第8話 部長の災難
放課後の旧校舎、夕暮れの茜色がいっそう影を濃くする頃。
卓球部員たちがみな帰路についた静まり返った卓球部の部室で、那須部長は一人、黙々とラケットのラバーを貼り替えていた。
「はぁ…あの竜崎のせいで僕の人望はめちゃくちゃだよ……」
その時、背後の開け放たれていた窓から、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
まるで最高級の香水か、あるいは闇に咲く毒花のような、妖しくも艶やかな芳香。
那須部長の手がぴたりと止まる。
「熱心ですね」
振り返った那須部長の視界に飛び込んできたのは、息をのむほど美しい、艶やかな黒髪の女性だった。その唇には魅惑的な笑みが浮かんでいる。
「な、なんだ君は…ここは部外者立ち入り禁止だよ」
(ええ? こんな美女、この学校にいたか??)
「私、那須部長に憧れてるんです。入部させてください」
「え? ええ? そうなの? いや~それは嬉しいな~えへへ」
女が放った『媚惑の艶香』が、那須部長の鼻腔をくすぐった瞬間。
部長の瞳から理性の光がスッと消え去り、その顔にだらしのない笑みが浮かんだ。
「へへ……えへへ……」
「いい子ね。私の可愛い『お人形』になりなさい」
すぽんと魂が抜けたように崩れ落ちる那須部長を、影から伸びた黒い糸が優しく、しかし逃れられないほど強靭に絡め取っていく。
その頃、校舎の廊下を歩いていた咲良は、ふと背筋に冷たいものを感じて足を止めた。
(妖気……!?)
昨日の今日で、もう次の追手が来るとは思わなかった。
咲良の閉じた口から八重歯がこぼれる。
咲良は一目散に気配の発生源である旧校舎へと走り出した。
彼女の背後で、九本の尾の気配が揺らめいていた。
旧校舎の薄暗い卓球部の部室。
そっと扉を開けた咲良の目に飛び込んできたのは、大量の糸にぐるぐる巻きにされ、天井からぶら下げられた那須部長の姿だった。
「部長っ!?」
「おや、いいところに獲物の小娘が迷い込んできたわね」
闇の中から姿を現したのは、先ほどの妖艶な美女だが、その背中からは無数の蜘蛛の足が蠢いている。その口元には冷酷な笑みが張り付いていた。
「萬天会の刺客ね。その人は何の妖力もない人間よ。放しなさい」
「返してほしければ、自分で取りに来るがいいわ」
「なぜその人を狙うの? 私を狙えばいいじゃない?」
「私はね。大切な人が殺されるのを目の当たりにしている人を見るのが幸せなの…」
(なんて悪趣味。ていうか那須部長は大切な人ではない…)
「そう。じゃあ力ずくで返してもらうわ」
咲良がそう言うか言わないかの間に、女が指を鳴らした。
「女郎蜘蛛を取り込んだ私の『傀儡の粘糸』を喰らいな!」
部室の空間全体が白く輝く無数の糸で埋め尽くされた。
咲良は即座に両手を掲げ、青白い爆炎――『狐火』を放つ。
「燃え尽きなさい……!」
しかし、放たれた猛烈な妖炎は、蜘蛛の巣に触れた瞬間にまるでクッションのようにボフッと音を立てて吸収され、
その威力を完全に消し去られてしまった。
「私の狐火が……!?」
「無駄よ。私の糸は、あらゆる衝撃や物理・妖力のエネルギーを完全に吸収・無力化する。力任せに暴れても無駄よ、九尾の狐さん」
さらに、空間に満ちた糸から微細な紫色の粉末――『妖気麻痺の毒』が立ち込める。
「体が、重い……!?」
咲良の全身からスッと力が抜け、膝から崩れ落ちる。
毒は咲良の妖力を容赦なく抑え込み、咲良の精神の揺らぎとともに、
頭の上からポンと「狐の耳」が飛び出し、背中からは抑えきれなくなった九本の尻尾がボロンと露出してしまった。
「隠しきれなくなったわね、化け狐が。……さあ、萬天会の法具の贄となりなさい!」
逃げ場のない鉄壁の粘糸が咲良の四肢に絡みつき、彼女を完全に地面に縛り上げた。
顔の色が青紫になり、意識が薄れゆく中、八重歯の刺さった唇から血が流れる。
(ここまでなの……っ)
そう思われた次の瞬間――。
「ガラァァァァッ!!」
部室に轟音を立てて戸が開き、ひとりの男がズカズカと踏み込んできた。




