Chapter6 山田ヒロアキの戦い_2
これからどうするか、を考えながらマンション屋上を蹴ったところで、背中に不審な気配を感じた。
尾行されている。
級長以外に思い当たらない。どの辺りからだろうかと思ったが、どこから尾行されていたかなんて知らなくても支障はない。
別の場所に誘導するだけだ。民家の屋根を踏み台にして、俺はひとまず怪しまれないよう、まっすぐパン屋方面に向かう。
雨の中。さて、どこに誘い込もうか。雨で有利な場所といえば、どこになるのかな。
しかし、
「待ちなさい、山田君」
少し大きな公園にさしかかったところで、不意に呼び止められた。
「もう追いつかれたか」
「ちがうわね。尾けていたの。途中からね」
知っていたさ。
俺が公園の広場に降り立つと、その二秒後に前方に、フワリとスカートを揺らして、級長が着地した。とても静かな着地だった。再び対峙して、話す。
「じゃあ目的地まで案内させればよかったじゃねえか、うっかりだな級長」
「ダメね。貴方は尾行に気付いてた。そして目的地とは違う……そうね、自分に有利な場所で私を倒そうとした。違う?」
恐れ入る。文句なしに図星だ。
「あるいは、〈器を生む者〉たちに、器が追われていることを告げて、霧野みやこを移動させるよう仕向ける」
「そういう手もあるね」
「私はこの先に奴らの研究所があることを知っている。だから、ここで邪魔な貴方を動けなくして、そこから霧野みやこのある場所へ行き、破壊する」
やっぱ敵のアジトを知ってたか……参ったな。
「できるもんならな」俺は虚勢を張った。
「できないはずがない」感情のない声で、級長は言った。
「なぁ級長」
「何? 無駄話をしても結果は変わらないわよ」
「人、殺したことあるか?」
「ないわよ」
「言い切れるか?」
「ええ。私が壊してきたのは、〈器〉だけ」
「そうか」
俺が小さく頷くと、彼女は、それが何、とばかりに、小さく首をかしげてみせた。
俺は言う。
「確かに、俺が思うに不老不死に夢などないし、生老病死から目を背けるのは自然の摂理に反すると思う。でも器と呼ばれる人だって一つの生き物なんだよ。人の形をして人のように話して、歩いて、食べて、寝たり起きたりしたら、それは人間なんだよ。だから、それを殺したら級長さんも……人殺しなんだぜ?」
「違う。あれは、人じゃない」
どうあっても人間とは認めないつもりみたいだ。
級長は一つ、呆れたように溜息を吐いた。
「言いたいことはそれだけ?」
「そういう反応を示された以上、やっぱお前は、敵みたいだな」
「山田くんが我々を裏切った時点で、とっくの昔に敵ね」
「真っ向勝負は得意じゃないんだがなぁ」
「覚悟はいい?」
「オーケーだ。いつでも来いよ。俺も、本気を出す」
また虚勢。
そして更に、俺はスーツの胸ポケットから安物の眼鏡を取り出して、それを装着した。
そうだな、験を担ぐようなものか。スーツ姿であるのもそのためだ。
少しでも格好を変えることで、少し強くなれるような気がして、度の入っていない伊達眼鏡をいつも用意していた。今がそれを使うときだろう。
正義の味方。変身ヒーローってやつだ。
「いくわよっ!」
降り続く雨の中、級長が先攻して向かってくる。
左手には必要以上に反り返った形状の小太刀。
もう片方の手には握った拳。次々と繰り出される打撃と斬撃。
空気を切り裂く音が、真夜中の公園に響く。
――殺さないように相手を屈服させるのは、非常に難しいな。
なんて、そんなこと考えてる余裕なんて、俺には無い。
級長ならそういうことも考えてしまえるんだろうし、まさに考えているんだろうがな。
