エピソード91 ありがとう
歌舞伎町、昨今なにかと世間を賑わせている街。
そんな場所で実際に経験したこと聞いたこと考えたこと
そんなことを織り交ぜたノンフィクション風ファンタジーです。
今日一日で、
急に人の気持ちの重さだけが増えていくみたいだった。
「……そこまでしなくていいよ」
やっと出たのは、
そんな言葉だった。
ららは少しだけ首を傾ける。
「そこまで、って?」
「いや……俺のために仕事変えるとか、さすがに重いっていうか」
「重いんだ」
「そういう意味じゃなくて」
違う、と言いながら、
自分でも何が違うのかうまく説明できなかった。
ありがたいとも思うし、
嬉しくないわけでもない。
でも、その嬉しさをそのまま受け取ってしまったら、
どこかで何かが壊れる気がした。
ららは水を一口飲んでから、
静かに言った。
「奏楽って、たまに自分が誰かに支えられる側だってこと忘れるよね」
その言い方は責めているみたいでもなく、
ただ確認するみたいだった。
「忘れてはないよ」
「ううん、忘れてる」
「……」
「自分は頑張ってる、売れたい、
上に行きたいって思ってるでしょ。
でも、そのために動いてるの、奏楽だけじゃないよ」
言葉が刺さる。
締め日を越えてから、
ずっとそんなことばかり考えていた。
どうしたら上に行けるか。
どうしたら麗や春さんのいるところへ届くか。
自分の数字、自分の卓、自分の価値。
そのことばかりだ。
でも、その自分の数字を作るために、
誰かがどこで何を削っているのかまでは、
ちゃんと見ていたかと言われたら、自信がなかった。
「前の仕事でもよかったんだけどね」と、
ららは続けた。
「でも、もっと稼げるほうが早いかなって思っただけ」
「それ、簡単に言うことじゃないだろ」
「簡単に言ってないよ」
ららは笑わなかった。
それが逆に重かった。
「私が決めたの。奏楽が決めたんじゃない」
「でも……」
「でももなにもないよ。
支えたいと思ったのは私だし、
そのために何選ぶかも私が決める」
まっすぐだった。
まおみたいに、
言葉を隠しながら線を引くタイプじゃない。
ららは曖昧に見えるくせに、
ときどきこういうところだけ変に真っ直ぐだ。
「前の仕事じゃ、たぶん奏楽のスピードに追いつけないと思った」
「追いつくって」
「上に行きたいんでしょ?」
「行きたいけど」
「だったら、私もちゃんと支えたい」
その言葉のあと、
個室の中に少し沈黙が落ちた。
下の階から、肉が焼ける音と、
どこかの卓の小さな笑い声が聞こえる。
こんな普通の焼肉屋の個室で話してるのに、
話していることだけが少し普通じゃなかった。
「俺、そういうの嬉しいって顔したらだめな気がする」
正直にそう言うと、ららはやっと少しだけ笑った。
「なんで」
「それで、じゃあお願いってなるの、なんか違うだろ」
「お願いなんてされてないよ」
「でも止めても止まらないんでしょ」
「たぶんね」
ららはあっさり言った。
「でもひとつだけ約束して」
「なに」
「それで、ららが勝手にやってるだけ、みたいな顔はしないで」
その一言に、今度はこっちが黙った。
たぶんららがいちばん嫌なのは、
止められることより、
軽く扱われることなんだと思った。
支えると言ったことも、選んだ仕事も、
全部“向こうが勝手にやってること”として処理されること。
なかったことみたいにされること。
「……軽く見るつもりはないよ」
「ならいい」
「でも、無理はしてほしくない」
「無理してるかどうかは、私が決める」
そう言って、ららはようやくいつもの少しやわらかい顔に戻った。
強いな、と思った。
まおみたいな不器用さとはまた違う。
ららはららで、
ちゃんと自分の意志で線を引いている。
ただその線が、
俺のほうに向いているだけだ。
「奏楽はさ」
「ん?」
「支えられること、もうちょっとちゃんと覚えたほうがいいよ」
「難しいこと言うね」
「難しくしてるの奏楽じゃん」
そう言って、
ららはやっと少しだけ笑った。
俺もつられて笑ったけど、
胸の奥は全然軽くならなかった。
今日だけで、
まおにもららにも、
俺が思っている以上のものを向けられている気がした。
それを営業だとか好意だとか、
ひとつの言葉で片づけられないところまで、
もう来てしまっていた。
「ありがとう」
結局、最後に出たのはその言葉だった。
ありきたりで、足りない気もした。
でもたぶん今の俺にいちばん嘘がないのは、
それだった。
ららは「うん」とだけ返して、
それ以上は何も言わなかった。
その短い返事の中に、
聞きたいことも、言いたいことも、
たぶんまだたくさん残っている気がした。
けれど今は、それを無理にほどかないほうがいい気もした。
俺は目の前のグラスを持ち上げる。
誰かを支えることと、誰かに支えられること。
その両方が、
同じ夜の中でいきなり重くなりすぎていた。
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