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リロード  作者: 黒十二色
第二部:RE LOAD
59/125

Chapter25 収束-1

視点:名前のない男→山田ヒロアキ

 雪の中を走る。冷たい大気。抱きかかえた女の子は温かい。大粒の雪。雪の絨毯に転びそうになる。転んだら終わる。絶対に守って見せる。きっとこれが、彼女達の命をめぐる、最後の戦いだ。


  ★


「ヒロアキ! 二時間逃げ延びて! 死んだら殺すわよ!」


 そう言って、蔵野まちは俺たちの家を飛び出した。


「まち!? 二時間って……ちょっと、待っ……! ひろみは――」


 まちの姿は、もう雪の夜に消えてしまっていて、返事は無かった。


 刺客の話では、敵は残り十八人もいるという。倒した七人と二人の狙撃手を除いて、十八人だ。自分と同等か、それ以上の力を持った暗殺者たちから、逃げ続けなければならない。


「ぅうう…………」


 残されたのは、敵の刺客の呻き声とカチカチという時計の音。


「アッキー……」


 不安そうに呟く山田ひろみ。


「あぁ、ひろみ。大丈夫……大丈夫だ」


 どうしよう。ひろみを守りながら戦うしかないのはわかる。問題は、この部屋を出るかここに残るか……。


 この場合、敵はどう出るだろう?


 残りの十八人が今の九人と同一の指示を受ける隊形にあったなら、この場所はもう包囲されていると考えていい。


 異なる……たとえば六人ずつの三つの塊であってもここにいればいずれ来るだろう。


 ここで倒れている面々も完全に無力化できたわけじゃない。

 目を覚ませば脅威になる。


 ここを離れよう。


「アッキー……こわい…………」


「ひろみ、これ着て」


 俺は玄関で滑りにくい靴を履き、ひろみに、まちのピーコートとひろみの学校指定の革靴を渡した。


 それなりに急がなくてはならない。


「まっちー……まっちーはどこに行ったの?」


 たぶん、敵の根っこを叩きに行った。


「急いで……」


 ひろみの質問には答えずに、自分の靴を履く。


 それから土足で自分の部屋に入った俺は一旦、刃物を机に置いて、黒い服に着替えてから上に背広を羽織りその左内側のマイナイフ専用の革のケース付きのポケットにナイフを装着した。


 それと、まちが以前懐に忍ばせていた反り返っていない短い小刀を借りることにする。俺のケースに入らなかったので、左手に持ったまま出かける。


「アッキー…………」


 ひろみはまだピーコートを持って突っ立っていたので、俺はひろみの手からコートを奪って、それを持って背に回る。


「ひろみ……袖入れて」


「アッキー……」


 不安そうに何度も俺を呼ぶ。


 俺が不安そうな顔してるのが悪いのかな……。


 袖を通させてすぐに右腕でひろみを地面と水平になるように抱きかかえ、


「いくぞ!」


 大きな声を出す。


「わっ。え? あ、アッキー?」


 粉々に割れた窓を通り抜けて、四階のベランダから外に飛び出した。

 監視されているとしても飛び出さないで留まっているのは愚行。


「絶対、守るから!」


 自分に言い聞かせるように叫んだ。


 絶対絶対、この約束は守りぬく!


「おー、お空飛んでるー」


 手足を水平に伸ばしながらひろみが笑っている。


 それを見て、気が安らいだ。


「落ちるなよ?」


 ひろみを支える右腕が温かい。


 温かいのはうれしいこと。

 冷たいひろみになったらまちに顔向けできない。


 今までを思い返してみると、俺はひたすらに逃げる役目ばっかりだな。


 でもだからこそ、逃げるのは得意だ。


 考えろ、効果的な逃げ方を……。


 敵は十八人……。


 俺ならば当然狙撃手は見通しの良い高台に置く。


 この雪という天候。


 射程距離はどうあれ、監視役も兼ねて目の良い奴を置くだろう。


 九人中二人が狙撃手だったことを考えれば、少なくともあと三人はいるだろう。


 この辺りで高台……新渡戸の家?


