第5話 跪き、その名を呼ぶがいい
国境を分かつ「灰色の森」は、かつて私が捨てられた場所。
けれど、今の私の視界は、あの時のような絶望には染まっていなかった。
揺れる馬車の中、私の手は、ヴィルフリート陛下の大きな掌に包まれている。
「……震えているな、エルゼ」
「申し訳、ございません。少しだけ、昔のことを思い出してしまって」
陛下の赤い瞳が、静かに私を射抜く。
彼は私の手を自身の唇へと引き寄せると、指先に深く、痕を刻むように口づけた。
「案ずるな。君の背後には、私と、帝国軍三万が控えている。君を指一本でも汚そうとする者がいれば、その瞬間にあの国を地図から消し飛ばしてやろう」
その言葉は、恐ろしいはずなのに、今の私にはどんな甘い囁きよりも心強かった。
馬車が止まる。
扉が開かれた瞬間、鼻を突いたのは、饐えた土の匂いだった。
数日前まで、ここは緑豊かな森だったはずだ。それが今は、木々は立ち枯れ、草は黒く腐り落ちている。
「……ひどい」
「自業自得だ。神子を捨てた土地に、もはや神の加護など残っていない」
陛下の手を借り、私はゆっくりと大地に降り立った。
黒真珠が煌めく真夜中のドレスが、枯れた灰色の世界の中で、異様なまでの輝きを放つ。
目の前には、アステリア王国の騎士団が並んでいた。
だが、その装備は煤け、騎士たちの顔色も土気色に沈んでいる。
その中心に立つ、かつての婚約者――ジュリアン王子の姿を見つけた。
「……ヴィルフリート皇帝陛下。急な会談の申し入れ、感謝……っ!?」
ジュリアンの言葉が、途中で凍りついた。
彼の視線が、陛下の隣に立つ私に注がれる。
見開かれた瞳。震える唇。
「え、ル……ゼ……? まさか、お前……なのか?」
彼の背後から、セラフィナも這い出すように姿を現した。
彼女の自慢だった金髪は艶を失い、透き通っていたはずの肌には、隠しきれない黒い斑点が浮かんでいる。
「お姉様……? 嘘よ、そんな……。そのドレス、その宝石……。泥女の貴女が、どうしてそんなに……!」
私は、静かに彼女を見つめ返した。
以前の私なら、彼女の言葉に傷つき、目を逸らしていただろう。
けれど今、私の隣には、私のすべてを「美しい」と言い切ってくれた方がいる。
「……お久しぶりです、ジュリアン様。セラフィナ」
私の声は、思いのほか澄んでいた。
その瞬間、ジュリアンの顔に、卑しいまでの「希望」が浮かぶのを私は見た。
「エルゼ! 生き、生きていたのか! ああ、よかった……! さあ、すぐにこちらへ戻れ。お前の追放は取り消してやる。国が大変なのだ、お前のあの『泥』で、この枯渇を止める義務があるだろう!」
彼は、私がかつてのように彼の命令に従うと信じて疑わない様子で、泥の付いた手を私へと伸ばした。
その、不潔な指先が私のドレスに触れるよりも早く――。
――キンッ、と冷たい音が響いた。
ヴィルフリート陛下が、腰の剣を抜き放ち、その切っ先をジュリアンの喉元に突きつけたのだ。
陛下の体中から、漆黒の殺気が溢れ出す。
「……貴様。誰に、その汚らわしい手を伸ばしている?」
「ひ、ひぃっ……!」
ジュリアンが情けなく尻餅をつく。
陛下は、ゴミを見るような冷徹な眼差しで、這いつくばる王子を見下ろした。
「この女性は、アステリアの公爵令嬢ではない。我が帝国の、次期皇后……エルゼ・アイゼンだ。貴様のような出来損ないが、気安く呼んでいい名ではない」
「こ、皇后……!? 馬鹿な、あんな泥を流す女を!? 陛下、騙されてはなりません、そいつは不吉な呪いを持って……!」
「呪い、か。……シモーヌ」
陛下の呼びかけに、背後に控えていたシモーヌ様が、一輪の「枯れ果てた薔薇」を差し出した。
陛下は私の手を優しく取り、その薔薇に触れさせる。
「エルゼ。彼らに見せてやれ。君の流す『泥』が、真には何であるかを」
私は、心の中で陛下に祈るように、ひとしずくの涙を浮かべた。
頬を伝い、薔薇の花弁に落ちる、漆黒の雫。
その瞬間。
パキパキと音を立てて、死んでいた薔薇が命を吹き返した。
それだけではない。黒い雫が触れた箇所から、薔薇は見たこともないような深い紫、そして黄金の脈を持つ「神話の華」へと変貌し、猛烈な香気を放ちながら大輪を咲かせたのだ。
「な……っ!? 枯れた薔薇が、瞬時に……!?」
「そんな……私の祈りでも、数日はかかるのに……!」
ジュリアンとセラフィナが、絶望に顔を歪める。
彼らが「汚物」と呼んで捨てたものは、一国を、いや世界を救い、作り替えるほどの圧倒的な「生命の源」だった。
「……分かったか。君たちが捨てたのは、この世で唯一の奇跡だ」
陛下は私の腰を抱き寄せ、唇を歪めた。
「返してほしくば、跪け。……いや、跪いたところで、二度と君たちの手に渡すつもりはないがな」
その場にいたアステリアの騎士たちが、その神々しい力に圧倒され、次々と剣を落としてその場に膝をついていく。
ジュリアンだけが、信じられないという顔で、美しく咲き誇る薔薇と、かつてないほど美しくなった私を、ただ呆然と見上げていた。
「返してほしくば、跪け」
陛下、最高に格好いい決め台詞です……!
ジュリアン王子が尻餅をついた瞬間、読者の皆様と一緒に拍手喝采を送りたい気分でした。
エルゼの流す「黒涙」が、枯れた命を蘇らせる「神の雫」だと証明された今、立場は完全に逆転しました。
しかし、アステリア王国もこのままでは引き下がれません。
国が滅びかけている彼らは、なりふり構わずエルゼを奪い返そうと、さらなる見苦しい策を練り始めます。
そして、エルゼの「黒涙」に隠された、もう一つの衝撃的な真実とは……。
次回、帝国の舞踏会。
エルゼが「世界の至宝」として正式に発表される夜、陛下が用意した最大級の「仕返し」が炸裂します!
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
「ざまぁ最高!」「陛下、もっとやって!」と思ってくださった方は、ぜひブックマークや評価、応援の感想をいただけると嬉しいです!
皆様の声が、エルゼの涙を宝石に変える力になります!




