第8話「予期せぬ勝利(ただの威圧)」
丘陵地帯に到着すると、その先にはグレイマン子爵率いる騎士団が陣を構えていた。
数は五百ほど。
ピカピカの鎧に身を包み、それなりに統率は取れているように見える。
対する我が魔王軍は三千。
数の上では圧倒的だ。
しかし、相手は人間。
俺としては、一人たりとも傷つけたくないし、傷つけられたくもなかった。
『うわぁ……完全にやる気だ……どうしよう……』
子爵が馬に乗って前に進み出て、大声で叫んだ。
「汚らわしい魔族どもめ! 神聖なる人間の土地をよくも荒らしてくれたな! この場で貴様らを皆殺しにし、その首を王都に送ってくれるわ!」
典型的な悪役のセリフだ。
ああいうのが一番話が通じないタイプだ。
ベルドリスが俺の横に進み出て、静かに告げる。
「魔王様、ご命令を。一斉に突撃すれば、半刻もかからず蹂躙できます」
『やめて! 物騒なこと言わないで!』
俺は必死に考えた。
どうすれば、戦わずにこの場を収められる。
そうだ、話し合いだ。
対話こそが平和的解決への唯一の道だ。
俺はナイトメアをゆっくりと前に進ませ、子爵と向き合った。
そして、平和を愛する一市民として、誠心誠意、言葉を紡いだ。
「ま、待ってほしい。我々に戦う意志はない。ただ、ここを通りたいだけなんだ。話し合おうじゃないか」
だが、俺の喉から発せられたのは、絶対零度の覇者の声だった。
「――愚かなる者どもよ。我が前に立つこと、それ自体が罪と知れ。我が慈悲は、一度きりだ。今すぐその陳腐な武具を捨て、ひれ伏すがよい。さすれば、命だけは助けてやろう」
『あああああ! 何でそうなるんだよ! めちゃくちゃ挑発してるじゃないか!』
俺の意図とは真逆に、完璧な降伏勧告になってしまった。
俺の言葉と同時に、魔王アルノスのアバターから、凄まじい威圧感が迸った。
パッシブスキル魔王の覇気が、俺の緊張と恐怖に反応して最大レベルで発動したらしい。
黒いオーラが俺の体から立ち上り、天を衝く。
空はにわかにかき曇り、雷鳴が轟いた。
ただの演出効果なのだろうが、その迫力は尋常ではない。
グレイマン子爵の騎士たちは、その圧倒的なプレッシャーに完全に気圧されていた。
馬は怯えて嘶き、兵士たちの顔からは血の気が引いている。
子爵自身も顔面蒼白だったが、無理やり虚勢を張って叫んだ。
「ひ、怯むな! 相手はたった一人だ! や、やっちまえー!」
しかし、彼の部下たちが動くことはなかった。
彼らの目に映っているのは、ただの魔王ではない。
その後ろに控える、鋼の規律で統制された三千の魔王軍だ。
オークの重装歩兵、リザードマンの槍部隊、ゴブリンの弓兵隊。
そのどれもが、子爵の私兵などとは比較にならないほどの精強さを誇っている。
そして何より、彼らは知っていた。
この魔王が、飢えた民に食料を与え、無用な殺生を決して行わないということを。
どちらに正義があるのか。
どちらが真の統治者たる器か。
答えは、火を見るより明らかだった。
最初に武器を捨てたのは、一人の若い騎士だった。
カラン、と音を立てて剣が地面に落ちる。
それを皮切りに、一人、また一人と、騎士たちが次々と武器を放り出し、馬から降りてひざまずき始めた。
「な、何をやってるんだ貴様ら! 立て! 戦え!」
子爵がわめき散らすが、もう誰も彼の命令を聞いてはいなかった。
五百の騎士団は、誰一人として剣を抜くことなく、戦意を喪失してしまったのだ。
「こ、この裏切り者どもめが……!」
子爵は一人だけになると悟るや、顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、そして、くるりと馬首を返して一目散に逃げ出していった。
その逃げ足の速さだけは、見事なものだった。
こうして、決戦は、戦闘らしい戦闘が起こることもなく、俺の完全勝利で幕を閉じた。
『え? 終わり? 何もしてないんだけど……』
俺が呆然としていると、四天王たちが駆け寄ってきた。
リリアナがうっとりとした眼差しで俺を見上げる。
「素晴らしい……! 剣を交えることなく、ただ威光のみで敵をひれ伏させるとは……! これぞ、真の覇王の戦い方!」
ヴァルガスが拳を天に突き上げる。
「うおおお! これが魔王様の言われた『無用な殺生は好まぬ』の真意か! 敵兵すら一人も傷つけずに勝利する! 俺には到底真似できん!」
ベルドリスが深く頷く。
「民の心を掴み、敵の戦意を内から砕く……。完璧な戦略です、魔王様。全ては、魔王様のお考え通りに……」
『だから、違うって言っているだろ! 俺はただ怖かっただけだって!』
俺の内心の絶叫も、もはや誰にも届かない。
降伏した騎士たちは、魔王軍の寛大な処置に感激し、多くが自ら魔王軍への参加を申し出たという。
俺は、何もしていない。
本当に、何も。
ただそこに立って、ビビっていただけだ。
それなのに、戦いは終わり、敵は去り、新たな部下まで手に入れてしまった。
まあ、いいか。
『これで、心置きなく温泉に入れる……!』
俺は、ようやく手に入れた平和に安堵し、すぐそこにあるはずの癒やしの楽園へと心を馳せるのだった。




