第36話 新世界の幕開け、黒き薔薇の夜明け
雪解けの匂いが、帝都に満ちていた。
北の凍土から凱旋した私たちの馬車が城門をくぐった瞬間、地鳴りのような歓声が街を揺らした。
「……うるさいな。静かに喜べないのか、この民どもは」
馬車の奥、私の腰を抱き寄せて離さないヴィルフリート様が、不機嫌そうに眉を寄せた。
北の地で魔力を使い果たし、一度は死の淵を彷徨ったとは思えないほど、今の彼の腕には力強い熱が宿っている。私の「銀」の魔力が彼の中に流れ込み、彼の「死」と混ざり合ったことで、陛下は以前よりも増して、底知れない覇気を纏うようになっていた。
「よろしいではありませんか、陛下。皆様、貴方の無事を喜んでいるのですわ」
「違うな、エルゼ。……彼らは、お前を崇めているのだ」
陛下が窓の外を指差す。
かつて私を「泥の女」と遠巻きに見ていたはずの人々が、今は馬車の通り道にひれ伏し、祈りを捧げている。彼らの手には、私が浄化した魔力によって冬の最中に咲き誇った、漆黒の薔薇の花束が握られていた。
――不浄の聖女は、死神の皇帝と共に、神の傲慢を打ち砕いて帰ってきた。
そんな吟遊詩人の歌が、すでに帝都の路地裏まで広まっているらしい。
私が馬車の窓から少しだけ手を振ると、歓声はさらに一段と大きくなり、人々の興奮は頂点に達した。
「……やはり、お前を外に出すべきではなかったな。今すぐ寝宮に閉じ込めて、私以外の視線をすべて遮断したい」
「ふふ、もう手遅れですわ。私はもう、貴方と共にある『帝国の夜』なのですから」
私が彼の頬にそっと口づけると、陛下は喉の奥で押し殺したような吐息を漏らし、私の首筋に深く顔を埋めた。人前であることを厭わない、あまりにも重すぎる執着。けれど、それが私を現世に繋ぎ止める、唯一の錨なのだ。
◇
帝宮に到着すると、そこにはシモーヌ様を先頭に、全使用人が跪いて私たちを迎えた。
そしてその列の端、車椅子に座りながらも、穏やかな笑みを浮かべる母リュミエールの姿があった。
「……お母様!」
私は陛下の腕からするりと抜け出し、母に駆け寄った。
氷の中から救い出された彼女は、カイルの懸命な治療もあり、少しずつだが人間の温もりを取り戻している。
「おかえりなさい、エルゼ。……そして、陛下。娘を……この世界を救ってくださり、感謝いたします」
「……感謝ならエルゼにしろ。私は、彼女に生かされているに過ぎん」
陛下は傲然と言い放つが、その瞳には母に対する一定の敬意が宿っていた。
その夜。
帝都では三日三晩続く祝祭が始まった。
私は、陛下と共にバルコニーから夜空を見上げていた。
北の凍土で見た不気味な銀の月ではなく、今はただ、優しく深い闇が世界を包んでいる。
「ヴィルフリート様。……私、今なら分かります。私が流していたあの泥は、今日この日のためにあったのだと」
「……ああ。お前が世界を濾過し、私が世界を終わらせた。……ここからは、お前と私が創る、新しい理の時代だ」
陛下が私の左手を持ち上げ、漆黒の指輪が嵌まった薬指に、誓いを刻むように深く口づけた。
もはや結晶化の恐怖はない。私の銀は、彼の死と混ざり合い、完璧な調和を保っている。
「愛しているぞ、エルゼ。……お前を苦しめる過去はすべて塵にした。……これからは、私の腕の中で、永遠に溺れるがいい」
「……はい、陛下。……どこまでも、貴方と共に」
私たちは、星降る夜の下で、再び魂を重ねるような深い接吻を交わした。
――しかし。
幸福の絶頂にある私の耳元で、母リュミエールが別れ際に囁いた言葉が、ふと蘇る。
『エルゼ……陛下を信じなさい。けれど、忘れないで。……貴女の本当の父親は、アステリアの公爵などではない。……あの男は、まだ「海の向こう」で、貴女が星の心臓として目覚めるのを待っているわ』
母が私の手に握らせた、古びた銀のメダル。
そこには、帝国の紋章でも、教皇庁の紋章でもない――三つの目を持ち、蛇を喰らう獅子の紋章が刻まれていた。
新しい世界の幕開け。
それは、さらなる深淵へと続く、未知なる航路の始まりでもあった。
第3章「氷華の教皇庁編」、これにて堂々の完結です!
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
泥の聖女と呼ばれたエルゼ様が、ついに母を救い出し、陛下との「真の誓約」を交わした凱旋劇……。
「なろう」の王道であるカタルシスを詰め込みつつ、二人の共依存を世界の理にまで昇華させる展開、楽しんでいただけましたでしょうか。
しかし、ラストに明かされた「本当の父親」という爆弾。
アステリアの公爵が実父でないことは予想通りとしても、「海の向こう」に座すという新たな勢力、そして不気味な紋章……。
物語は、帝国を飛び出し、大陸全土、そして未知の海域へとスケールを広げていきます。
次回、新章開幕。第4章『深淵の父と、夜の女神の戴冠』。
エルゼ様を「自分の所有物」だと主張する新たな強敵の出現に、陛下の嫉妬の炎が世界を焼き尽くすことに!?
「第3章、最高でした!」「次章の陛下が今から心配(楽しみ)!」と思ってくださった皆様、ぜひこの完結を祝して「ブックマーク」や「評価」の連打をお願いいたします!
皆様の熱量が、次章を綴る私の筆を加速させますわ。




