第10話 黒薔薇の残香と、皇帝の祈り
「……馬鹿な、光が。我が教会の『裁きの光』が、なぜ……」
静寂が支配する舞踏会場で、枢機卿ボニファティウスの震える声だけが虚しく響いていた。
彼の足元には、私の涙が変えた漆黒の薔薇が、妖しくも美しい芳香を放ちながら散らばっている。
それは、彼が望んだ「魔女の処刑」ではなく、新しい「聖女の戴冠」を祝う花吹雪だった。
「枢機卿。……貴様の言う『光』は、この娘には届かない」
ヴィルフリート陛下が、私の腰を抱いたまま冷徹に言い放った。
陛下の赤い瞳には、もはや怒りすらなく、ただ深い軽蔑だけが宿っている。
「彼女は、私がこの世界で唯一許した影だ。……シモーヌ。この老害を連れて行け。神の名を騙り、帝国の至宝を傷つけようとした罪は、万死に値する」
「ハッ! 喜んで!」
シモーヌ様が、これ以上ないほど晴れやかな顔で剣を抜き、枢機卿の両脇を騎士たちに固めさせた。
「は、離せ! 私は枢機卿だぞ! こんなことが許されると……!」
「黙れ。貴殿の祈りより、エルゼ様の黒薔薇の方が、よほどこの国を癒やしているわ」
枢機卿が引きずられていく間、会場の貴族たちは一言も発することができなかった。
やがて、誰かがポツリと漏らした。
「……美しい」
それは、アステリアで私を苛んだ蔑みの声ではなく、真実、魂を揺さぶられた者の溜息だった。
陛下はそんな周囲の反応など一瞥もせず、私を抱きかかえた。
「……陛下、まだ舞踏会が……」
「中止だ。これ以上の美しさを、他人の目に晒す必要はない」
有無を言わさぬ腕力で、私は会場から連れ出された。
たどり着いたのは、夜風が吹き抜ける宮殿の空中庭園。
月明かりだけが照らすその場所で、陛下は私をベンチに降ろすと、その場に跪いた。
帝国の皇帝が、泥を流す女の前に。
「……エルゼ。さきほどの君は、あまりにも神々しかった」
陛下は私の手を取り、震えるような指先で私の甲に唇を寄せた。
「君が光を飲み込み、闇を安らぎに変える様を見て……私は確信した。君こそが、私の乾いた魂に差し込む、唯一の夜なのだと」
「……ヴィルフリート様」
私は、自由になった方の手で、彼の漆黒の髪に触れた。
アステリアでは、誰にも触れることを許されなかった。私の手が触れれば、すべてが汚れると信じていたから。
けれど、陛下の髪は、私の指先を通して、温かい「生命」を伝えてくれる。
「汚れだと思っていたものが、誰かの救いになるなんて……私は、まだ夢を見ているようです」
「夢ではない。……見ていろ、エルゼ。君を捨てた者たちは、今頃、自分たちが手放した『光』がどれほどのものだったか、身を焦がして後悔しているはずだ」
陛下は私の手を引き、サイドテーブルに用意されていた赤い果実を一粒、口に含んだ。
そして、それを指先で割り、滴る果汁を私の唇へと運ぶ。
「……あ」
一口、その甘美な滴を飲み込んだ瞬間。
第2話で感じたあの「味」が、さらに鮮明に、色鮮やかに脳内を駆け巡った。
甘い。酸っぱい。そして、生きている喜び。
(ああ……世界が、こんなにも美味しい)
「エルゼ。君が味わうすべての喜びは、私が与える。君が流す涙は、私がすべて飲み干す」
陛下の独占欲は、もはや狂気にも似た甘い重圧となって私を包み込む。
その時だった。
――ドクン、と。
胸元で、母の形見のペンダントが、かつてないほど強く拍動した。
石のひび割れた隙間から、微かに、けれど力強い「蒼い光」が漏れ出している。
「……? エルゼ、そのペンダントは……」
陛下も異変に気づいたようだった。
私がペンダントに触れようとした瞬間、私の脳裏に、知らない景色が流れ込んできた。
巨大な黄金の樹。その根元で、誰かが泣いている。
そして、アステリアの王宮で、セラフィナが狂ったように叫んでいる姿。
「……奪い返せ。……あの女を、殺してでも、こちらの『贄』に戻すのだ……」
それは、祈りの声ではなく、呪詛の響きだった。
「エルゼ!? 顔色が悪いぞ。どうした!」
陛下の声で、意識が現実に戻る。
ペンダントの光は収まっていたが、指先にはまだ、ピリピリとした痺れが残っていた。
「……陛下。アステリアが……あの方たちが、何かをしようとしています」
私が震える声で告げると、ヴィルフリート陛下の瞳に、昏い、底なしの殺意が宿った。
「……ふん。懲りない連中だ。我が妃に、まだ汚れた手を伸ばそうというのか」
陛下は私を再び抱き寄せ、その首筋に、消えない刻印を残すかのような激しい口づけを落とした。
「いいだろう。……エルゼ、安心しろ。君を連れ戻そうとする者は、神であろうと私がこの手で引き裂いてやる。……君の場所は、ここだ。私の腕の中だけだ」
夜風が、漆黒の薔薇の香りを運んでくる。
それは、救いと、破滅と、そしてあまりにも重すぎる愛の香りだった。
聖教会の弾劾を乗り越え、ついに帝国の「夜の聖女」として認められたエルゼ様。
陛下がその場に跪き、彼女を崇拝するように愛でる姿は、まさに逆転劇の金字塔と呼ぶに相応しい光景でした。
しかし、平和な時間は長くは続きません。
母のペンダントが示した不吉な鼓動。
そして、エルゼ様を失ったことで崩壊の一途を辿るアステリア王国が、禁忌の手段を用いて彼女を連れ戻そうと動き出します。
次話、第1章・最終局面へ!
アステリアから送られた「死の密使」と、エルゼ様の過去に隠された「母の真実」。
陛下は愛する人を守り抜くことができるのか。
そして、エルゼ様自身が下す、実家への「最後の審判」とは。
「陛下、もっとエルゼ様を甘やかして!」「アステリアの奴らに、もっと絶望を!」と思ってくださった方は、ぜひブックマークや評価、応援の感想をいただけると嬉しいです!
皆様の応援が、ペンダントに眠る真の力を呼び覚まします。




