第7話「進軍(温泉への道)」
魔王軍の進軍は、驚くほど静かで、そして迅速だった。
ベルドリスが立案した完璧な行軍計画のもと、三千の軍勢は一糸乱れぬ動きでグレイマン子爵領へと向かう。
規律の取れたその姿は、野盗の集団のような人間の兵士たちとは比較にならない威容を誇っていた。
ただ、総大将である俺の心境は、その威容とは真逆で、ビクビクと怯える子犬のようだった。
『なんでこんなことになっているんだ……俺はただ、温泉に入りたかっただけなのに……』
魔獣ナイトメアの背に揺られながら、俺は何度目かわからないため息をついた。
俺の隣を進むリリアナが、うっとりとした表情でこちらを見上げる。
「魔王様、いかがなさいましたか? まるで世界の行く末を憂うかのような、深いお息遣い……」
『胃が痛いだけです』
もちろん、そんな本音は口に出せない。
俺が何か言えば、また壮大な勘違いをされるだけだ。
やがて、軍はグレイマン子爵領の最初の村に到達した。
村は貧しく、畑は荒れ、人々は皆、生気を失ったような顔で俺たちを見ていた。
恐怖と、そしてわずかな期待が入り混じった目で。
子爵の兵士たちは、魔王軍の姿を見るなり蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
戦う前から勝負はついていたらしい。
村人たちがおずおずと、俺たちの前にひざまずく。
代表らしき村長の老人が、枯れ木の枝のような指を震わせながら言った。
「ま、魔王様……! 我々は、あなた様に敵対するつもりはございません……! どうか、お慈悲を……!」
『敵対とか言われても困るな。俺たち、ただの温泉観光客だし』
そう思いながら、俺は飢えて痩せこけた村人たちを見回した。
子供たちのお腹は、栄養失調で膨らんでいる。
見ていられない光景だった。
またしても、お人好しの血が騒ぐ。
俺はアイテムボックスを開くと、リンゴに続いて、またしても見覚えのない焼きたてのパンが大量に追加されているのを見つけた。
この都合の良いバグに感謝しつつ、俺はそれらを取り出した。
「……これを、皆で分けるといい」
そう言って、食料の入った麻袋を村長の前に置いた。
魔王の口から出た言葉は、これだ。
「――ひざまずく必要はない。我は、汝らの主に非ず。これを食らい、生きるがいい。そして、誰が真の王たるべきか、その目で見極めよ」
『ちょっと! 何か含みのある言い方になってる! ただの食料支援なのに!』
村人たちは、最初は何が起きたのかわからずに呆然としていた。
しかし、パンの香ばしい匂いに気づくと、堰を切ったように泣き出し、我先にとパンとリンゴに殺到した。
そして、涙ながらに俺に向かって拝み始めた。
「ありがとうございます、魔王様! あなた様こそ、我らが真の救い主だ!」
その光景を見ていたヴァルガスが、感動に声を震わせる。
「おお……! 支配するのではなく、まず与えることで民の心を得る! これが魔王様の統治……! 力一辺倒だった自分が恥ずかしい!」
『だから、お腹すかせているのが可哀想だっただけだって!』
俺の善意は、またしても深遠な政治戦略として解釈されてしまった。
この出来事は、瞬く間に子爵領全土に伝わった。
魔王軍は略奪をしない。
むしろ、飢えた民に食料を与えてくれる。
魔王アルノス様は、圧政に苦しむ我らを解放するために来てくださったのだ。
噂は噂を呼び、俺たちが次の町に着く頃には、領民たちが旗を振って俺たちを歓迎するまでになっていた。
魔王様、万歳。
グレイマン子爵を追い出してくれ。
もはや解放軍である。
俺はただ、温泉に向かっているだけなのに。
事態は、グレイマン子爵の耳にも当然入っていた。
彼は、領民が魔王軍を歓迎していると聞き、激怒したという。
裏切り者どもめが、あの化け物どもごと、皆殺しにしてくれるわ。
子爵は、手勢の騎士団を全て率いて、俺たちを討伐すべく出陣してきた。
その報を聞いたベルドリスが、冷静に、しかしどこか嬉しそうに俺に報告する。
「魔王様。敵、およそ五百。丘陵地帯にて我らを待ち構えている模様。ご命令さえあれば、我が軍の精鋭が、一刻も待たずして塵芥と化してみせましょう」
『戦闘!? 絶対に嫌だ!』
人が死ぬかもしれない。
そんなのはごめんだ。
「ま、待て。無用な殺生は好まぬ」
慌てて制止する俺の言葉。
それが、部下たちの耳にどう届いたかというと。
「――待て。血を流すまでもない。我が威光の前に、全ての敵はひれ伏す運命にある。無駄な抵抗を続ける愚か者には、真の絶望を与えてやるまでだ」
『絶望とか与えたくないんですけど!?』
部下たちは、さすがは魔王様とまた目を輝かせている。
もう、どうにでもなれ。
俺は、決戦の地となる丘陵地帯へと、重い足取りで進むしかなかった。
目的地の温泉は、もうすぐそこだというのに。
なぜ、俺は戦いになんて行かなきゃならないんだ。
俺の心は、これから起こるであろう戦闘への恐怖と、入り損ねるかもしれない温泉への未練でいっぱいだった。