とすれば、付け入る隙はそこにあるんじゃないだろうか。
右手、刃、また右手、刃、右足、左足。
次々、繰り出される級長の攻撃。
止まない。まるで木枯らし、いやそんなものではない。嵐とか竜巻とか台風とかハリケーンとか強風波浪警報だ。
あっという間に背後は木。退く場所は……上しかなかった。
俺は飛びあがって、木を蹴って距離をとった。
延々と回転し続けた級長は、俺が蹴った木を美しい切断面で斬り倒したところでようやく止まった。
「級長さ――」
ヒュン、と言葉を遮る音がした瞬間には、もう目の前に、緑がかったスカートが揺れていた。喋っている暇なんてないらしい。「お前の目的は時間稼ぎか」とでも言わんばかりの高速回し蹴り。
繰り出された右足を、俺は右手一本で受け止める。
「ぐぅ」
凄まじい衝撃。
級長の軽そうな体、軽そうな動きからは信じられない威力。まるで地上一万メートルの高さから地面に自由落下したようなスピードと衝撃。俺は軽々十数メートルは吹き飛びジャングルジムに激突した。痛いなんてもんじゃない、というか右腕がしびれて動かない。折れてはいないようだが。
「勝負あったわね」
「まだ全然っ」
「動かないんでしょう? そっちの腕」
「それはどうかな」
本当は動かないが、そう言ってみる。
「少なくとも、すぐには動かない。それでは私を倒すことはできない。大人しくそこで眠っていなさい」
「まぁ焦るなよ。どうして俺がここにお前を誘導したと思う?」
「何? どういうこと?」
級長が表情を曇らせた。
「本当に霧野みやこはあの家にいなかったのかってね」
「…………」
「本当に確認したか? 隅から、隅まで。俺を追うことに気がいって、詳細な捜索してないんじゃないのか?」
「…………まさか……」
「俺の勝ちのようだな。今頃どこにいるんだろうな。関東地方を抜け出る頃かなぁ。奴らは隠れるのが他の奴らより上手いから、また見つけ出すのに何年かかるかわからないよな。いざとなれば霧野みやこを学校になど出さずに研究所内で生かせばいい。そうすればもう見つかりようがない。さぁどうしよう。殺せない。研究が完成する」
「何のつもり? 本当に、研究を完成させようとしているの?」
「いやさ、研究なんてのはどうだっていいんだ。ただ、俺は霧野みやこが生き残ってくれればそれでいいのさ。大事なクラスメイトだからな。だから級長さんに敗北しようが、霧野さえ生きれば俺の勝利」
「くっ」
「俺に気を回しすぎだ。そんなんで本当に訓練を受けたのか?」
さっき級長に言われたことを、ほとんどそのままお返しする。
安い挑発。でも、効果はあるみたいだ。
彼女は、あからさまに怒りの目を向けてくれていた。
「貴様……」
俺は、なおも挑発を続ける。
「殺したければ殺してみろ。お前に人を殺せるのなら。お前は今、よくわからん尊厳とかのために戦っているんだろうが、俺は、命のために戦ってるんだよ。尊厳のために殺そうと戦う。命を守るために戦う。その違い。敵。だからお前をここで止めて、霧野みやこから手を引かせなくちゃならないんだよ」
「私が手を引くとでも?」
「引かせるさ。倒してな」
「あり得ない話だけど、もしそうなったら、何度でも霧野みやこを壊しに行くわ」
「何度でも止めてやる」
「言うんなら、できることを言いなさい。貴方の力じゃ私を止められない」
「それはどうだろうね。俺が、まだ力隠し持ってるとしたら?」
兵器ってのは、安定しているべきなんだ。人が計算できない兵器、それは不安を招く。俺たち器を追う者は兵器そのもの。安定するために鍛錬を重ねている。機械モノでいうところのメンテナンスとか言ったっけ?
