麗な太刀筋で磨いたような切断面を作り出すと、そこに、
『森岡』『松島』『白石』『岩城』
と彫り、その下に、
『レイコ』
と文字を刻んだ。
そしてリグレットを鞘にバチンと納め、そっと墓の前に置いた。
俺はまちが削って出した石クズを少し遠くへ放り投げた後に、まちの傍に駆け寄る。
まちの右側に立って、妙に清々しい気分に浸っていた。
春のような陽光が、俺達と、レイコ達を照らす。
また、風が通り過ぎた。
「レイコ……ごめんね……さよなら……」
俺は右手にあった、鞘に入ったままのイノセンスをリグレットのすぐ横に置いて、心を象るしるしを描いた。
「行こうか、まち……」
「ええ……」
二人、踵を返して歩き出す。
繋がれた、まちの左手と俺の右手。
「帰りましょうか」
「もうちょっと、歩こうよ」
「そうね……それも良いわね」
しばらく二人で歩き続ける森の中。
不意に、彼女が足を止めて、俺の名をよんだ。
「……ヒロアキ」
「うん?」
「ありがとう」
「何だよ、急に」
「本当に、ありがとう」
「……ああ」
手を繋いで森の中。
冷たくて、ザラザラしたまちの左手。
刃を置いたその手を繋ぐ。
また来る戦いの日まで、二人は眠る。
後悔と悲しみと、無邪気さと無知を、置いて。




