Chapter6 山田ヒロアキの戦い_3
「っはぁ、はぁ」
呼吸が全く落ち着かない。
ぼろぼろになったスーツ。
体は擦り傷にまみれて、ずきずきと痛い。
右腕は動かない。
眼鏡にはヒビが入っていて、そのせいか視界がぼやけている。
雨は俺を打ちつける。容赦がない。傷が乾かない。着衣が濡れて気持ちが悪い。
雨のせいで右腕も動かない。
……最後のは違うな。俺が弱いのを、雨のせいにしたってしようがないな。
パン屋の前に着いた。
そこには――。
え……加賀……?
「何で……?」
と、加賀遊規は言った。
こっちの台詞だった。
「何で、何で加賀がここにいるんだ! クソっ」
「ヒロ、アキ……?」
加賀の戸惑った声。
ああ、そうだよ、ヒロアキだ。
お前の知ってる俺の名前、山田ヒロアキだ。
でもそれは、嘘だ、偽モノだ。作り物だ。
お前に何でそんなこと知られないといけない。
何でこんな時間に、こんな場所にいるんだ。
お前はここにいちゃいけない。
俺という存在は、加賀と新渡戸との関係の中で、いつも口数は少ないし、口を開けば不真面目な言動で、冗談ばっかり言って二人を笑わせるけれど、いざというときには頼りになるクールなヒーロー。そんな風にありたくて、なのに、目の前に加賀がいて。
こんなところで、何をしてる?
加賀は何も知らずに、新渡戸夕実の再誕を待っていればよかった!
そうすればきっと……何も知らないでいてくれたら、きっと幸せに過ごせた!
はずなのに!
ヒロアキ? 山田ヒロアキ? そんな――、
「そんな名前の人間はいない……俺は、ただの……」
「何の冗談だよ。何だよその変な格好、何だよその……」
「あぁ、すまん……」
俺はひび割れた眼鏡を外して、軽く放り投げた。
かしゃんとアスファルトに落ちる。やや曲がったフレームに雨がぶつかる。
「どういうことだよ……」
「ごまかせないかな」
「当たり前だろ!」
「やれやれ、加賀には、知られたくなかったんだがなぁ」
本当にね。知ってしまっても、悲しいだけだっていうのに。
「何で!」
「お前は、こっちに来させたくなかった」
「こっち? こっちって何だよ! 新渡戸もそんなこと言ってた! 何が起きてるんだ! 教えろよ! 何か知ってるんだろう!?」
何で何でと、少しは自分で考えろ。
って言っても、無理な話か。常軌を逸してるからな。俺も、新渡戸も。
死人の世界。狂人の世界。
何て形容すればいいんだろうね。
でも、お前は普通に生きてくれよ。加賀。だけど、ここにいるってことは、もう退けないんだな。新渡戸と、同じように。
俺は観念して答える。
「……知ってるよ。多分、ほぼ全部」
「言ってくれ」
「霧野みやこを殺しにきた」
「え……何、て?」
「あれは人ではない。人ではないモノが人のようにしている。それは不自然なこと。摂理にも人道にも悖ること。神と人を貶める、罪の象徴。だから、消す――」
「何だよ、それ。絶対に、させない!」
ああ、俺だってそう思ってる。絶対に……消させない。だから、話を続ける。
「――と、いうのが、指令。四年前俺に出された指令。俺だって仲良くなったクラスメイトを手にかけたくはない。まして、お前に一生恨まれて、憎まれて生きるなんて耐えれんしな」
実は指令なんて出てない。強いて言えば、指令は、俺が出した。
四年前、新渡戸夕実を殺させないと、俺が俺に誓った。自分との約束だ。
「俺はさ、俺の手は、赤とか茶色とか黒とかで、汚れてるんだよ。笑えないくらいに。そういう風に育てられた。人を殺すために俺は存在していた。知ってるか? 人間って、簡単に死ぬんだぜ? でも、でもな、でも本当に、でもお前や、新渡戸といるのが、楽しかったから。初めてできた自分の居場所みたいだったから! いつの間にか、離れられなくなってた。誰とも、交わっては、いけない、のに。おかしいな、涙でてる……。霧野みやこと俺は、似てるんだ。まるで感情がない、人形のような。だから殺せるわけない……殺させるわけには、いかないんだよ……」
