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歌舞伎町が僕を食べる。  作者: 夜坂ネオン


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エピソード92 ソープ

歌舞伎町、昨今なにかと世間を賑わせている街。


そんな場所で実際に経験したこと聞いたこと考えたこと


そんなことを織り交ぜたノンフィクション風ファンタジーです。


「それでね、明日から奏楽のために仕事が変わることで、

 奏楽にしてほしいことがあるの」


ららは、水をひとくち飲んでから、

静かな声でそう言った。


「してほしいこと?」


「うん。まず彼女にしてほしい。

 そして今夜抱いてほしい。それだけ」


その言葉だけ、

個室の空気の中で妙にまっすぐだった。


冗談には聞こえなかった。


からかっている顔でもなかった。


ららはただ、

自分の中で何度も考えたものを、

やっと口にしたみたいな顔でこっちを見ていた。


俺はすぐには返せなかった。


彼女にしてほしい。


今夜抱いてほしい。


言葉だけ見れば、ホストをしていれば、

一度は欲しい答えみたいにも見えるのかもしれない。


でも今は、そんな軽いふうには受け取れなかった。


「……本気で言ってる?」


やっと出た言葉は、それだった。


ららは迷わず頷いた。


「本気だよ」


「なんで」


「理由、いる?」


「いる」


ららは少しだけ息を吐いて、

それから視線を落とした。


いつもみたいにふわっとごまかすんじゃなくて、

今日はちゃんと順番に言葉を並べようとしているのがわかった。


「彼女にしてほしいのはね、

 私、ただ勝手に支える側で終わりたくないから」


「……」


「明日から私、ソープで働く。

 たぶん、前の仕事よりずっとお金は作れると思う。

 でもそれって、私が好きで楽しくてやる仕事じゃない」


「うん」


「だったらせめて意味がほしいの。

 誰のためにやってるのか、何のためにやってるのか、

 ちゃんと自分の中で言える理由がほしい」


その言い方は静かなのに、

ひどく重かった。


「奏楽を支えるためにやってるって、

 ちゃんと言いたいの」


「……」


「奏楽のために頑張ってるって、

 自分で思える形がほしい。

 ただ好きな人のために勝手にやってる、

 じゃなくて、ちゃんと奏楽のものとして支えたい」


もの、という言葉に、

少しだけ喉が詰まる。


乱暴なはずの響きなのに、

ららが言うと不思議と乱暴には聞こえなかった。


縛りたいというより、

曖昧なままでは耐えられないんだと思った。


これから自分がすることに、

名前がほしい。立場がほしい。


気持ちだけじゃ揺れるから、

揺れないための形がほしい。


「だから彼女にしてほしい」


「……」


「ただの姫じゃ、たぶん私、途中で自分が何してるかわかんなくなるから」


俺はグラスに触れたまま、何も言えなかった。


ららは少しだけ笑った。

笑ったけど、いつものやわらかい笑い方じゃなかった。


「重いよね」


「重い、というか……」


「うん。いわなくていいよ」


それから、ららはもうひとつのほうに触れた。


「今夜抱いてほしいのも、ちゃんと理由ある」


「……」


「明日から私、知らない人に抱かれるじゃん」


「らら、」


「最後まで聞いて」


その一言で、俺は黙った。


「たぶん、仕事って割り切ろうとはするよ。

 割り切らないと無理だし。

 でも、それでも最初は絶対、心が追いつかないと思う」


「……」


「だったらその前に、奏楽に抱いてほしい」


「……」


「知らない男が最初じゃなくて、好きな人が最初であってほしい」


個室の中が静かだった。


店の外では人が生きていて、

下の階では肉が焼ける音がしているのに、

この部屋の中だけ別の時間みたいだった。


「それにね」と、ららは続けた。


「たぶん私、ソープやってる間、ずっと奏楽のこと思い出すと思う」


「……」


「嫌な時も、つらい時も、奏楽のためだって思わないとたぶん無理」


「そんなの」


「無理しないで、って言う?」


「……言いたい」


「でもするよ、私は」


ららはまっすぐだった。


「だからせめて、始まりだけでも奏楽にしてほしい」


「……」


「私のソープ人生を、奏楽で始めたい」


「らら」


「それでね、終わる時も、最後は奏楽で終わりたい」


その言葉に、

今度は心臓が変なふうに鳴った。


ららは少しだけ目を伏せたまま、

でもちゃんと最後まで言った。


「ソープ辞める時、最後にもう一回抱いてほしい」


「……」


「奏楽で始まって、奏楽で包まれたいの」


それはもう、体の話だけじゃなかった。


これから汚れるとか、失うとか、

そういう言い方をらら自身はしなかったけれど、

そういうものまで全部含めて、

自分の中で壊れないための祈りみたいに聞こえた。


俺はしばらく何も言えなかった。


さっきまで、誰かを支えるとか、支えられるとか、

そういう抽象的な話をしていたはずなのに、

今はもっとずっと具体的で、取り返しのつかないところまで来ていた。


「……そこまで考えてたの」


「考えるよ」


「そんなの、俺」


「受け止めきれない?」


「きれない、じゃなくて、自信がない」


それが本音だった。


彼女にする。

今夜抱く。


言葉にすれば簡単だ。


でも、その中に入っているものは全然簡単じゃない。


