9.幻覚と現実と願望の違い 前編
ザリーナは春京を出た後、アディーグ王国に戻り、馴染みの飯屋に入った。
店の中はまだあまり人がおらず、幼馴染で看板娘のハティシェが暇そうにしていた。
「いらっしゃい!」
入店客に気付き、反射的に応えたハティシェだったが、その客が話題の逃亡花嫁と知って、驚愕して声を上げた。
「ザリーナ!あんた、どこ行ってたの?」
「シーッ!魔塔に知られたくないの。とりあえず腹ごしらえをさせて。カーシャはある?」
カーシャというのは穀物粥のことだが、単にカーシャといえば牛乳に小麦粉を溶いて煮詰めてトロミを付けたものを指す。アディーグ王国の朝ご飯の定番で、華春の粥に飽きたザリーナは無性に自国の粥を食べたくなって、この店にやってきた。
「今の時間はそばの実しかないわ」
「じゃあそれで。パンと塩漬けキノコと何かつけて。それから野菜のスープも」
「あいよ。飲み物はどうする?」
「薔薇茶をお願い」
「じゃあ、思い切り酸っぱいのを用意するわ」
ハティシェは悪戯っぽく笑うと奥に引っ込んだ。そしてすぐに盆の上に薔薇茶と料理を揃えて持ってきた。
「はいどうぞ。ルスラン様には会ったの?」
「会ってない。でも、彼、私を追いかけて華春まで来たみたい」
ザリーナの声はだんだん小さくなっていっていたが、ハティシェは聞き逃さなかった。
「華春?それって山を越えて、更に砂漠の果ての国でしょう?どうやって行くの?まさか飛龍で?」
「知らないわ」
ザリーナはハティシェの驚きように少し罪悪感を感じた。国の英雄を世界の果て迄追い遣ったのかと責めるようなその口調に、バツが悪くなり下を向いた。
魔法使いの自分には隣の部屋に行く感覚でも、一般人には現実的に死地に向かうレベルの遠地なのだ。ザリーナはそのことに気付き、やり過ぎたかと不安になった。
しかし、自分が頼んでもいないのにルスランが勝手にやってきたのだと、頭を振って、そのマイナスな考えを追い出した。
ハティシェは新たな客が来たので、それ以上追求することはできず、ザリーナは黙々と食事をとった。
平パンにそばの実カーシャと塩漬けキノコを入れ、齧り付くとやっぱり自国の料理は格別だと、勢いが止まらずあっという間に平らげた。
そして程よく冷めた薔薇茶の酸っぱさが、脳の疲れも消し去るほどで、目が覚めるような気分になった。
「華春国の料理も美味しかったけど、やっぱり食べ慣れたものが良いわね」
満腹になったザリーナは、ルスランが食事を取れているのか突然心配になった。
ルスランは戦士だ。一週間ぐらい水だけで余裕で生きられる程の体力があり、どこに行ってもその場で食料を調達することも得意だった。
だから飢えなど心配するようなことはないだろうが、華春国への旅路の間、粗末な保存食だけだったろうと想像すると胸が痛んだ。
「春京で良いものが食べられてると良いのだけれど」
ザリーナはルスランの整った横顔を思い浮かべながら独り言ちた。
ザリーナがこっそりとアディーグ王国に戻ってきたことに魔塔の誰も気付かなかったわけではなかった。
ファティマは結界が開かれたことに気付き、べルスランと共に現地に飛んで行った。
「ザリーナ!出てきなさい!いい加減にしなさい!」
ファティマが山脈の向こうまで届くかのような大きな声で叫ぶのを、べルスランは「まあまあ落ち着け」と肩に手を置いて止めた。
「べルスラン!ザリーナが帰ってきたなら絶対とっ捕まえないと。部屋に入ろうとしたら知らせが届くようにしてるから、行きそうなところを順番に回るんだよ。ほらモタモタしないで!」
「嬢ちゃんが気配を消したらそう簡単に見つかるわけないぜ。それよりも騎士団に頼んで町に触れ込みをしたほうが早いさ」
「触れ込み?ああ、いい考えだね。ほら、詰め所に行くよ」
詰め所に行った二人は副団長のムラトにザリーナが帰還したらしいことを伝えた。
