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第26話 咲良の涙

「……ところで、リオ」


咲良が怪訝そうな顔でリオを見上げた。


「どうして微香空間(北欧の香り)で、妖を消滅させなかったの?」


「あれか…あれはのぞみに置き忘れた!!」


「えええーー!!!」


あまりにもあっさりした返答に、咲良は思わず声を張り上げた。


「ちょっと!! あれがあれば、ヴァイスもこんなことにならなかったんじゃないの!?」


「咲良よ、案ずるな!」


リオは自信満々に胸を張った。


「日本の忘れ物の返却率は世界一と聞く。きっと忘れ物センターで預かっていてくれよう!」


「そういうことじゃなくて!!!」


咲良の叫びが、静まり返った闘技場に響き渡った。


「……もう、なんなのよ。この人は」


咲良は深いため息をついた。

闘技場には、牛殻を倒された萬天会の者たちが呆然と立ち尽くしていた。

誰ひとりとして声を上げる者はいない。つい先ほどまで威圧的に振る舞っていた幹部たちも、

リオの圧倒的な力を目の当たりにし、身動きひとつ取れずにいた。


「さて、行くぞ」


リオは何事もなかったかのように歩き出した。


「ちょっと待って。ヴァイスはどうするのよ?」


「大丈夫だ。あれくらいで死ぬ奴ではない」


「いや、そういう問題じゃないでしょ!」


ヴァイスは床に倒れたまま、かすかに手を振っていた。


「……こ、ここで少し休みます」


「ほら、まだ動けるではないか」


「多少ね!!!」


咲良はヴァイスのそばに駆け寄り、その身体を支えようとした。

そのときだった。


闘技場の奥で、重々しい音が響いた。


ゴゴゴゴゴ……。


壁の一部が左右に割れ、その向こうに暗い通路が姿を現す。通路の両側には、

奇妙な仏像や妖怪をかたどった石像がずらりと並んでいた。いずれも人間のものとは思えない異形の姿をしている。


「……あそこは?」


咲良が目を細める。


「総本山のさらに奥へ続く道です」


萬天会の幹部らしき僧が答えた。


「幹部であっても許可なく立ち入ることはできません」


「ということは、あの先に偉い奴がいるのか?」


リオは通路の奥を眺めた。

その先から、奇妙な気配が漂ってくるのを咲良は感じた。

妖気とも違う。人間の気配とも違う。まるで、いくつもの異なる存在がひとつに混じり合っているかのようでどこか懐かしい気配だった。


「……行きましょう。ヴァイスはここにいてね」


咲良が静かに言った。

二人は、開かれた通路へと足を踏み入れた。

背後では、闘技場に残された萬天会の者たちが、ただ黙ってその姿を見送っていた。


通路は奥へ進むほどに広くなり、やがて巨大な地下空間へとつながっていた。

天井は見上げても果てが分からないほど高く、壁面には無数の奇怪な彫刻が刻まれている。そこに描かれていたのは、鬼や龍、天狗、そして人間の姿をした何かだった。

それらはすべて、ひとつの巨大な像へと向かって手を伸ばしている。


「……何なの、これ」


咲良が足を止めた。

そのとき、空間の最奥から、低く響く声が聞こえてきた。


「よくぞ、ここまで参られた」


二人の視線が、一斉に奥へと向けられる。

まだ姿は見えない。

ただ、その声には、地下大伽藍全体を支配するような重みがあった。

扉の向こうには、祭壇のような一段高い場所があった。その中央に、一人の僧が立っている。


白い法衣をまとい、手には錫杖を携えていた。年齢も顔立ちもはっきりとは分からない。だが、その姿を目にした瞬間、咲良は思わず息を呑んだ。


「……あなたが、萬天会の大僧正?」


「いかにも」


僧は静かにうなずいた。


「我こそは萬天会を束ねる者。そして、この世に新たな理をもたらす者なり」


「新たな理?」


「人と妖。その二つを隔てる境界を取り払い、すべての存在をひとつにする。それこそが我らの悲願」


大僧正が錫杖を床に打ちつけた。


カァン……。


澄んだ音が地下空間に響き渡る。すると、壁面に刻まれた無数の彫刻が、ぼんやりと光を帯び始めた。


「人は人として生まれ、妖は妖として生まれる。だが、それは本当に正しい在り方なのだろうか?」


「何を言っているの?」


咲良が眉をひそめる。

大僧正は、ゆっくりと咲良へ視線を向けた。


「そなたは九尾の血を引く者。人から恐れ疎まれ、森深く身を隠しておった。ならば、我が成し遂げようとしていることも理解できよう」


「……私のことを知っているの?」


「もちろん。そなたの父と母のこともな」


その言葉に、咲良の表情が変わった。


「……お父さんと、お母さん?」


「そうだ。そなたの両親は、今もここにおる」


「え……?」


大僧正は自らの胸に手を当てた。


「二人は我が身の内に取り込まれ、我が力の一部となった。もはや人でも妖でもない。だが、確かにここに存在しておる」


「そんな……」


咲良は一歩、後ずさった。

あの懐かしい気配。

ずっと胸の奥に引っかかっていたものの正体が、今ようやく分かった気がした。


「そなたの父も母も、我の中で生きておる。二人の力は、今や我が力そのもの。そなたもこちらへ来るがよい」


大僧正が片手を差し伸べた。


「そうすれば、再び家族がひとつになれる」


「……ふざけないで」


咲良の声が震えた。


「それのどこが家族なのよ……!」


足元から青白い炎が立ち上る。


九本の尾が大きく広がり、周囲の空気が激しく揺れた。


「お父さんとお母さんを……返して!!」


咲良の叫びが、巨大な地下空間に響き渡った。


「咲良……お母さんよ」


「お母さん!!!!」


「咲良。お父さんだよ。一緒に家族で暮らそう」


「お父さん!!!!」


大僧正の口から、咲良の両親の声が響いた。その声は、間違いなく聞き覚えのあるものだった。

優しく包み込むような母の声。いつも頼もしく、温かかった父の声。


忘れるはずがない。


「そんな……どうして……」


咲良の目に涙が浮かんだ。

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