Chapter6 山田ヒロアキの戦い_1
視点:霧野みやこ→山田ヒロアキ
雨の落ちる音。
最大出力のシャワーのように、俺の体に打ちつける。
目の前には見知った顔。知らない者を見るような目で俺を見ていた。
そいつは俺の名前を呼んで、「何で、何で」とわめきちらす。
まるで子供。俺は大人らしく静かに涙を流すことしか出来なかった。目から出るただの水を、雨と混ぜながら。何故涙が流れるのか、考えていた。
目の前のそいつが、俺の名前を呼んだ。他の誰が名付けたわけでもない、俺が名付けた、特に意味のなかった俺の名前だ。そんな名前の人間はいない。でも……。
過ぎた時間は戻らない。雨が空に昇っていくことが、あり得ないように。
だけど――。
耳の奥で、歯車がズレたような音が、鳴った気がした。
――俺がもっと強ければ、よかったのに。
★
闇の中、雨の下のビルの上。
「っ!」
刃の音。鈍めの金属音が響いた。
突然背後から飛んできたのは、錆びた金属片だった。俺は、取り出したナイフでそれを弾き飛ばしたが、金属片は脇腹付近のブレザーの一部を切り裂いてコンクリ上に落下した。
――上!
女の刃が、いたいけな普通の高校生である俺を刻もうと、ヒュンと風切る音を立てる。
刃の音。今度は澄んだ音。風鈴のような音。
制服の内ポケットから取り出した俺のナイフが、頭上からの一撃を受け止めた音だった。
女が小さな雨粒が立てるような、微かな音を残して着地し、俺たちは対峙した。
とある秋の日、深夜二時。
女の正体は、まぁ当然、級長だった。
まいったね。
いつものようにショートカットの髪型で制服を着ている身長百六十四センチメートルの女だが、いつもと違ったのは、赤いフレームの眼鏡をかけていなかったこと。そして左の手に持った太刀は刀身三十センチほどの短いもので、全身でも五十センチに満たないほどだった。
反り返った刃は、いかにも血が似合いそう。
こわいな。
「やっぱりきたか、級長」
「それはこっちの台詞ね、山田君」
「場所を変えようか、霧野みやこはここにはいない」
「嘘ね、そうだとしたら、貴方は場所を変えようなんて言わないわ」
その通り、嘘だ。だけど、これは何が何でも通さなきゃならない嘘だ。
「苦手なんだ、高いところ」
「嘘ね、苦手ならこんな場所で待ち伏せなんてしないわ」
その通り、嘘だ。他人より高い場所に慣れている。
「見逃して、くれないかなぁ」
「無理ね。霧野みやこは壊すわ」
「級長かわいくないね」
「ありがとう」
こいつにしたら礼を言うような言葉なんだろう。本当にかわいくない。容姿がとかじゃなくて性格がな。
さてさて、そんなことよりも、今、この場所から級長を引き離さなくてはならない。階下に居るであろう霧野みやこを守るために、敵である級長を力ずくでも移動させなくてはならない。
「っは!」
俺は息を吐いて力を込め、踏み込み、級長の太刀を叩き落そうと左腕めがけて拳を放った。
あっさりやりすごされて、ただ静かに距離をとられる。
妙に、雨音が大きくなった気がした。
「まさか級長さんが、こんなだとはね」
「お互い様でしょう? 私もまさか貴方がそうだとは思わなかったわ。あまりにも自然に民間人に溶け込んでいるものだったから」
「うまいもんだろう」
「ええ、私たちは隠密。そう簡単に正体を知られてしまっては、何もできない」
「正体、ねぇ」
「もっとも、腕が鈍っていたら元も子もないけどね!」
雨音が一つ、響く間に、四メートルほど先にいた級長が俺の懐にいた。
やべぇ、迅っ――!