 待てよ……新渡戸も加賀も、事情を知ってしまったということは捕らえられる可能性がある。


 それを人質として利用するのは悪の常套。


 そして特に新渡戸は、霧野みやこのそばにずっといたという経緯から組織に存在を知られている可能性が高い。


 新渡戸の家に様子を見に行かなくては。


 この感じ、何か霧野みやこを守る時を思い出すな……。


 俺は屋根を踏み台にして新渡戸の家に向かう。

 敵の気配は無い。新渡戸の家の前に立つ。

 ひろみも地に足をついた。


「ぅ!?」


「っと危ないー」


 滑って転びそうになったひろみを支えてやる。


 俺のジョークはよくスベるが、俺の靴は特注のすべらない靴だから安心。

 だけども、ひろみのはただの革靴。俺のジョーク並みにスベるだろう。


 高島すら笑ってくれないってのはよっぽど俺にボケのセンスがないらしい。


 まぁ、数年前は笑うことさえできなかったから、その頃に比べれば……と、こんなことを考えたり感傷に浸っている場合じゃない。俺たちは今、敵に追われているんだった。


「アッキー……なんでゆっきーのお家にきたの?」


「え? あぁ、うーん、無事を確かめに」


 何か説得力のある理由を考えるのが面倒だったので、事実を言った。


 よかった……。


 少なくとも今ここに敵はいない。


 怪しい足跡も無い。


 まず不審な出来事があったという空気が全く無い。


 蔵野まちほどではないがそういった空気を感じることはできるので、新渡戸には何のイレギュラーも起こっていない確信ができた。


 こんな深夜だ、新渡戸も寝静まっているのか明かりもないし、次は加賀の家……。


「あれ?」


 不意に、声が響いた。

 聞き覚えがある。


「ヒロアキ? ひろみも……」


「あれー新渡戸じゃん、奇遇だなー」


「ゆっきー!」


 ――何でこんな時間に外に出歩いてるんだよこの野郎!


 平静を装ってももうどうしようもなかった。たった今一瞬の敵の気配を感じてしまったから。きっと逃げる俺を追って来てしまったんだろう。だから、これは、俺の判断ミスで新渡戸を巻き込んでしまった形になるな。


 まちの索敵能力が欲しいぜ……。


 まったくもって鍛錬不足だ……。


「ヒロアキ、奇遇ってお前……深夜二時に俺の家の前にそんな真っ黒で不吉な格好で立ってて言う言葉か?」


 敵も慎重だ。


 新渡戸の立っている場所の真横にある電柱のカゲに一人、電柱に上っているのが一人。


 あいつら二人で新渡戸を取り抑える気でいるようだ。


 残りは……俺に意識を向けているのが二人。


 この雪で、そして立地的に、ここには狙撃手はいないと考えていい。


 状況が非常事態なのは新渡戸も気付いているはずだ。


 左に持つ刃物に街灯の光を当てて、それを新渡戸の目に反射させる。一瞬はっとした表情。そして一瞬険しい表情になったが、すぐにそれを隠す。


 さすがに新渡戸は話が早い。


「ゆっきー何してたのこんな時間に」


「ああ、急にたこやきを食べたくなってな。食べたくなったんだが売ってなかったからたいやき買ってきた。食うか? コンビニのだから全く温かくはないけど」


「たべるー」ひろみが手を伸ばした。


「新渡戸……加賀がさ、新渡戸は将棋に例えると銀だって言ってたぜ」


 不自然な会話。


 銀将の動きの特長は、斜め後ろに動けること……気付いてくれよ。


「へぇ……加賀なんか歩兵のくせに生意気な……」


「それも言ってたな」


 俺はハハハとわざとらしく笑いながら言った。

 気付いてくれただろうか。


 話に乗ってきたということは気付いてくれたということ……そう考えよう。


 雪……敵が仕掛けてきた瞬間に足を滑らせたら終わる。


 慎重かつ迅速に。


「それはそうと、何しに来たんだ?」


「あぁ、ちょっとな……」


「まぁ立ち話もな――」


「新渡戸!」


 新渡戸は手に持っていたたいやきが入ったコンビニ袋を雪の上に落とし、斜め後ろに飛び退いた。


 ナイス。


 俺を襲う二本の小刀はまちの投げるそれより遥かに遅く、一本は叩き落し、もう一本は右手で柄を掴んで飛んできた方向に投げ返した。


「ぅっ……!」


 当たった。どうやら今日は、運がいい。


 新渡戸を襲った二人は予想外に避けられて一瞬の戸惑い。


 俺は雪のアスファルトを蹴る!


