第2話 体温と、初めての甘い泥
「……あ、つ、い……」
意識が浮上した瞬間、最初に感じたのは、暴力的なまでの「熱」だった。
凍える雨、冷たい泥、突き放された時の心の氷。
それらすべてを焼き尽くすような、分厚い毛布の重みと、誰かの体温。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、そこは馬車の車内とは思えないほど、広大で豪奢な空間だった。
天井には複雑な魔法陣が刻まれた魔導灯が灯り、揺れる琥珀色の光が、私の手元を覆う絹のシーツを照らしている。
「……目覚めたか」
鼓膜を震わせる、深く、艶のある声。
弾かれたように顔を向けると、すぐ隣に、あの「死神」がいた。
ヴィルフリート陛下は、漆黒の外套を脱ぎ捨て、薄いシャツ一枚の姿でソファに深く腰掛けていた。その膝の上には、私の細い指先が、壊れものを扱うような手つきで乗せられている。
「ひ……っ、陛下……!」
「動くな。まだ体温が戻りきっていない」
逃げようとした私の肩を、大きな手が優しく、けれど逃げ場を封じるように押さえた。
よく見れば、私の衣服は着替えさせられていた。
泥だらけだったはずの身体は、驚くほど滑らかで清潔な寝衣に包まれている。
「申し訳、ございません……! 汚い私に、このような高価な布を……陛下まで汚れてしまいます……っ」
反射的に謝罪の言葉が溢れる。
私は「泥の女」なのだ。触れるものすべてを汚し、不快にさせる出来損ないなのだ。
けれど、陛下は私の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「汚れる? 何を言っている。君が流したあの雫が、どれほど私の渇きを癒やしたか、自覚がないのか」
彼はサイドテーブルに置かれたクリスタルの器を手に取った。
中には、私が森で流したはずの――あの黒く濁った泥の涙が、一滴も逃さず集められていた。
彼はそれを指ですくい、あろうことか、私の目の前で再びその唇に含んだ。
「あっ……!」
「……美味だ。これほど濃密な魔力を、君は『汚物』だと教えられてきたのか。あの国の連中は、よほど目が腐っているらしい」
彼の頬に、再び朱が差す。
漆黒の瞳に宿る熱っぽさが、私を射抜いた。
彼はそのまま、器の中に指を浸すと、今度はそれを私の唇へと持ってきた。
「口を開けろ、エルゼ」
「えっ……? そ、それは、私の……」
「そうだ。君が放出した命の輝きだ。本来ならすべて私が飲み干したいところだが……今の君には、これが必要だ」
拒絶など許さないという圧に押され、私は小さく口を開けた。
指先が唇に触れる。
その瞬間、頭の芯が痺れるような衝撃が走った。
(……味が、する……?)
今まで、何を食べてきても、砂を噛むような虚無感しかなかった。
けれど、自分の涙であるはずの「泥」は、彼の指を介した瞬間に、とろけるような甘い花の蜜へと変わった。
熱いエネルギーが喉を通り、冷え切っていた内臓を内側から温めていく。
「……あ、ま、い……」
「ふ……そうだろうな。君の魔力は、私という『器』を通すことで初めて真の形を成す」
ヴィルフリート陛下は、恍惚とした表情で私の首筋に顔を寄せた。
深く、深く、肺の奥まで私の匂いを吸い込むような、執拗な仕草。
「アステリアの王子は、君の涙を花を咲かせるための道具にしたようだが……。私は違う。私は君そのものが欲しい。君が流す泥も、絶望も、その体温も、すべて私の空虚を埋めるために捧げてもらう」
それは、求婚というよりも、絶対的な「領有」の宣言だった。
怖いはずなのに、なぜか、ずっと重かった胸のつかえが、少しだけ軽くなるのを感じた。
「陛下……なぜ、私なのですか? 私よりも、もっと清らかな……セラフィナのような聖女の方が……」
私の問いに、陛下の瞳が冷酷なまでに研ぎ澄まされた。
「あのような、他人の魔力を借り物で飾る偽物になど興味はない。……エルゼ、君はまだ気づいていないのか」
彼は私の手を持ち上げ、その手のひらに、自身の熱い唇を押し当てた。
「君が涙を流せば流すほど、あの国は枯れ、私は潤う。……君は、世界そのものの天秤なんだよ」
天秤。
その言葉の意味を理解する前に、馬車がゆっくりと停止した。
外から、幾重にも重なる鉄の擦れる音――騎士たちの敬礼の音が響く。
「陛下、お戻りをお待ちしておりました!」
張り詰めた声と共に扉が開かれる。
そこに立っていたのは、銀髪を短く刈り込んだ、凛々しい女騎士だった。
彼女は陛下の腕の中にいる「泥に汚れたはずの少女」を見て、その双眸を驚愕に見開いた。
「そ、その方は……? 陛下、女人を近づけるなとあほど仰っていた貴方が、自ら抱きかかえておられるとは……!」
「シモーヌ。騒ぐな」
陛下は私を抱き上げたまま、迷いのない足取りで馬車を降りた。
目の前に広がるのは、夜の闇にそびえ立つ、漆黒の巨城。
帝国の本拠地、黒檀宮。
「今日からこの娘が、この国の主だ。……エルゼ、誰も君を傷つけさせない。君を捨てた連中が、自分たちの犯した罪の大きさに気づき、血の涙を流して後悔するその日まで――君は、私の腕の中で甘やかされていればいい」
周囲の騎士たちが、ざわめきと共に道をあける。
私の視界には、ただ一人、私を離さない男の横顔だけが、鮮やかに映っていた。
(ああ……お母様。私、本当に、とんでもない方に拾われてしまったのかもしれません……)
けれど、私の心は、初めて感じる「生きている実感」に、震えていた。
「泥」のはずの涙が、陛下の指先を通しただけで、甘い蜜に変わる――。
エルゼの失われていた五感が、ヴィルフリートという唯一の理解者を得て、少しずつ色を取り戻し始めました。
「君を泣かせた世界など、私が壊してやろう」
そんな陛下の重すぎる愛は、単なる優しさではありません。
次話、帝国の後宮に入ったエルゼを待っていたのは、シモーヌたち「強面だけど実は……」な騎士団による、怒涛の洗礼(?)でした。
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エルゼの逆転劇は、まだ始まったばかりです。