キン、と鳴いて、俺のナイフが頭上弾き飛ばされ、級長は落ちてくるナイフに目をやることもなくそれを掴んだ。
彼女は、ふぅと息を吐き、呆れたように言う。
「貴方、本当に訓練を受けていたの? 隙が多すぎて話にならないんだけど」
「いやぁ、女の子相手に本気を出すってぇのも、男らしくないかなって」
「意地っ張りね。面倒だわ、そこで寝てなさい」
「いやだ、ねっ!」
ぼん、と級長の足元に大量の煙が発生する道具。まぁ所謂煙玉のようなものだと思ってくれていいそれをふところから取り出して、投げた。
雨だと百パーセントの効果は無いのだろうが、それでも数秒は動きを封じられるだろう。
何故なら煙で死角が生まれる。それによって級長は迎撃の姿勢にならざるを得ないからだ。そういう訓練を受けているはずだからな。
煙が晴れるまでの間、四秒くらいか。その間に霧野みやこを移動させられれば。
俺は級長の前から逃げて、窓から霧野みやこの部屋に行った。
ところが霧野みやこは既に何者かに連れ去られている、おそらくあの白衣の連中、〈器を生む者〉たちが連れ出したのだろう。
そこで俺は、逃げた。
ビルからビルへと飛び移りながらひたすら級長から遠ざかるように。
この状況を利用して何とか有利な場所に誘い込めないだろうか。などと考えながら。
……有利な場所なんて、ありそうにないけど。
とにかく、気付かれないように実行するのが最善。気付かれても倒し逃げるのが次善。その次にはただ逃げること。まともに相手をするのは最悪。プライドというものも、あるにはあるのだが。
「戦わないことも戦いだってね」
言い聞かせて逃げる。
きっと級長はこう思うだろう。
――敵わないと思って逃げ出したか。霧野みやこがいない? ならば山田ヒロアキがどこかへ移動させたか、あるいはさせていたか。
そうして俺を追って来い。
だが待てよ。
考えてみると、〈器を生む者〉たちが霧野みやこを移動させる理由がないな。
級長が迫っていることに気付いていたとは思えないし。
じゃあなぜ、動かしたのか。どこに動かしたのか。
何か予想外のトラブルでもあって、パン屋ビルの研究所にでも連れて行ったのか。
そうだとすれば、危険じゃないか。
新渡戸家と霧野の関わりを知っていなければ存在が知れないとはいえ、いかにも仕事のできそうなあの級長のことだ、抜かりはないと考えた方がいい。
向かおう。パン屋に。
最悪のパターンは、級長が霧野みやこがいなくなったことについて、俺がどうこうしたわけではないと気付くことだ。
最悪を想定して動くべきだ。希望的観測では何も守れない。
何とかして霧野みやこを生かし続けなければならない。
それが、贖罪。
★
俺がどうして戦っているのか。何のための戦いなのか。
まずそれを明らかにしなければならない。
それらの事柄を説明するためには、俺のこと、級長のこと、霧野みやこという少女のことを知らなければ何とも理解しがたいので、俺が都会のビルを飛び回っている光景を思い浮かべつつ、ひとまずちょっと長めの自己紹介を聞いてもらいたい。
俺という人間を語るのに、どこまで遡るべきなのだろうか。つい昨日のことでいいのか、または宇宙が誕生したその瞬間か、創世の日か、あるいは、これから訪れる、未来まで遡るとか。
俺は、山田ヒロアキ。
人間の振りをして生きるのに、定着した名前というのはとても便利なものだった。もう何年も名前を変えていない。しかし、こんなことを言ったからといって俺が、木星あたりから飛来した宇宙人だとか、未来から過去を変えるためにやってきた科学者の息子だとか、実は野心を持ったエスパーだとか、不思議な物質を踏んで神様になった者だとか、って、こんな時に何を冗談めいたことを言って茶化そうとしてるんだろうな。恐怖によって現実逃避したがってるのがバレちまいそうだ。
まぁとにかく、そういったオカルトじみた経歴を持った記憶は断じてない。
一応、通常の、一般的な思考をする地球で生まれた人間であるという確証の下で、日々を暮らしていた。
ただ、他の、たとえば教室に並んでいた他の三十人以上のクラスメイトたちとは少しだけ、世界がずれていた。それだけ。ほんのそれだけのことだと思うんだ。びっくりするような例外がいたけどね。
俺は、幼いころに、ある施設に預けられた。預けられたというよりも拾われたと言ったほうが正確かもしれない。これも詳細は不明。その施設というのが、よく知らない神を崇める場所で、俺たちは人形のようにその神の教えとやらを叩き込まれた。「我らを創りし神様が……」とか何とか言って、毎日のように経を読んでた記憶があるね。加えてその施設では体術や剣術。望めば銃器の扱い等も丁寧に教えてくれる、それはもう、血がにじむほど丁寧に。