 面倒だ、力ずくで、吹っ飛ばす。


 右拳と右肘を、次々に二人にくれてやって、たぶん沈黙。


 ひろみが無防備。


 俺はまだ倒れ切っていない男の体を地面に見立てて蹴り飛ばし、その反動でひろみの傍に戻る。


 先刻ナイフを投げ返してやった奴が標的を新渡戸に変えた。


 新渡戸に向かって移動する。


 俺はそのフォローに行く……というフェイント。


 ひろみを斬りに飛び出してきた別の敵を吹っ飛ばしてやった。


 追撃で沈黙させる蹴りを腹に入れ、残り一人。


「新渡戸! もう一回だ!」


 さっきと同じように新渡戸は斜め後ろに飛ぶ。


 今度は敵も戸惑わず、確実に新渡戸を追う。


 あの一人以外に敵の気配はない。


 となれば取る行動は、人質作戦で時間稼ぎといったところだろう。


 素人と踏んでか、接近戦が苦手なのか、緩慢な動きで新渡戸の背後に立ち、肩を掴んで小刀を突きつけた。


「この男のいの――」


 風切る音。そのあとすぐに、金属音。


 命が惜しければ……とでも言うつもりだったか。


 俺が投げた小刀が、その卑怯な男の頬を浅く、切り裂いた。


 いつかまちが加賀に投げて黙らせた小刀が、今度はこのふざけた男を黙らせた。


 そして小刀が電柱にぶつかり雪の地面に控えめな音を立てて落ちた。


 次の瞬間、新渡戸は不格好な飛び込み前転で男の手を逃れ、俺は硬直する男の股間を思いっきり蹴り上げてやった。


「ぅがぁああああああ」


 悶絶。

 だがそうされるだけのことをした。


「卑怯者」


 俺は相手を見下ろしてナイフを向けてやる。


「っく……」

 男は逃げようとしたが、

「うお!」

 雪のアスファルトで足を滑らせて、

「……ぁ……」

 頭を塀にぶつけて転倒し、自ら気を失った。


 死んではいないようだ。


「……ヒロアキ……お前って実はすげぇんだな……」


 新渡戸は感心していた。


「ああ、そうだぞ。実はすごいんだ」


 俺はナイフをしまって少し歩き、投げた小刀を拾い上げる、また左手に持った。


「で……どういうことか説明して欲しいんだが……」


「ひろみが狙われてる。それだけだよ」


「加賀や高島には……」


「今のところは危害加えるつもりはなさそうだけど……きっと最終的な手段としてそういうことになるかもしれない」


「……そうか、集まっておいたほうがいいか?」


「いいや、きっと……まちが何とかしてくれるから……」


 そう、信じているから。


「よし、わかった! 全てが終わったら、連絡しろよ」


「ああ」頷く。


「ひろみ」と新渡戸。


「なに、ゆっきー」


「頑張れよ」


 ひろみは、えへへと高島みたいに笑って、こくんと頷いた。


「すまんな、迷惑かけた」


 俺はそう言って、ひろみを右腕に抱える。


「ぉ、お? アッキー、また飛ぶの?」


「ああ、ちょっと飛ぶ」


「じゃあ新渡戸、また明日!」


「おう。ちゃんと帰って来いよ」


「了解だ」


 俺は高く跳躍した。


「あ…………たいやき…………」


 そんな、ひろみの能天気な呟きが、聴こえた。


 結局のところ、新渡戸の家に来た意味はあまりなく、無意味に新渡戸を危険に晒しただけという結果になった。


 だが、収穫は無いではない。


 新渡戸の家に敵が来たわけではなく俺を追って敵が来たことを考えれば、新渡戸や加賀達、事情を知ってしまった者を捕らえてどうこうせよという指示はなかったということだろう。