正直に言うと、勝てる気がしない。
俺の体も技術も、兵器としては錆付いている。低い位置で安定しているんだ俺は。サボっていたしな。平和に浸かりすぎて。例えるなら、級長が人型のロボット兵器だとすれば、俺は猪口才な飛行機械。いかにパイロットが優秀でも、埋められない差がある。パイロット的にも負けてるんだけどね。
ただの哨戒用小型飛行機が、人型強力兵器を落とせるわけないってわけだよ。
神風特攻してもね。
隠し持っている奥の手なんて、ありはしないんだ。
つまり、口先で色々言っているけど、大半がブラフ。ただのハッタリだ。敵いっこない。こんなバケモノ。全身機械でできてるような、隙のない人形に。だから問題はいかに逃がし、いかに逃げ――
突然の低い音、俺が蹴り飛ばされたことに気付いたときは、すでに空中だった。
「っくぁがっ……」
体中に衝撃が走って、全身が痺れた。
俺の体はどうやらまた遊具に叩きつけられたようだった。
……何だ今の。何も、見えなかった。
「悪いけど、貴方にかまってる暇はないようね。霧野みやこを追うわ」
また蹴られた。
級長は茹でられた海老のように腹を抱えて丸まっていた俺の背中を、フリーキックを蹴るように蹴り飛ばす。俺はザザザザとカーリングの石のように砂地を滑った。
服はボロボロに擦り切れ、擦り傷に血が滲む、衝撃に血を吐いた。
「……ッっっはっぐ」
そこには、ただ静かな闇があって、公園にある外灯が妙に眩しかった。
痛い、視界が揺れる。だが気を失うわけにはいかない。
級長には勝てないかもしれない。でも、どんな手を使ってでも、霧野みやこを守らなくては。
連れ出さなければ。逃がさなければ。
研究所、研究所へ行って……。
公園の時計の針は、午前四時。
いつの間にか級長は消えていた。おそらく、霧野みやこの家に行って、隅々まで痕跡を探し、彼女にとっての敵である〈器を生む者〉が霧野を何処へ連れ出したのか探す気だ。
そうだな、多く見積もって四十五分間。
霧野みやこの住んでいる場所を精査し、行き先を特定して、級長が研究所に来てしまうまでの時間。
「四十五分……てとこか」
呟いて歩き出す。傷は痛む、でも体はなんとか動く。
足を引きずりながら、急ぐ。
研究所に。
そこに、十中八九、霧野みやこが、いる。
★
霧野みやことは、何者か。
俺との関係はクラスメイト。ということは自動的に級長――本名不明――との関係もクラスメイトになるので、級長はクラスメイトを殺そうとして俺と戦ってるわけだ。とんでもない女だ。
俺にとって、級長と霧野みやこという二人は、びっくりするような例外の二人であり、俺は〈器〉として生まれてしまった霧野みやこを守り、級長とは敵対して戦うという展開になってしまった。
こんなの、級長以外、特に誰も望んでいない展開だったに違いないので、分かり合えない悲しさを大いに痛感しているところである、とはいえ、実をいうと俺の中には「霧野みやこは死ぬべきかもな」という悪魔みたいな思考も存在していて、少しばかり悩ましい。
そもそも霧野みやこという人間は存在しなかった。
しかし、霧野みやこの基盤になった人間なら存在した。
それが、新渡戸夕実という少女である。
新渡戸夕美は器ではなかった。にもかかわらず、少女は夜道を歩いている際に、器を追う者によって命を落とした。人違いで殺されてしまったのだ。
そう、ほかならぬ俺の手で。
だけど、この時の俺はもう、器を壊すことに対して大いに疑問を抱えていたし、器を追いかけて壊す組織に対しても関わりたくなかった。
もう殺しは嫌だった。むしろ俺は、彼女を生かすことにした。
つまり、こういうことだ。
新渡戸夕実って子が死んだ。
だが、俺は〈器を生む者〉の存在を知っていた。
〈器を生む者〉は細胞ひとつから人間を作ることができた。
よって俺は、彼女を生かすために器を生む者に彼女の遺体を元の住所つきで渡して元の場所で生きられるように頼んだ。
〈器を生む者〉たちは喜んで受け取ったに違いない。