文字や計算等の基本的な勉強も強制的に励まされた。それから殺しをしてはいけないことや、他人に迷惑をかけないこと等、道徳心を養うカリキュラムもあったし、施設の外の人間社会の話だって頻繁に入ってきて、新聞やニュースで情報を入手することもできた。ただ、総合的にみれば、所謂、現代忍者養成所、みたいな所だったわけだ。
その山深い森の中にポツンと建った飾り気の欠片もない建物は俺から見てもとても怪しいものに思えた。
山奥に捨てられていたらしい俺は、一体どこで生まれたのかもわからない捨て子だったのだが、何も持たない、名前すら持たない人間の姿をしたヒトという種が生きていくのに、戦い方というのは最低限必要なスキルだったらしい。今にして思えば、少し時代が違えば山賊になってたかもな、とも思える。
そして、生まれてから十数年が経ち、その間そこで、およそ普通とは言えないような戦闘系の英才教育を施された者たちの中で、俺を含む施設の数人は、その施設の長に呼び出された。忘れもしない、六年前の秋である。
「器を一つ、壊してこい。人の形をしているが、中身は人じゃない。空だ。だから、本来は罪とされる殺しであるが、壊しても罪にはならない」
「器ってなに?」
と、隣のヤツが訊いた。
そしたら、とっても丁寧に教えてくれた。子供相手に長々と。
完全な理解はできなかったが、少しの理解で十分だった。
それが人間の尊厳とやらを傷つけるので壊すべき器であるということさえわかれば、あとは、迅速に壊すだけ。施設で教えられたように。
器というのは要するに、『人のカタチをした人に非ざる者』とでも言えば良いのだろうか。そんな人間社会に溶け込んだ異物を排除する任務を、俺たちのグループは与えられたのだ。
まずは大人が見本を見せると言うので、その人間の形をした者を迅速に殺した。
恐怖した。震えた。心がちぎれそうだった。涙も出た。理由不明の涙が、頬を伝って地に落ちた。
その施設の大人は「これが『壊す』ということだ」などと誇らしげに言い、俺の他に連れられて来た施設の子供たちも、それを見て拍手した。
なんだこれは、と思った。子供ながらに狂っていると強く思った。目の前で人が死んだのに、何故それに拍手なんてできるのか。俺にとっては納得のいかないことだった。それでも、周りの連中には合わせなくてはいけないと思って、俺も数秒間、控え目に手を叩いたのだった。
今思えば、それは弱さだろう。
俺は、その頃の弱いまま、何も変わっていないのではないか。
今、霧野みやこを守る力が無いのなら、六年前から何の成長もしていないのではないか。
眼の前で飛び散った、赤い血。温かい、血。
大人に見本を見せられた後、俺も殺してしまった。
流されるままに器とやらを殺した。皆が拍手した。
気持ちが悪かった。
壊したはずなのに、殺したときと同じ。
同じことなんだ。壊すのも、殺すのも。同じ。
気付いてしまった。
思ってしまった。同じだと。
そう思ったらもう、何も殺せるわけがない。
かつて「生きて行くのに必要でない殺し」を憎めと教えたのは施設の連中だ。
メチャクチャだった。
さて、人間の肉体を欠片の状態から人としての外見を持ったものに複製、復元しようという連中は後を絶たなかった。俺たちは色んな場所を巡り、器を壊していった。その度に器というものの完成度と、敵の潜伏する能力が上がっていき、発見が困難になっていく。それでも俺たちは殺し続けた。
それはもう、無邪気な幼児のように、小さなアリをひねり潰すように。
苦痛に満ちた日々だった。毎夜のようにうなされた。今だって、たまに眠れない夜がある。
殺したくなんてなかった。いつも器の破壊というものには消極的だった。でも、流されるままに何度かやった。仕方がなかったんだ。そこに居れば、それが当たり前で、そうしないなんてのは裏切りなんだから。なんて、そんな言い訳したところで、殺しを簡単にやめられるのにやめなかったのだから、どうしようもないよな。今さら赦されようなんて、そんな思考が赦しがたいって自分でも思う。
だが、いずれにせよ上からの指示通りに動くしか選択できなかった。与えられた命で、与えられた技術で、与えられた仕事をこなし。それにより与えられた資金でまた命を与えられる。水が高いところから低いところへ流れるように、それは自然なことのように思えたから。
自然じゃないのは、ただ人間自身が人間を創造しようという、傲慢な思考。そう、言い聞かされた。
民衆が中学生になるほどの年齢になると、単独で捜査を続ける者も出始め、器を発見次第撲滅。定期的に報告と新たな指令を受け取るために施設を訪れる。半ば放任されているようなシステムだがつまりそれほど器というものの発生数が多いということも意味していた。俺たちは組織の末端でしかなかったわけだ。
この組織は、〈追う者〉と呼ばれ、器を壊すために日々活動しているようだ。