 とはいえ、新渡戸の家の前で目覚めた彼らが新渡戸を捕らえてしまう可能性はある。


 しかし自信を持って言えるが、彼らは新渡戸を殺さない。


 確証とまではいかないがそれに限りなく近い。


 今はひろみを守るのが最優先。


 敵陣深く斬り込む飛車を信じて、金将みたいに王に侍る。


 新渡戸を捨て駒にするようで少々後ろめたいが俺とひろみに余裕は無い。


 敵の数は単純計算すれば残り十四。


 しかし俺がそうだったように一度地に丸くなって崩れ落ちても何かのために立ち上がる奴だっているだろう。


 ――何かのためっていうか、ひろみを殺すためなんだろうけど。


 と、すれば、だ。


 残り十四という考えは捨ててしまった方が賢明。


 今街にある人の気配も全て敵と考えるべき。


 人の多い場所は危険だろうか? 安全だろうか?


 他人を巻き込まないという決め事が全ての組織の者に適応されるのであれば安全と考えるのが自然。


 しかし例えば駅で毛布を被って夜を越そうとするホームレスや、久しぶりに降った雪に舞い上がって、春でもないのに駅前で騒いでいる青少年らが組織の者でないという確証が無い。


 徹夜で仕事をしているあの会社も、偽装かもしれない。


 実は組織の人間が、俺達の隙を窺っているかもしれない。


 事実、あのとき、まちは俺達の近くに入り込んでいた。


 この街全ての人間が組織と直接的に関わっている可能性がゼロじゃない。


 今は疑心暗鬼(ぎしんあんき)を生じまくっているくらいで良い。


 ――それで大切な人が、守れるのなら。


 しかし全ての人間に気を取られてしまうと、殺意への反応が遅れてしまうのも事実。


 まちほど鋭敏ではないにしろ明確な殺意くらいは感じ取れるから、そこは臨機応変に、だ。


 大丈夫。

 今は不思議なくらい冷静だ。

 頭は冴えている。


 五感が研ぎ澄まされ、また、人の気配も手に取るように感じ取れる。


 正確な位置や数はわからないが、俺を追っている人間がいるのがわかる。


 留まればきっと囲まれる。


 敵の数が最初から二十七であったという考えは捨てろ。

 第七帰宅部と、その部員の信ずる者以外は敵とせよ。


 と、なれば誰も人がいない場所へ移動すれば一番安全?


 だが待て、そう移動するように誘導されているとしたらどうだ?


 十四の兵で追い込み、その先で千の歩兵が待ち構えていたら一人の人間を守れるはずが無い。


 俺を殺してはいけないという指示がないとも限らない。


 音の大きな火器を使用するのは人目の無い場所、音の漏れない場所に誘い込んで使用するべきだ。


 もしも無制限に人を使えるのならば俺は今の俺達を殺すのに幾らかの兵で敵を所定の場所に誘い込み、集中砲火で終わらせる。


 敵の護(まも)りが固いならば自軍の被害を出さないためにもそうしようとする。


 それはどこだ?

 そうでない場合は何だ?


 二十七人いるということももう一度頭の隅に置く。


 混乱はするなよ。えーと、最初スナイパーも含めて九人で俺達を襲った。

 何故?


 九人……野球?


 ――いや関係ないだろう。  残り十八と言ったのが真実だったとして、そして四人が襲ってきた。


 新渡戸の家を襲ったわけではないのだから四人か五人の小隊がいくつかあるのか?


 あの七人プラス狙撃手の連携でもう一度襲われたら?


 そうなったら、蔵野まちがいなければひろみは助からない。

 最悪に近いケース。


 俺もたぶん逃げ切れない。


 街を一望できる新渡戸の家がある丘に敵の影が無かったとなれば敵は俺達の位置を把握する術がない?