そういうこと。
俺としては、殺してしまった存在を生かすことが、少しでも贖いになってくれればと思った。時間は掛かっても、元の新渡戸夕実という人格がこの世に戻ってくれれば、今まで俺が殺してきた〈器〉たちの魂も、少しは浄化されるような気がしたんだ。
俺が中学に転入した時、俺は自分の行動を後悔することになった。
中学に入った俺は、新渡戸夕貴って男と出会った。死んだ夕実じゃなくて、夕貴。つまり、新渡戸夕実の兄のことだ。
新渡戸夕貴は妙に馴れ馴れしい男で、転入したばかりの俺と意気投合した。
あの日の会話を思い出す。
「俺は山田ヒロアキ、よろしくな」
「ん、新渡戸夕貴だ。新しく渡来したドアが夕日を受けて高貴に光ったって覚えると……」
「おぼえにくいよ!」
反射的にツッコミを入れはしたが、新渡戸という姓は佐藤鈴木田中高橋レベルのありふれたものではない。偶然に同じ姓が近所に居たら親戚だと思われるくらいの存在密度だ。それに加えて「夕」の文字が入っていることを思えば、関係が無いと思う方が難しかった。
「よろしく、ヒロアキ」
俺たちはがっちりと握手を交わした。
「新渡戸」
「なんだよヒロアキ」
「お前、妹とかいるか?」
「ああ、いるぜ。今は全寮制の私立の中学に通ってるから、もう長いこと会ってないけどな」
「あ、あぁそう、なんだ」
いや、生きているわけがない。とはいえ妹が一人とは限らないか。
「で」と新渡戸。「何で急にそんなこと?」
「ん、ああいや、私立行ってんなら人違いだな。知り合いに同じ苗字の人がいてさ。珍しいだろ、新渡戸なんて」
「ところでヒロアキの方は、家族は?」
「俺は親も兄弟も、いないよ」
「あぁ、そう、なんだ」
そうなんだよ。
実を言えば、かつて新渡戸夕実であり、今は器になっているであろう少女を俺は探していた。探し出して何をどうするというわけではなかったが、とにかく見守りたかったのだ。
それが妙に気が合って仲良くなった男の妹だったってのは、過ぎるくらいに計算外で、笑えない冗談であった。
最初は半信半疑だった。新渡戸自身も妹とは暮らしていないと言っていたし、あまり居ない苗字とはいえ無関係の可能性だってあった。しかし新渡戸を尾行した末、路地裏の怪しげなパン屋に行き着いた時、大いなる不安を抱いた。
「新渡戸のやつ、こんないかにも怪しいところで何をするつもりだ」
この時の俺は、そんなことを呟いたが、実はこの場所が、新渡戸の父親が経営するパン屋だったのだ。
「よくこんな場所に店開く勇気があるな。人が通らないじゃないか」
そこは一階にパン屋があるだけでほとんど空きビルに見えた。実際その周辺はほとんど人の通らない、通称して幽霊街と言われる場所だった。どう考えてもパン屋は大赤字だろう。
で、ボンヤリとパン屋の蛍光灯を眺めていても埒が明かないので、俺は全くの空きビルだった隣のビル屋上からパン屋ビル屋上に飛び乗った。内部に侵入しようというのだ。
その時だった。
目に入ってきたのは、美しい少女。
鮮やかな黒い髪、吸い込まれそうな漆黒の瞳。女子としては大柄の百七十センチほどの身長。
屋上で、俺を見つめて佇んでいた。
「…………」
俺を見据えているのに、何の言葉も無い。何の感情も無い。
この反応は、作られた〈器〉がする反応と同じだった。普通の人間の反応ではないと断言できる。それくらい、俺は〈器〉というものを見てきているから。
となれば、この娘の名前を聞けば全ての謎が解ける気がした。新渡戸夕実と答えれば、この娘は俺が殺したあの娘、その生まれ変わりのようなものだ。
その時、俺は俺自身が何を確かめにその場所に来たのか、一瞬わからなくなった。
新渡戸夕実が死んだこと?
それとも生き返っていること?
新渡戸夕貴が、新渡戸夕実と関係ないこと?
欲張りなことに、全部を確認したがったんじゃないだろうか。
「君の、名前は?」
少女は数秒の沈黙の後、
「……霧野……みやこ」
安堵と落胆。
新渡戸夕実じゃない?