追う者のルールを書いた紙がある。熟読した後に燃やせと言われたが、忘れそうだったので保管しておいた。多くのことが記されていたが、今必要な箇所だけを抜き出して列挙する。難しい言い回しは俺にも意味がよくわからないので俺なりに訳すと、以下の通りになる。
『追う者同士が接触することは稀であり、接近した場合でも互いの指令に支障があるとなれば接触はしない。状況によっては協力し、目標を破壊する。自分ではどうしようもできない敵に遭遇した場合、施設に戻り申請をすれば、最大限の力でもって器は破壊される。』つまり、より高度な訓練を積んだ者たちの出番というわけだ。
『組織から抜け出た者についての処遇は……』と、そこから先は何も書かれていなかった。書かなくてもわかるだろう、と、そういう暗黙の脅しだろう。
それでも俺は、組織を離れた。
詳しくは後で話すが、ある事件がきっかけになって、組織を抜ける決意をしたのだ。
単独行動を許可されたのをいいことに、器の破壊活動を一切打ち切り、都会に一人暮らしを始めた。それが意味するのは、裏切りに他ならない。
しばらく、刺客が来るのを覚悟しつつ暮らしていたが、組織を離れても、ずっと何もなかった。
そこで俺はさまざまな書類を改竄し、一人の人間として社会に割り込んだのだが、その時から一度も施設には戻っていない。何度か様子を見に行ったことはあったが、外観だけ眺めて戻る等、指令を受け取ることもなくなった。
まったく、何でこんなことになってんだろうな。俺は平和に生きたいだけなのに。
そして数年後、俺は追手から逃げ回っている。
当たり前の話だが、何かを裏切ったということは、その裏切ったものを敵に回すということであり、今施設から送り込まれてきた級長の皮をかぶった刺客に追われて、ビルをピョンピョン飛び跳ねてるってのが、今の俺。
「ははっ、やっぱ俺、殺されんのかな」
死にたくないな。
いくつもの器を死なせておいて、いまさらこんなことを思うのも、卑怯というか、罪深いと思うけども。
――何のために戦うのか、か。
俺は級長との戦いの最中だというのに、さらに深く、回想にふけった。思い出したくないような、限りない罪の記憶を掘り返した。
数え切れない程の器を壊した。人を殺したことはなかった。
数え切れない程の人形を壊した。人を殺したことはなかった。
そう思っていた。
そして初めて人を殺した。
組織の偉いやつが、こう言った。
「これが、新しい目標だ。速やかに壊して戻れ」
「はい」
と俺は返事しながら、渡された紙を受け取る。
その紙には、以下のように書かれていた。
『十から十一歳。活動範囲、○○市○○を中心とする一地域周辺。○○市立××小学校に通う。世間的な名称は新渡戸夕実。女性型。強力な護衛が存在する可能性は低い』
いつもより詳細だった。俺の推測に過ぎないが、どこかの器を生む者たちの工場か何かを潰した際に所謂「器リスト」のようなものを手に入れたんだろう。
とにかく俺はそのナントカ小学校を調査した。
当時俺の年齢も容姿も、小学校高学年に見えなくもないほどだったので新渡戸夕実に近づくのは容易だった。
器を壊す時のルール。
一つ、関係の無い人に見られてはいけない。
二つ、関係の無い人を巻き込んではいけない。
三つ、血の一滴もその場に残してはならない。
四つ、壊した器は専用の袋に詰め、そのまま施設に持ち帰ること。
さて、薄暗い夕方の公園に、三人の姿があった。当時の俺に言わせれば「二人と一つだ」って言い張っただろうがな。で、三人のうち二人は男、残りの一人が器である新渡戸夕実だろうと思った。
器は砂場で山を整形しながら嬉しそうにこう言った。
「ねぇ、ゆーき! 大きくなったら、けっこんしよーね」
ゆーきと呼ばれた男は本当に幸せそうに笑いながら、
「うん!」
「やくそくだよ?」
「うん!」
「ゆーき、けっこんの意味、わかってる?」
「うん!」
どうも、わかってなさそうな感じだった。
と、そこへ、遠巻きにそれを見ていたもう一人の男の子がやって来て、言った。
「おい、夕実。俺先帰ってるからな。すぐ帰ってこいよ!」
「あ、おにいちゃん。はーい」
「夕実ちゃん、帰らなくっていいの?」
「もうちょっと……」
「でも、僕ももう帰らないと……」
「もうちょっと」
「でも、もう皆帰っちゃったよ? それに二人で遊べるものって――」
「か、帰りたかったら、帰ってもいいよ! べつに!」
喋っていた。今まで快活に喋る器など見たことも聞いたこともなかったが、器を生む者たちの技術も上がっていると聞く。そのような器がいたって不思議なことではない。そう思った。
俺は公園で、新渡戸夕実が一人きりになるのを待った。
そしてすぐに、その時は来た。
「夕実ちゃん。僕ジュース買ってくるね」
「うん」
男の子が去った。新渡戸夕実が一人きりになった。
――最大速度で、死角から!