 いや、そう決め付けるのは危険だ。


 銃火器の射程ってのは、想像を絶するくらいに長いもんだ。


 止まった瞬間に撃ち抜かれたら、熱湯かけられた雪だるまみたいに壊れて意味を失くす。


 身を隠していると自分で決め込んでいるつもりでも、少しずつ敵が包囲を狭めていて一気にもっていかれないとも限らない。


 人のいなさすぎる場所は危険、人のいすぎる場所も危険。


 向かう先が決まらない。


「アッキー……同じところばっか飛んでて、つまんない」


「えっ!」


 俺は方向を変えて跳躍。


「わぁ……」


 危ないところだった。

 もしかしたら移動のパターンを読まれて、次の着地を狙われていたかもしれない。


 助かったよ、ひろみ。


 ひろみは諸手を自分の頭上、つまりは地面と水平方向に上げて喜んでいる。


 気楽だ……。


 少し、いらついた。

 そんな自分をなだめる。


 そう、それができるくらいに今の俺は冴えている!


 自信を持っていいはずだ!

 逃げ切れる! 絶対に逃げ切る!


 雪はいつの間にか雨に変わって、より路面が滑りやすくなった。もしかしたら、雨雪のおかげで敵の動きが鈍いのかもしれない。あるいは、まちの動きに釣られてくれているのかもしれない。


 冷たい雨が、俺達を濡らす。


「ひろみ、寒くないか?」


「さむい」


 そりゃあそうか。


「でも楽しいからいいの」


 そうか。それは実にいいことだな。

 何事も楽しまなくては。


 事実俺の脳もたぶん脳内麻薬を際限なく出しまくってすごいことになってるぜ?


 だがこれは、楽しいとはちょっと違うのかな?

 まぁそんなことはどうだっていい。


 思考する作業に戻ろう。

 最悪のケース、ってやつを考える。


 それは「二時間くれ」とまちが言ったが、二時間経って何も起きない場合。そしてその後何時間経ってもまちが戻って来なかった場合。鬼の数が圧倒的に多いルール無用の鬼ごっこで、しかも範囲は無限大。制限時間も無し。親玉が兵を撤退させなければ数の多い方が、どの角度から考えても有利。とんでもないポカをしてくれない限りは勝てない。まちもいない、ひろみも殺される、俺はまた守れない。どうしようもない。ついでに加賀たちも全員捕虜。これが最悪。


 撤退のアラームが鳴ってくれることを祈る。


 そんな淡い祈りなんて捨ててしまったほうが良いかもしれないのだが、これもあれかな、鍛錬不足。


 すっかり平和に慣れてしまっている自分が、悲しく、それ以上に嬉しい。


「あ……アッキー……」


「ん? どうした? ひろみ?」


「きもちわるい……」


「え?」


「吐く……」


「ちょっ……待って……」


 しまった……乗り物酔いか。


 一瞬暴言かと思って焦った。


 ちくしょう、しかし安全運転のつもりでいたのだがさすがに何分も飛び回っていてはそうなるか……。


 ちょっと俺も脳内ぐるぐるで興奮気味だったから、そこまで気が回らなかった。


 車に乗るのでも運転手は酔わないしなぁ。


 やむを得ないな、と思い、俺はとあるビルの屋上に立った。


 気を張る。


 以前、気を抜いた瞬間にまちに後れをとった時のことを思い出し、それで一瞬気が抜けたが敵の攻撃は無かった。


 しかしまた自分の鍛錬不足を反省。


「帰宅部が板についちまってんなぁ」

 自嘲して言う。


「おえぇええぇぇ」

 隣ではひろみが胃の中にあったものを吐き出していた。


「大丈夫か?」


「ぅぉぇええええええ」

 大丈夫じゃなさそうだった。


「けほ、けほ……おえぇぇぇええ」


 相当だな……。


 幸いにして雨が降っているから嘔吐物が屋上のコンクリートに残ることもなさそうだった。


「ひろみ……これ」


「ありがと」

 手渡したハンカチで口元を拭う。


「落ち着いたか?」


「うん」


「そうか……じゃあ……」


「また飛ぶの?」


「飛ぶしかないだろう」


「また揺れるー?」


「それなりに」


「やだ……」


「そ、空飛ぶんだぞ? やっほーってほら……」


「やだやだ! きもちわるいのやだ! まだあたまいたいー!」


 あぁ、こんなときに……馬鹿……。


「ひろみ!」

 俺はひろみを無理矢理抱えようとするが、拒否拒絶。


 そして俺の右手はその驚異的な胸囲を掴んでしまった!