あぁ、そうか。偽名を使わせているのだ。そうに違いない。
「本当の、名前は?」
「……霧野みやこ」
ビルの屋上に風は吹く。
きっとこの建物の何処かに研究施設のようなものがあるはずだ。
俺は、〈器を生む者〉の研究の話を、ある程度は知っている。
この〈器〉がどんな名前でも、いつかは新渡戸夕実になるものである可能性が高い。
「夕実~。夕実~、どこだ~?」
建物の中から声が聴こえた。
――夕実。
そう言っている。
俺は物陰に身を隠して息を殺し、様子を見ることにした。
「夕実~」
ドアノブが回り、鉄扉が開き、四十代ほどの男が顔を出した。
「なんだ、夕実、こんな所にいたのか」
「おと、うさん」
「そうだよ、おとうさんだ。さぁ、研究所に戻ろう。お薬の時間だよ」
バタン、と鉄扉が閉じた。
二人は建物の中に入っていった。
――夕実、薬、研究所。
〈器〉だと断定した。
――壊さない。壊させない。守ろう。
決意した。
それから数日後のことだった。
新渡戸の家に呼ばれたときに、再び四十代ほどの男を見たのは。
やはり新渡戸の父親だったようで、俺は俺の秘密はそのままに新渡戸の秘密を知ってしまったのだった。
その後しばらくは〈器を追う者〉達の影はなく、俺は学校生活というものを楽しんでいた。あろうことか、楽しんでしまっていた。
こんな俺にも、二人の仲の良い人間が居る。
一人は先述の新渡戸夕貴。もう一人が加賀という男で、こちらはどちらかと言えば引っ込み思案で、男子としては低めの身長をしていて女子からは「カワイイ系」などといってもてはやされるタイプの男だ。二人とも中学時代は、いつも三人で一緒に行動していた。
一緒に夜の学校に忍び込んだり、テレビゲームに初めて触ったときに壊してしまって大騒ぎしたり、自転車三人乗りして坂下って転んで加賀がちょっと大きな怪我したり。色々なところに行った。
ずっとそんな生活が続けばいい。ずっと三人で馬鹿やっていたい。そう思った。
世界が存続する限り、何度も雨が降るように、何度も晴れの日があることを、知った。
高校に入って、霧野みやこが同じクラスになった。そこから、また雲行きが怪しくなった。
理由はおそらく監視だろう。誰が誰を監視するのかといえば、新渡戸夕貴が霧野みやこを監視する。何を監視するのかといえば、薬を飲んでいるかどうか。
〈器〉は、薬剤を投与しないと長くは生きられないという話を研究員らしき男から聞いたことがある。人手が足りない等、何らかの理由で新渡戸夕貴が霧野を監視する必要が生まれたのだろう。
そこから、俺たちの平和ってのは大きく軋み出したというか、導火線に火が点いたというか。
そして高校に入って二年目の秋に、ついに平穏は崩壊してしまった。
俺にとっての平穏も、その他みんなに関しての平穏も。
晴れの日の終わりを運んできたのは級長だった。それまで俺のクラスに紛れ込んで級長してた女が追っ手だったというわけで、早い話が、〈器を追う者〉の出現って話だ。
ただの数日で、たくさんの嘘で塗り固められた日常が、削り取られていった。
まるでカンナで木材を削っていくように。
その大工や芸術家の行為と違うのは、木材に、目指すべき形がないこと。
「山田君、ちょっといいかな」
放課後、帰りの地下鉄の車両の中で、俺の背後から女の子が話しかけていた。周囲に人の姿は無かった。
可憐だった。美しかった。綺麗だった。
ショートカットで制服姿。身長は友人の加賀と同じくらいで、大体百六十四センチメートルくらいだろうか。姿勢が良いので加賀よりも高く見えるが恐らく同じか少し低いだろう。
赤いフレームの眼鏡が静かに光っていた。
見覚えのあるその顔は、学級委員の女級長さんだったね。
名前は――なんだっけ?