「あ、ゆー……」
俺の持った刃が新渡戸夕実を胸の辺りから真っ二つに切り裂いた。刃渡り十二センチほどの輝くナイフ。当時の俺の唯一の武装。
声? 誰かを呼ぶ……? 誰か見ていた?
俺が辺りを見渡して、人影が一つあるのに気付いた。
しかしその少年の目は俺の方に向けられていなかった。
問題は無い。
このまま、一滴の血も残さない。
もう壊した。
袋で包むのに一秒もかからない。このまま空中で包み込む。
一瞬で広げた袋の中に器を入れ、一瞬でその袋を閉じた。
血が少し落ちたが下が砂場だったのですぐに隠すことができた。
崩れた砂の城の近くの砂を足で素早く血痕に被せると、俺は近くの木に飛び移った。
もし万が一この人影、少年に壊す瞬間を見られていたらどうすればいいんだっけ。たしか、生かしたまま施設に連れ帰る、だったか。
見られていないことを祈った。
「夕実ちゃーん? ジュース買って……ってあれ? 夕実ちゃん?」
壊れた砂の城をちらと見て、スチール缶を二本持ったその少年は言った。
「なんだよ、まだ帰らないみたいなこと言ってたくせに、帰っちゃったのかー。ちぇ、残念だな」
見られていなかった。
俺はふぅと小さなため息をついて去っていく少年の背中を見送ると、そのまま施設へ向かった。
だけど、辿り着いた施設で待っていたのは、普段と全く違う対応だった。
「そんな指令を出した覚えはない」
上司は厳しい口調で言った。
「え? でも確かに」
「それは器ではない。人間だ」
「え?」
衝撃だった。
頭の中が真っ白になって、真っ黒になって、真っ赤になった。
ドロドロしていた。眩暈がした。
――嘘だろ?
「俺が、殺した? 人を?」
「残念だが……そして、これが次の指令だ。今度は間違えるなよ」
間違えるな……?
俺は間違えてなかった。確かに「新渡戸夕実を壊せ」という指示を受けた。受けたはずだ。
ふざけるな!
器じゃない? 何でそんなこと教える!?
知りたくなかった。
ふざけるな!
人を殺したことを「残念だが」の一言?
こいつら、何とも思ってない。
次の指令? 今度こそ本当に器なんだろうな!
俺は人間だったモノが入った袋に視線を向けた。
「埋めてやりなさい」
わかったと返事した。
埋めなかった。
俺は新渡戸夕実の死体を〈器を生む者〉たちのところに置いてきた。新渡戸夕実という名前と、生前通っていた小学校の名前を添えて。
それが何を意味するのか、十分わかっていた。
実験材料の提供に他ならない。
でも、俺が人間を殺したという事実を、消したかった。
消えるはずはない。
そしてその足で、次の指令の街へ向かった。
簡単に器を壊した。
赤い血が飛び散る。新渡戸夕実を殺したときと同じ。
温かい、血。
壊したはずなのに、殺したときと同じ。
何で同じ?
ああ、そうか。
同じことなんだ。壊すのも、殺すのも。同じ。
気付いてしまった。思ってしまった。同じだと。
もしも俺に戦う理由ってやつがあるとしたら、新渡戸夕実の件があったから、だろうか。だけど、本当なら、殺してしまった人に対する贖いのための戦いだって言いたいけど、このままじゃただ逃げるための戦いだな。




