第26話 「夜の女神」を称える者たち、あるいは拒絶の牙
「……冷たい。エルゼ、お前はこんなにも冷たくなっているのか」
漆黒の馬が夜を切り裂き、私たちは帝都の喧騒を遠く離れた。
背後から私を抱きかかえるヴィルフリート様の腕は、岩のように硬く、そして微かに震えている。
私の体からは、絶えず微かな「銀の粉」が舞い、触れた馬のたてがみさえも瞬時に硬質な結晶へと変えていた。
かつての泥は、温かかった。
けれど今の私は、魂の芯から凍てつくような「無」に支配され始めている。
「……陛下、もう、降ろしてください。私の体は、貴方まで結晶に変えてしまう……」
「黙れ。私を誰だと思っている。……死そのものである私が、これしきの変化に怯えるとでも?」
陛下は私の首筋に顔を埋め、自身の「死の魔力」を強引に私へと流し込んだ。
漆黒の魔力が銀の侵食を押し留め、一瞬だけ、私の肌に赤みが差す。
それは、生命の維持ではなく、破壊の魔力による「存在の固定」。彼が私を殺さないために、私の時間を無理やり止めているのだ。
辿り着いたのは、帝都郊外の断崖に建つ魔導院の隠れ家。
そこで待っていたカイルは、私たちの姿を見るなり、手に持っていた魔導書を床に落とした。
「……冗談だろ。もう、ここまで進んでいるのか」
「カイル。……能書きはいらん。これを、止めろ」
陛下は私を寝台に横たえると、カイルの喉元を掴まんばかりの勢いで迫った。
カイルは震える手で眼鏡を直し、私の体に測定器を向けるが、その計器はエルゼの肌に触れる前に銀色に凍りつき、粉々に砕け散った。
「……無理ですよ、陛下。これは呪いじゃない。エルゼ様が『世界の心臓』として完全に適合し、個としての人間を卒業して、世界の理そのものへ昇華しようとしているんだ」
カイルの声には、恐怖よりも、科学者としての絶望的な感嘆が混じっていた。
「聖域で世界樹を癒やしたとき、彼女は器を広げすぎた。……世界樹は今、彼女を『自分の一部』として呼び戻そうとしている。……このままだと、エルゼ様は自我を失った、ただのエネルギーの塊になる」
「……誰が、そんなことを許すと言った」
陛下の周囲で、空間がミシミシと軋み始める。
「世界が彼女を欲しているなら、その世界ごと焼き尽くすまでだ。……エルゼは、私の女だ。世界樹の苗木でも、神の部品でもない!」
「陛下、落ち着いて……!」
私が手を伸ばそうとしたとき。
部屋の窓の外、月明かりを浴びて「それ」が現れた。
人の形をしているが、顔はない。
眩い白光を放つ、世界樹の代行者。
それは無音のままガラスを透過し、寝台の私へと手を伸ばした。
「――不浄なる人間よ、その魂を還せ。それは万物の主のものだ」
空間を揺らすような、感情のない声。
だが、その手が私に触れるよりも早く。
ヴィルフリート陛下が、抜剣さえせずにその「光」の胸ぐらを掴み上げた。
「……不浄だと?」
陛下の瞳から、この世のものとは思えないほど昏い殺意が溢れ出す。
「私の前で、一度でもその言葉を口にしてみろ。……神の住まう高天から、根の這う深淵まで、すべてを死の静寂で満たしてやる」
陛下の手から放たれた黒い雷が、光の化身を内側から食い破った。
「……ああ……あ…………」
化身が断末魔を上げる暇もなく、塵となって霧散する。
圧倒的な、そして傲慢なまでの暴力。
世界そのものを敵に回しても、彼は私を「一人の女」として、地べたに繋ぎ止めようとしている。
「……エルゼ。大丈夫だ。……何があっても、お前を連れて行かせはしない」
陛下が私の手を握り、その甲に深く、誓いを立てるように口づける。
その時だった。
私の意思とは無関係に、私の口が、ひとりでに開き始めた。
『……無駄だよ、お義兄様』
私の声ではない。
鏡の中にいた、あの「銀の少年」の声。
「……!? エルゼ、お前……」
『お姉様は、もう僕たちのものだ。……返してほしければ、北の果てまでおいでよ。……お母様の、死体が待っている場所へ』
少年の言葉が終わると同時に、私は激しい眩暈に襲われ、意識が闇へと沈んでいった。
最後に聞こえたのは、ヴィルフリート陛下の、悲鳴のような怒号だった。
お帰りなさいませ、読者の皆様。
第2章を終えてなお、エルゼ様と陛下の前には過酷な運命が立ちはだかります。
「神性化」という、これまでの敵とは次元の違う脅威。
それでも陛下が、彼女の腕の中で「ただの男」として、必死に彼女を繋ぎ止めようとする姿に、胸を痛めていただければ幸いです。
そしてついに、エルゼ様の口を借りて語られた「弟」とおぼしき少年の声。
北の地には、エルゼ様の母・リュミエールの「死体」が待っている……?
物語は、極寒の教皇庁へと加速していきます。
「陛下、もっとエルゼ様を抱きしめて!」「少年の正体は何者!?」と思ってくださった方は、ぜひブックマークや星の評価で、この再開された二人の旅路を応援してください。
皆様の応援が、エルゼ様の体温を繋ぎ止める「絆」となりますわ。