なんだって、俺は泣いてるんだろう。雨が、目に入ったんだろうか。
なんだってこんなに胸が苦しいんだろう。雨が……あぁ、もう。
嘘ばっかりだなぁ、俺。
「ヒロアキ……知ってるはずだろ」
「何をだよ」
「霧野は笑うぜ? 泣くんだぜ? お前だってそうだろ。山田ヒロアキは笑ってるぜ? 泣きながら言われても説得力ないぜ。モノが笑うかよ。モノが泣くかよ。モノが迷うかよ! 僕は、その。なんていうか、ヒロアキがどれだけ人を殺して来たかなんて知らない。知りたくもない。ただ一緒にいて、楽しいから。だから、あと一年残った日々を、いや、その後の人生でもずっと! ずっとずっと……僕の親友でいてほしいんだよ」
「加賀……」
お前は、本当に……。
こんな、俺でも……お前を好きだった女の子を手にかけてしまった俺でも。ヤバイ世界から片足を外に出しただけの俺でも。もしも怖がらずに、今まで通り親友としてあることが許されるのならば……そんなに嬉しいことは、ない。
「五人で、修学旅行、班組んでまわろうよ」
なんて笑顔。
本当に、こんな、加賀を騙し続けていた俺を許せなくなりそうだ。今もまだ、一つだけ隠していることがある。それもいずれ……全てが終わったら話そう……どんな結果に、なっても…………。
「ああ。五人……で」
「約束」加賀が力強く言う。
「約束だ」俺も頑張って力強く返す。
約束……か。
お前の約束の人を殺したの、俺だ。
それが、俺の、最後の秘密。
「僕は何があっても皆といたい」
「俺も……だ」
雨が、傷に沁みるなぁ……。
★
「ところで、ヒロアキ、お前、その怪我、どうしたんだ?」
「あぁ、ちょっとな」
「ちょっとって怪我じゃないだろ」
「……それよりも、霧野みやこを、守らないと」
時間がない。
いつ級長が来るとも知れない。往復だけで三十分くらいはかかるだろう。電車で十分以上かかる場所だ。いくら超人的な身のこなしをする級長とはいえ、そんな素早く移動できるとも思えない。しかし急がないとまずいのは確かだ。
「守る? どういう……」
「ちょっとな。よし、侵入するぞ」
俺は左足に巻きつけていたケースからナイフを取り出し、人間が通れるくらいの穴をガラス戸に開けた。
霧野を連れて脱出することを考慮して、少し大きめに切り取ったつもりだ。
ちなみに俺は普段ナイフを四本持っている。投げたりして使う場面も考慮しているためだ。その重みで多少動きが鈍くなったりしているのかも知れないが、一本しかない武器を失くして丸腰になるよりは良いだろう。
残り三本か、武器を失う度に身軽になるってのは、なんとなく皮肉なことだな。
「お、おい……セキュリティーとか、平気なの?」
「大丈夫。見当たらないし、こんな幽霊街にそんなのあったら怪しすぎてすぐバレるだろ」
「バレるって何に?」
「俺たちみたいな、〈追う者〉にだよ」
かつての俺や、今の級長のような、な。
「よかったら、教えてくれないか。今、何が起こってるのか」
そうだな。加賀には、もう知る資格がある。
「歩きながらで、よかったらな」
俺と加賀は穴から内部に潜入した。研究所のある、ビルの中へ。
「実は昨日さ、僕の机の中から霧野さんの薬が出てきたんだ。それで新渡戸を問い詰めたんだけど、忘れろとしか言ってこなくって、新渡戸が霧野さんのロッカーを開けたら薬が大量に落ちてきて……」
なるほど……霧野みやこが部屋からいなくなったのは、薬を飲んでいないことがわかって連れ出したってところか。ならば〈器を生む者〉たちは何をするだろう。
強制的な記憶の転送?
