第37話 甘い凱旋、あるいは深夜の執務室で
「……エルゼ。どこへ行く。私の視界から一歩でも出ることは、死罪に等しいと言わなかったか」
深夜の執務室。
北の教皇庁から帰還して数日、ヴィルフリート陛下はまるでお気に入りの毛布を手放さない子供のように、私を片時も離そうとしなかった。
私が執務机の上の茶器を片付けようと立ち上がっただけで、背後から力強い腕が伸び、私の腰を強引に引き寄せる。
「陛下、まだお仕事が残っておりますわ。シモーヌ様が、呆れて壁のシミを数えていらっしゃいましたよ」
「……あんな女の視線など気にするな。今の私に必要なのは、大陸全土の報告書ではなく、お前の体温だ」
陛下は私の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。
銀の結晶化が止まり、陛下の魔力と混ざり合った私の肌は、今や月光を吸い込んだ真珠のように白く、滑らかに輝いている。
「……お前の匂いが変わったな。聖域の不快な香りが消え、完全に私の『夜』の香りに染まった」
陛下の手が、私の漆黒の指輪が嵌まった薬指をなぞる。
その指先は微かに震えていた。
無敵の死神皇帝と呼ばれた彼が、私を失いかけた恐怖を、まだその魂に刻んでいるのだ。
「私はここにいます、ヴィルフリート様。……もう、どこへも行きません。貴方が私を飽きて、捨てるとおっしゃるまでは」
「……その言葉、後悔するなよ。お前が朽ちて灰になるまで、私はお前をこの腕の中に閉じ込める。お前の魂の最後の一欠片まで、私が喰らい尽くしてやる」
陛下は私を抱き上げ、大きな執務机の上に座らせた。
散らばった書類が床に舞い落ちるが、彼は一顧だにしない。
重なる影。
彼の熱い唇が、私の喉元に「独占」を刻みつけるように押し当てられる。
「……っ、ふ……陛下……」
私を呼ぶ彼の声は、熱く、そして甘く、私の思考を溶かしていく。
泥を流していた頃の私が、今のこの幸せを想像できただろうか。
すべてを奪われたからこそ、私はこの「重すぎる愛」を、世界で一番贅沢な救いとして受け入れられる。
――だが。
幸せな微睡みの中、私のドレスのポケットに忍ばせていた、あの銀のメダルが冷たく肌に触れた。
三つの目を持つ獅子。
海の向こうにいるという、私の本当の父親。
(お母様……貴女は、誰から逃げていたのですか?)
陛下の腕の温もりを感じながらも、私の胸の奥では、言いようのない不安が小さな火種となって燻っていた。
その時。
深夜の静寂を切り裂くように、伝令の鐘が一つだけ鳴り響いた。
シモーヌが扉越しに、かつてないほど緊張した声で告げる。
「――陛下、緊急事態です。南の商業港に、正体不明の艦隊が接近。……掲げているのは、教皇庁でも帝国でもありません。……『三つ目の獅子』を冠した、古の公国の紋章です」
陛下の動きが止まった。
私の首筋を愛撫していた彼の指が、一瞬で「死」を司る皇帝のそれへと変わる。
「……鼠が、船に乗ってやってきたか。……エルゼ、案ずるな」
陛下は私を抱きしめたまま、窓の外、暗い海の方角を睨みつけた。
その瞳には、最愛の玩具を奪おうとする者に対する、容赦のない「滅絶」の光が宿っていた。
「私のものに触れようとするなら、その海ごと、永遠の墓場に変えてやる」
凱旋後の甘い夜に忍び寄る、新たな影。
陛下とエルゼ様の蜜月を邪魔する者は、たとえ実の父親であろうと、陛下は一切の容赦をいたしません。
ついに現れた「三つ目の獅子」の勢力……。
彼らはエルゼ様を「救い」に来たのか、それとも「略奪」しに来たのか。
次回、第38話「三つ目の獅子の使者」。
港に降り立った使節団が、帝都に衝撃の事実を突きつけます。
そして、エルゼ様を巡る、陛下と実父の「独占欲大戦」が幕を開けます!
「陛下、執務室で何してるんですか(最高)!」「実父なんてボコボコにして!」と思ってくださった皆様、ぜひブックマークや評価、応援の感想をいただけると嬉しいです!
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