「じゃあ、団長も一緒ですか?」
「それはどうかね。ルスランは今通信石が反応しないんだよ」
「それはどうしてですか?」
「どうだろうね。森の中なんかや山の中で魔力が濃い所なんかだと反応しないことがたまにあるからねえ」
「とにかく、今はザリーナ確保が優先だ。ムラト、騎士団員に伝令してくれ。ザリーナを見つけた者はあの娘には近づかずに本部に連絡するようにと」
「分かりました。直ちに通達します」
ムラトが急いで伝令を送り、全騎士に伝えると、その騒ぎは王の耳にまで入った。
「ザリーナが帰ってきたのか!良かった。すぐにこちらに連れてこい。丁寧に謝罪して、何とか気を静めないと!」
「はっ!かしこまりました!」
側近がすぐに走って、ザリーナを迎える手続きをするため王宮の役人たちもまた騒ぎとなった。
そんな混乱をよそに、腹ごしらえをしたザリーナは、自分の部屋ではなく、ルーシェンに会いに彼の部屋に直接転移した。
誰もいなかったので、勝手知ったるが如く、その片隅の長椅子に寝転がって仮眠を取っていると、小一時間後にカチャリと扉が開いた。
「ザリーナ?なんでこんなこんなところにいるんだ⁉︎」
「おはよう。シェン爺、久しぶり。元気だった?」
目をこすりながら体を起こし、のんきにそう答えるザリーナに、ルーシェンは呆れた。
「お前がいなくなって、皆本当に心配してたんだ。ルスランには会えたか?」
責めるような口調に少し居心地が悪くなったザリーナは足を胡坐に組みなおし、唇を尖らせた。
「……会ってないわ。……彼、本当に私を追いかけて華春まで行ったのね」
「そうだぞ。あの後、ルスランは本当に後悔してすぐにお前を探しに行ったんだ。そろそろ機嫌を直して許してやれ。彼は仕事熱心なだけで悪気があったわけじゃないって分かっているだろう」
ザリーナはムッと唇を歪めると、顔を伏せ、マジックバッグから甘杏仁を取り出し、ルーシェンに押し付けた。
「ルスランと私のことはほっておいて。……これは甘杏仁よ。前に好物だって言ってたでしょ。あの薬草店を教えてくれたお礼」
そう言うが早いか、パッと姿を消してしまったザリーナに、ルーシェンは茫然とするしかなかった。
「ザリーナ!あの意地っ張りめ!」
そう苦々しく口にした瞬間、ドンと扉が開いて、ファティマとべルスランが飛び込んできた。
「シェン!ザリーナは?」
「……一歩遅かったな。あの子はまた行ってしまった」
「何で引き留めてくれなかったのさ!」
「無茶を言わないでくれ。俺が敵うわけないだろう」
「それにしたって、何とでも言ってちょっとぐらいさあ!……ああ、もう!あの子は本当にもう!」
いつも落ち着いているファティマも一週間近く戻ってきていないザリーナをかなり心配していた。怒りよりも我が子を心配する親のような心境なのはルーシェンにもべルスランにも想像ができたし、二人も同じような気持ちだった。
ファティマは首を振って、ムラトにザリーナがまた国を出た旨を連絡した。
蜂の巣をつついたように、町中でザリーナを探していた騎士団は皆撤収を余儀なくされた。
ザリーナを迎えるために特別な宴会を用意していた王宮料理人はその手を止めることになり、奔走していた役人たちも意気消沈した。
「おい。ザリーナ様がまたいなくなったなんて、もし国で何か起こったらどうなるんだ。ルスラン様もいらっしゃらないんだろう」
「だよな。また地竜騒ぎみたいなことが起こったらどうなるんだ?」
「……あれ、偶然じゃなくて誰かが故意におびき寄せたって噂もあるんだぜ」
「シッ!滅多なことを言うな。それが本当なら……。いや、ザリーナ様に限って、抜かりはないさ」
「……そうだと良いがな」
下っ端なだけに事情通の二人の役人はそんな会話をこっそり交わしながら、通常業務に戻った。
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