とにかく何か手を加える必要があると思ったことは確かだろう。
そしてそうするのに最も自然な場所に連れて行っただろう。つまり……、
「この先に霧野がいるってことだ。あと……二十分くらいか」
「二十分?」
級長が来るまで。
二十分より過ぎたらおそらく、厳しいな。
「気にするな。いくぞ」
一階ずつ。
しらみつぶしに階段を上って霧野みやこを探す。
あの時屋上で霧野みやこを見た。建物内に研究所が必ずある。周囲の他のビルは調査済みで、このビルへの霧野の出入りを視認しているので九十九パーセント、間違いはない。おそらく地下だろう。しかし地下の研究所が広大で、且つ霧野みやこが建物内部、三階とか四階とかに居るケースもあり得るし、逃走経路を確認する意味でも建物内を把握しておく必要があった。
ビルの上層内部は長い時間放置されているようだった。掃除もしていないようで、俺たちの歩いた場所に足跡が残るような埃の絨毯を敷いた部屋が多かった。
階段をカツンカツンと二人分の足音がよく響いた。
俺は説明する。
霧野みやこという存在が五年前に造られたこと。
今もなお、死んだ人間を蘇らせることを研究している者がいること。
この先にいる霧野みやこの完成によって研究が成功するかもしれないこと。
〈器を追う者〉だった俺は、この研究を潰そうとしていたこと。
四年前に、霧野みやこを斬れるチャンスがあったこと。でも、加賀や新渡戸と出会っていたから、できなくなってたってこと。
次々に現実を突きつけてやった。
本当は、俺の手を止めたのは新渡戸夕実を殺してしまったという事実……だと俺は思っているけど、言えやしない。そんなこと。
「新渡戸に妹いたの、知ってるよな?」
「ああ。小学校んとき、よく遊んだけど、それきり私立に転校したって……」
「霧野みやこは、新渡戸夕実になるはずの器だ」
俺が、殺した。
「何、言ってんだ……」
「霧野みやこは、新渡戸夕実だ」
「だって、あの娘は……」
そうだ、お前と遊んでいたあの夜に殺された。車に撥ねられて、俺が病院に連れて行かなかった。
「新渡戸の父親は、死んだ娘を売ったんだよ。生き返らせようとした」
「どうして……? え、に、新渡戸夕実の、死因は?」
俺が、殺した。
「何のことはない、斬殺されただけだ。人違いでな」
「人違い……?」
「〈器〉と間違えられて殺された」
「毎日、のように、あ、そんだ……」
「これは想像だが、研究所の奴らはそれすら利用して、寄生したんだろう。滞っていた最終実験のラットとしてな。『殺されてしまったのは私たちのせいです。娘さんを生き返らせることが我々にはできます』とか言えば、俺でもすがりつくね」
俺がそう仕向けた。生き返らせたかった。殺された人間を。最低だ。
「嘘だろ。嘘だよ……嘘。ヒロアキの言うこと高度すぎるのか低レベルすぎるのかわかんないけど、僕には理解できないよ!」
低レベルなんだよ。ごめんな、加賀。本当に、ごめん。
「だが、事実だ」
屋上に出た。かつて霧野みやこに遭遇した屋上。霧野みやこはいなかった。いつの間にか雨の止んだ街は、静か過ぎて、不気味で、俺はすぐに扉を閉めた。
「……地下か」
階段を下りながら、加賀への説明を続ける。
次は、〈器〉の作り方。
まず最初に〈器〉である肉体を造る。
遺伝子を操作しながら形作っていく。
記憶を抽出して、流れ込ませる。
他人の一の細胞から人間の肉体を復元する。
今回のケースでいくと、十一歳の体を作って十六歳まで養うことで人間を復活させる。
新渡戸夕実の記憶を薬に変換し、長期に渡り投与する。
けれども、これは成功したことのない研究。俺たち〈追う者〉が、ことごとく壊してきたからだ。
「つまり、霧野の頭痛は、その薬の副作用?」
「だが飲んでいなかったんだろう?」
「じゃあ、飲まなかったから……」
「たぶんな。おっと、見つけた……」
不意に、俺は、隠された道を見つけた。
これで隠したつもりなんだろうか。
張りぼての壁の絵が、地下への道を塞いでいた。
突き破ってみると、急な階段。
「いこう」
俺が先導する。降りてすぐ、扉があった。
「加賀はそこにいろ」
足手まといだ。
「わかった」
なるべく音を立てないように鉄の扉を開く。
体の痛みは引いてなんかいない。
なんとか血は止まったけれど、百パーセントの力では動けない。
しかし。それでも。時間がないからやるしかない。
俺は意を決して突入する。部屋に入る。
広くはない。狭くもない。