「ああぅ……アッキーセクハラ……」


 故意ではないので、セクハラでは断じてない。


 そして俺は脅威が迫ってしまったことに気付く。


 とんでもない罠があったものだ……。


 どうすればいい?


 今度は何人だ?


 気配だけで……五……。


 そしてこれは何となくだが……狙撃手が二方向から狙っているんじゃないか。


 どう避ける?


 上……上に逃れてその後は?


 空中に逃れることは読まれているだろう。空中でどれほどの身動きが取れるのかと言えば、ひろみを抱えたりしていなければきっと敵に遅れを取ることはない。


 だが、ここにひろみはいるわけで、ひろみが死んだら終わるわけだ。


 更に俺の苦手な近接戦闘が待っている。


 いくらまちに鍛えられたからといって五人相手にして無事で済むとは思えない。


 誰かを守らなくていいのなら勝ち目はあるだろうが誰かを守らなくなるとかそんな可能性はありえないので考えない。


 考えない。


 それから相手が俺から完全に死角になっている場所から来てくれればいい。そっちの方が読みやすい。


 一番怖いのは正面から力技でこじ開けられ、その隙に、スピードで持っていかれること。


 先手に出て攻撃したら瞬間ひろみの命はない。

 後手に回るしか選択できない。


 やはりここは……逃げるしかないな……とは言っても逃げるのはどこへ?

 あそこに見える建物内という手もある。


 地下に逃げるのは愚かだが、出口を狙われても窓から出れば良いのだ。


 窓を固められていたら?


 屋上?


 そこも狙われていたら?


 逃げ込んだ建物自体が罠だったら?


 今までのように街を、屋根を飛び回るか?


 しかしひろみの限界も近い。俺の限界も近い……。


 まち…………。


「アッキー……手……」


 手?

 手がどうした?


 もに、もに。


 あ…………揉んでしまった。


 何やってんだこんな時に!

 集中しろ。敵の気配に!


「アッキー…………めっ!」


 めっ、されてしまった……。

 屈辱的にも小突かれた。


 ……しかし、やわかった。ほわんほわんだった。

 いやっ、わざとじゃない。信じて欲しい。


 俺の右手はようやく名残惜しそうにひろみの胸から離れ、その手で懐のナイフを握る。


 げ……敵、増えてる…………。


 これって絶体絶命な事態なんだがどうしよう……。


 五人どころじゃない、倍……十人いるぞ……。


 たとえば三方向からの銃弾を皮切りに十人に波状攻撃されたらどうすりゃいい?


 さすがに思考停止だろこんなの……。


 逃げ道……ひたすら逃げ道だけを探す。


 だがその逃げ道に導いて串刺しの蜂の巣にしようという魂胆(こんたん)かもしれない。


 守る人がいる以上どうしても先に動くことができない。


 敵の気配を探るに、隙が大きい場所は、二箇所。


 キレイに隙間がある。


 ……狙撃する銃弾の通過予定コースか?


 それすらも罠か?


 急いで我が家を出てきたため閃光弾も煙玉みたいなものも、そういった敵の目を誤魔化してやりすごすような道具も所持していない。


 軽さを重視するためだ。


 ありえない話だが、ひろみが何か持っているとは……待てよ。


 ひろみが着ているピーコートは玄関にあったものを咄嗟に渡したものだから、まちのものだ。


「ひろみ、コートのポケットに何かない?」


「んーと……」


 ひろみはコートのポケットをまさぐる。どこでもドアとか出てきてくれたらいいな。そりゃ夢があっていいな。あはは。


「ティーバックぅ」


「違う。ひろみ。ティーバッグだそれは」


 ひろみがポケットから取り出したのは赤い下着などではなくお湯に浸けて紅茶するものだ。

 どういうメッセージだ?