ららは、俺のために仕事を変えると言った。


そのうえで、自分の身体も人生の区切りも、

俺との関係に結びつけようとしている。


そこまで差し出されて、曖昧には返せなかった。


「奏楽」


ららが俺の名前を呼ぶ。


「私ね、奏楽が思ってるよりずっと本気だよ」


「……」


「だから、無理なら無理って言ってほしい」


「……」


「変に優しくされるほうが、たぶん傷つく」


その言葉で、やっと腹が決まった。


優しさみたいな顔で逃げるのが、

一番だめなんだと思った。


重いからとか、今じゃないとか、

きれいな言葉で距離を取ることもできる。


でもそれは、ららが差し出したものを、

怖いから見ないふりをするだけだ。


俺はららを見た。


「……わかった」


「え」


「彼女にする」


「……」


「今夜も、逃げない」


そう言った瞬間、

ららはほんの少しだけ息を止めたみたいな顔をした。


冗談みたいに笑うと思ったのに、

そうじゃなかった。


嬉しいのに、泣きそうなのを我慢してるみたいな顔だった。


「ほんとに?」


「ほんと」


「あとから、やっぱなしとか言わない?」


「言わない」


「私、かなり重いよ」


「知ってる」


「たぶんこれからもっと面倒だよ」


「それも、たぶん知ってる」


「……」


「でも、ららがそこまで考えて言ったことを、

 俺が受け取らないのは違うと思った」


その一言で、ららの目が少しだけ揺れた。


「ありがと」


「まだ早いだろ」


「ううん。ここで笑われなかっただけでも、ありがたいから」


それを聞いて、胸の奥が少し痛くなった。


ららは、たぶんずっと怖かったんだと思う。


重いと思われることも、

都合よく扱われることも、

仕事を変えるほどの覚悟を軽く受け取られることも。


その全部を覚悟したうえで、今ここで言っている。


「らら」


「ん?」


「約束する」


「なに」


「ららがこれから選ぶもの、軽くしない」


「……うん」


「今夜も、彼女にすることも、あとで都合よく忘れたりしない」


「うん」


「だから、ららも後悔しないで」


「しないよ」


その返事だけは、迷いがなかった。


それからの時間は、

さっきまでと少し違う速さで流れた。


肉を焼いても、何を食べても、

もう全部が少しだけ変わっていた。


さっきまで曖昧だった距離が、

ちゃんと名前を持ってしまったぶん、

逆に何を話してもその先を意識してしまう。


「じゃあ今から彼氏?」


「そうなるな」


「ちゃんと言って」


「……彼氏」


「うん」


「ららは彼女」


「言わせた」


そう言って笑ったららは、

やっと少しだけいつものやわらかさに戻っていた。


個室を出る頃には、

外はもう夜に寄っていた。


タクシーを拾って乗り込む。


焼肉屋の個室にいた時より、

車内のほうがずっと現実感があった。


隣にいるららが、さっきまでの姫じゃなくて、

もう彼女になっている。


ららがそっと俺の腕に寄りかかった。


店の中では絶対にしない触れ方だった。


「ほんとに、抱いてくれる?」


「うん」


「優しくして」


「……うん」


「あと、ちゃんと覚えてて」


「なにを」


「今日が最初だってこと」


「忘れないよ」


「最後も、奏楽がいい」


「……うん」


「私がソープ辞める時、最後も抱いて」


「わかった」


それは軽い約束じゃなかった。


むしろ、今夜の中でいちばん重い約束だった。


でも、もうその重さから目をそらしたくなかった。


ホテルの部屋に入ってからも、

ららはすぐには何も言わなかった。


靴を脱いで、部屋を見回して、

それからやっとこっちを見た。


緊張しているのがわかった。たぶん俺も同じだった。


「ほんとに大丈夫?」


「それ、何回も聞くね」


「大事だから」


「大丈夫」


そう言ってから、ららは少しだけ目を伏せた。


「でも、ちょっとこわい」


「うん」


「明日からのことも、たぶん少しこわい」


「うん」


「だから今日、奏楽でよかったって思えるようにして」


その言葉に、胸の奥が強く鳴った。


俺はららに近づいて、その顔を見た。


「らら」


「ん?」


「たぶん、全部を救えるわけじゃない」


「うん」


「でも、今日のことは軽くしない」


「……うん」


それから、ららのほうから少しだけ近づいてきた。


その距離がなくなった瞬間、

もう何も飾らなくていい気がした。


その夜、俺はららを抱いた。


ただ欲しがられたからじゃない。


流されたわけでもない。


ららがここまで考えて差し出したものを、

俺もちゃんと選んで受け取ると決めた、

その続きとして。


たぶんあの夜のことは、

あとから何度でも思い返すんだと思う。


ららがソープを始める前夜だったことも、

彼女になった最初の夜だったことも、

そして、ららが望んだ通り、

何かの始まりに俺の名前が置かれた夜だったことも。


朝になった時、何が正しくて、

何が間違っていたのかはまだわからなかった。


でも少なくとも、あの夜のららの言葉を、

俺はもう軽いものとしては二度と扱えなかった。

よんでいただきありがとうございます。

感想、評価、レビュー思ったままにお願いします。

いただいた方にはお返ししに行きます。

ブックマークしていただけるよう謹んでまいります。

今後とも長いおつきあいをよろしくお願いします。

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