敵は二人。
相手の武器は……手に何も持ってはいない。
「ひぃ」
悲鳴をあげた一人目のぽったりとした眼鏡の男に馬乗りになる。
白衣。
担任の理科教師みたいな白衣。
見たままの研究要員だろう。急所のみぞおちに的確な衝撃を加え、気絶させた。
二人目、体躯の大きな筋肉質の男。
一応、警護要員なんだろうが、手練れというわけではないようだ。
男は懐から銃を取り出し、俺に向けて撃った。銃声、しかし当たらない。単発のピストルのような銃。二、三発撃たせたところで、俺は男の足を払う。
俺から見て右側に転倒していく男に、右斜め下から顎に左肘をプレゼントしてやった。
目を白黒させて男は停止。
その時、ようやくバタン、と開けた鉄扉が閉じる音が聴こえた。
扉を再び開くと加賀が驚いたような顔で突っ立っていた。
「入っていいぜ」
部屋の中には、霧野みやこがいた。何本もの管が霧野と大きなコンピュータを繋いでいて、それは、霧野が〈器〉と呼ばれる人間であることの証明だった。
「加賀、いいか? これが、証拠だ」
「霧野、さん……?」
加賀は、彼女の名前を呼んだ。
しかし彼女は応えない。
「よし、すぐ連れ出すぞ」
時間がない。一刻も早く……。
だが、どこだ? 何処に運ぶ?
級長に知られていない場所……。
加賀……加賀のマンションか?
おそらくそこは級長が知らない場所だろう。加賀は世間的には家族と共に暮らしていることになっている。クラス全員の住所くらいは頭に入っているだろうが、加賀のマンションは特別。登録されている住所と違う場所に住んでいるから、級長も把握していないかもしれない。
そこしかないか。
いかんな、完全に巻き込んじまった。
ごめん加賀。
加賀は、またしても戸惑いを見せている。
「え? でも、この点滴みたいの抜いて大丈夫なの?」
「知らん! だが、そうゆっくりもしていられないんだ。言ったろ? 霧野みやこは壊すべき〈器〉なんだよ」
早く。級長が壊しにくる前に。
「あ……」
「先導してくれ。お前の家まで運ぶ」
早く。
「何で僕の!?」
「現状そこが一番近くて比較的安全だからだ」
仮に級長が加賀の住処を知っていたとしても、級長が所属する集団には、「何も知らない一般人を巻き込んではいけない」という掟のようなものがある。だから加賀の家ならもしかしたら級長をやりすごせるんじゃないかと思った。
俺は霧野みやこに繋がったものを全て抜き取り、彼女を背負う。
「いこう」
加賀が頷きながら、手をかけた扉を開いた……その時!
来るの早すぎるだろう級長さん。
級長は俺のやや右側から猛進してきて、強烈な体当たりを見舞ってくれた。
霧野みやこを背負った俺は、避けることも受けることもできずに吹っ飛び、五メートルほど後方にあった壁に打ち付けられたらしい。
霧野みやこは俺の背中から投げ出され、床に長い髪を垂らして横たわる。
向けられた刃、向けられた殺意に気付くこともなく。
「きり――」
加賀が何か言おうとしたが、級長はそれを刃物を投げて制す。
手裏剣や小刀の類。
それで加賀は沈黙。まぁ、そうなるだろう。
「まさか、こんなところとはね。やってくれるわね、山田君」
級長はそう言いながら霧野みやこに太刀を振り下ろす。殺意を振り下ろす。
高く、激しい音がした。
耳が痛くなるような音。
間に合った。俺の左手に持ったナイフが、級長の一撃を止めていた。
「往生際が悪いわよ、山田君」
「級長さんこそ、しつっこいよ?」
体中、ガタガタだ。右手は動かないし、左手も既に痛い。
擦り傷で全身の肌が悲鳴を上げているし、正直、もう眠い。
だがしかし、ここで級長を止めなければ、全て台無し。
五年かけて築いてきた俺の罪滅ぼしの塔が、だるま落としだ。豪雨に降られる砂の城だ。
「加賀ぁ!!」
「え」
「霧野つれて先いけ!」
「でも」
「はやく!」
加賀は強く頷いて、霧野みやこを重そうに背負った。
あくまで霧野みやこを殺しに走るなら、その瞬間にこそ勝機はある。
だから俺は、級長が仕掛ける瞬間を見逃さない。
急げ、加賀。時間は稼ぐ。
お前を好きだったその子を、守ってみせろ。
「ぅ、く」
霧野みやこを背負った加賀が、扉の先へ消えた。閉じていく扉。
その瞬間、俺が安堵して気を緩めた刹那。
級長は俺から離れて、加賀たちが消えた扉の方へ走っていた。
まずい。何で気を抜いた。俺のふぬけ。
級長の刃が鉄の扉を切り裂いて、それに驚く加賀の顔が見えた。
ちくしょう、間に合え!