 紅茶……カフェイン……コーヒー……緑茶……目を覚ませ?

 紅茶……リラックス……落ち着け?


 ていうかメッセージなんて無いだろう。


 じゃあ何でティーバッグが一個だけポツンとコートのポケットに……。


 ひろみは紙の袋からきめ細かな網の袋を取り出して俺に手渡した。そしてもう片方のポケット をまさぐる。


「おぅ、ティーバックー」


「ちが――いや、そうだ。それはティーバックだ」


 何でだよ! ぇぇえ? まち!?


 いつかそのダジャレを披露しようとか考えていたのか!? 馬鹿か? 新渡戸じゃないんだから!


 何だその赤い下着は! けしからん!


「アッキー、今のセクハラー?」


 駄目だ、頭の中真っ白だ。


 リラックスというよりか完全に弛緩(ちかん)した。あぁ痴漢もした。さっきのはセクハラというよりは痴漢だ。故意ではなかったが。


 ……ちかん……置きかえる置換(ちかん)……こんなところから繋げてアイデアを探してどうする。これは思考停止というよりも現実逃避に近いのか? 帰宅部は現実から逃避するものなのか?


 ちくしょう、ままよ!


「……っ!」


 無言で気を吐く。


 俺はひろみを素早く背に抱える。


 そして紅茶の方、ティーバッグを口に入れ奥歯にくわえ込んだ。

 下着の方はいらないので上空に投げる。


 味しねぇ。


 右腕に持ったナイフで足元のコンクリを三角に刻む。


 下に逃げることにする。屋上から建物内へ。


 コンクリートの中になんかすごい固いのとか仕込んであったらそれは斬れないからとりあえず上に逃げる。


 あとは知らん。


 なんとかなぁれと動き出す。


 床が落ちるのを確認。三角の穴から階下に飛ぶ。


「ぅう!?」


 驚くひろみの声。


 ひろみのコートの右の裾が俺が石を綺麗に切断できなかったから凸っとなったところに引っかかってしまった。


 ミス。


 世界が予想外に傾き、一瞬、ひろみを放しそうになるが、耐える、左手の小刀を落としてその手でひろみの左足を掴む。


 歯を食いしばる。口の中でティーバッグの網が破けた。


 苦い。


 何でこんなもん口に含んだ?


 意味わからん。


 ひろみの左足を引き下ろすように引っ張った。腕の力だけで一旦体を浮かし、時計回りの独楽のようにくるり、右のナイフで引っかかったコートの裾を「なんでやねーん」と華麗なツッコミを入れるような動作で切り裂く。


 落ちる。

 一瞬で済ませた。


 鍛錬の成果だ。


「んぅっあ!?」


 恐怖が混ざった声。トン、という小さな足音を立てて降りる。


 ひろみは背に背負い、落とした小刀を素早く拾う。


 下に敵はいなかった。


 安堵。


 下に一般人もいなかった。


 廃ビルに、埃舞う。


 っっって、ここよく見たら新渡戸の家のパン屋ビルじゃねえか。


 全くもって良い思い出が無いぞ……。


「けほけほ」


 ひろみは咳こんでいた。


 ひろみが埃まみれなのでたぶん俺も埃まみれなんだろう。


 黒い服だから、より汚く見えてしまうだろう。


 口の中が苦いのも困ったものだ。

 でも……少し落ち着いた。


 苦いもの全てを雪のように積もった埃の上にぺいッと吐き出した。


 香りだけが残った。


「アッサム」と俺は言う。紅茶の種類当て。


「ダージリンって書いてあったよー」ひろみが正解を告げてきた。


「またかっ」


 紅茶の味の違いなんぞわからん。


 黒いシャツの上に背広を羽織り、赤い眼鏡に両手に刃、背中にひろみを背負っている。


 俺は駆け出した。


 というか、勢いで口に含んでしまったが、もしもあれが紅茶の皮をかぶった何らかの毒とかだったらと考え、戦慄して震えた。そんな軽率さを大反省だ。




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