「ん? あぁ級長、あれ、帰り道こっちだっけ?」
「ううん。本当は、地下鉄なんかには乗らないんだけど、今日は特別」
揺れる車両内、流れて行く景色はトンネルの中らしく暗闇で、戸に映った自分の顔が、ちょっとビビッてることに気づいて思わず苦笑した。目の前の彼女が、いつもの級長の雰囲気とかけ離れていたからだろう。ただ普通に喋ってるだけなのに研ぎ澄まされたナイフを突きつけられているような気分だった。
「へぇ、それはまたどうして?」
「貴方と二人きりで話がしたかった」
「愛の告白?」
茶化してみた。
あまり反応がない。
「告白と言えば告白だけど……」
電車は終点の、俺や新渡戸たちが降りる駅に着いた。
「少し、時間いいかな?」
不思議に思いながらも俺は級長の後に続いて電車を降りて、街を歩く。
そして歩きながら、あまり愉快ではない話を聞くことになった。
すっかり平和ボケした俺は、何かいやな予感はしつつも、僅かながら考えられた可能性、ちょっとしたロマンスの予感に胸弾ませたってのに、あんまりだね。まさか級長が、敵だったなんてね。
「山田くんに、釘を刺しておこうと思ってね」
「釘? 俺は、わら人形じゃねぇぞ」
ふざけた調子で言ったが、級長は俺の態度および言葉をシカトし、
「いざというときに貴方は邪魔してきそうだから、一応、ね」
「何の話?」
「とぼけても無駄。全て調べた。貴方が我々を裏切っていることもね」
「裏切る? 元々俺は何にも属してない、善良な一般市民山田ヒロアキだぜ?」
「意味がよくわかっていないようね。任務の支障になるなら、私は最優先で貴方を動けなくする、ということよ」
「殺さないんだ」
「……当然でしょう。殺しなんて、それは罪深いことだわ。今日の話はそれだけよ」
言いたいことだけ言って、踵を返して去ろうとする女に、俺はこう言った。
「あ、お前の名前なんだっけ?」
「名前などない」
冷たく言い放った。
以上が、晴れの日の終わり。今日――いや日付が変わってもう昨日になったか――の放課後に交わされた俺と級長の会話である。
ともあれ、級長の俺へのコンタクトが意味するのは、は霧野みやこという器の存在が敵に知られたってことだ。
敵……。
今、俺はそう思っただろうか。
いつの間にか、手を組んでたはずの人々を裏切って、壊していたはずのものを守っているなんて、不思議な気分だ。
級長は近いうちに動くだろうと思った。数時間後にでも。
というよりも、あれはきっと級長なりの俺への宣戦布告だろう。
たぶん「今夜、霧野みやこを殺しに行きますよ」というメッセージ。
となれば、俺は――。
俺は霧野みやこの住むマンションの屋上で、戦闘服にしているスーツ姿で夜襲を待った。すぐに襲いに来ても良いように、級長と別れた後、速攻で着替えて霧野のマンションに直行したのだ。
日付が変わったが、級長はなかなか来なかった。だが何日でも待とう、あの女から、俺の贖いの象徴、その器を守るんだ。
そう誓ったから。
屋上で待つ理由は、霧野みやこの部屋が高い階にあることと、高い建物への侵入は屋上から入れというのが組織のマニュアルにある。理由の詳細は不明だが、まぁどうせ見つかりにくいからとかではないだろうか。とにかく、この状況、少なくとも俺が侵入するんだとしたら屋上から入るだろう。俺がそうするから相手も確実にそうするというのではないが、級長が宣戦布告してきたということは、マニュアル通りに待ち合わせってことに違いない。
しばらくすると雨が降ってきた。
都合が良かった。
雨は人の動きを鈍らせるし、多少の金属音は雨音に打ち消される。一般人の目につきにくくなる。
そして、俺がひとつの溜息と共に一瞬気を抜いた、その時だった。
「っ!」
キィン、と澄んだ音が響いた。
錆びた金属片が突然飛んできて、応酬の末に煙玉のようなものを使って逃げたのだった。
そして今、何度も蹴り飛ばされてボロボロになりながらも霧野みやこを守るために新渡戸家パン屋にある生む者の研究所を目指して、今に至る。