鉄の扉を切るために勢いを殺した級長、初動でつけられた一歩分の差は詰めた。
移動の勢いは今俺の方が上。霧野みやこを斬らせるな!
一発でいい!
間に合え!
空中で繰り出した俺の左手裏拳が、級長の右わき腹に当たって、弾丸のような級長の軌道は直角に近い角度で逸れた。級長は壁に着地し、ゆっくりと床に足を置く。級長の切り裂いた鉄の扉が、ただの鉄の塊になって床にガラガラと落ちた。
女の子、殴っちゃったな。
なんて、今そんなこと言ってる場合じゃないけどな。
「ヒロアキ!」
なんだよ。
「僕の家で待ってるから!」
こらこら……。
「ぁんの、馬鹿……」
敵に行き先告げる奴があるかよ……殺しにきてくれって言ってるようなもんだぞ……。
しかし、加賀の家と聞いて、あのマンションに行くことだとは思わないかもしれない。
なんとか逃げ切ってくれれば、あとは……。
加賀の家、級長が知らなければ良いんだが。
急な階段。
一人分が通れるほどしか幅がないその階段を、俺の体が塞ぐ。
蓋。
通さない。
絶対に通さない。
「そんな格好で、がんばるわね」
「任務なんでね」
「……誰に依頼されたの?」
探るような眼をしてきいてくる。
「俺自身だよ」
「そう。なんだ、黒幕がいるのかと思ってしまったわ。そこ、どいてくれないかしら」
「無理だ」
「山田君? よく見てよ。私は無傷、貴方は重症。もう差は開く一方。現実を見て」
できるだけ時間を稼ぐ。
「あぁ確かに差はあるな。埋められない差は何で埋まるかな。作戦? 才能? 数? 経験?」
「馬鹿なこと言わないで。私と貴方の間にあるのは、何を以っても埋められない差よ。貴方はこの四年間、その力、才能をぬるま湯の中で錆付かせた。その間私は鍛錬を紡いだ。格好悪く積み上げただけの貴方の力とは、意味そのものが違うの。さ、わかったらどいてくれる?」
「なぁ級長さんよ」
「おしゃべりに付き合ってる暇はないわ」
「最後に一つ質問だ」
「最後ね、わかったわ」
「好きな色って、あるか?」
「無意味な質問をするな」
「いいから教えろよ」
「……赤よ」
「そうか、奇遇だな……」
「話は終わりね」
「あぁ」
「…………」
「…………」
「どかないの?」
「動けないんだよ、級長さんにやられたせいでな。力ずくでどかしてくれ」
意地でも自分からはどくものか。
「殺すわよ?」
「できるもんならな」
「…………」
ヒュン! と級長の左腕が振り切られ横一文字を描く。空振り。刃は超高速で空気を切り裂いた。当たったら斬れて死ぬ。
「次は当てるわ。本気よ」
「どうぞ。人殺しの俺に、生きている資格はない。でも自分の手で死ぬなんてできないからな。殺されるってのもまぁ、いいかな」
死にたくない。絶対に死にたくはない。
「っはっ!」
声と共に再び薙いだ左腕。
俺はナイフで止めようとした。
綺麗な太刀筋は、淀みなく再び空気を切り裂いた。
なんてこった。
カランカラカラ、と金属が階段を降りていった。
そして床に落ちる。
俺の自慢のナイフが――切断された。
空気を切るついでみたいに……この女、物理法則すら無視しそうだな、オイ。
っと……こういうとき、何と言ったらいいんだろう。
あまり黙っていても、びびっていると思われてしまう。
なんとか虚勢を張り続けないと。
「なかなか、やるなぁ、級長さん」
震えた声でそんなことを言ってみた。ただの強がり。
感じていたのは明らかな、恐怖。
勝てない。わかってた。
怖い。怖い。
近接戦闘で勝ち目なんか無い。
理解していたつもりだった。だが俺は今、理解を超えた理解をした。
級長は今までこれっぽっちも本気を出していなかった。
本当に殺さないように止めるにはどうすればいいのか考えながら、丁寧に、撫でるように、気を使って戦っていたのかもしれない。敵わない。
「どいて」
戦意を喪失しかけていた俺を、級長は二発、足蹴にして俺は階段から転げ落ちた。
「しまっ……た……」
もう姿は見えなかった。
悔しい。ピンチだ。予定より時間稼げなかった……。
こうなってしまった以上、もう一人、呼び出さなきゃならない奴がいる。
俺の親友にして、霧野みやこの兄……。
新渡戸夕貴。
俺は懐にしまってあった携帯電話機を取り出して、新渡戸に電話をかけた。長いコール音のあとに、
《留守番電話サービスです…………ご用件の方は、ピー》
ピッ
切った。
ダメか。あぁ、そうだ。
どうせ体は、まだうまく動かないからな。初めてのメールにでも挑戦してみるか。
「新渡戸……夕実、が死ぬ……ぞ」
送信。
加賀はどのルートを通って自宅に向かうだろうか。
こういった場合最も近い道を選択するに違いない。ここからだと、公園を通リ抜けるルートが最も近い。
級長を思ったとおり足止めできなかった。だから公園で追いつかれている可能性が一番高い。
新渡戸が行ってどうにかなるものでもないだろうが、それでも……何もしないよりは、何かした方が……きっと――
「公園……通って……パン屋……に……向かえ」
送信。
折りたたみ式の電話機を折りたたんだ。
ちゃんと届くといいんだが。
さて、さっさと俺も追わなくては。
級長も俺がまだ追って来られるとは思っていないだろう。
残り二本、ナイフが残っているのを確認して、俺は霧野みやこが寝かされていた部屋に再び入った。
落ちていた拳銃を拾い上げて、胸の内ポケットに入れた。
筋肉質の男の着衣を調べて、銃弾を発見すると、胸に入れた銃を再び取り出し、霧野のいた台に置いて一発ずつ玉を込める。
拳銃の中に六発、念のため背広のポケットに四発。
計十発分の銃弾を持った。左右胸の内ポケットには拳銃と一本のナイフを。
右足に巻きつけられていたナイフケースを外し、ナイフを取り出して放り捨てた。そのナイフを左足のケースに入れる。武装はそれだけ。充分だ。
俺は部屋を出た。
級長は強い。
勝てる気がしない。
でも、戦わなくてはならない。
加賀と約束もした。
皆で修学旅行で班行動だ。
もう一つ、加賀は約束があるな。
新渡戸夕実との約束。
守るにしろ、無効だと言い張るにしろ、俺は決着が見たい。
そのためには、殺させるわけにはいかない。絶対に、殺させない!
絶対に。
体の痛みに耐えて階段を上る。
血の跡が点々と続いている。
知らぬ間に加賀か霧野のどちらかが傷をつけられている……?
ならば何処へ逃げても血の跡をたどれば見つかってしまう。
強い雨が降っていれば話は別だが。
パン屋を抜け出て路地裏。雨が降っていることを祈った。
しかし雨は降っていなかった。雨は降っていないが、とても暗い雲が広がっていた。
「痛くない痛くない。体痛くなんかない。痛くない痛くない」
呟いて、言い聞かせる。
ふと、先刻捨てた眼鏡が落ちているのが目に留まった。
「役に立たなかったな」
拾わず駆け出す。
痛いなんて言ってられない。
俺は山田ヒロアキとして、戦う。
命の、ために。
どんな手を使ってでも、もう二度と新渡戸夕実を殺させはしない。




