第25話 不覚のヴァイス
炎が消え、闘技場に静寂が戻った。
石造りの舞台には、全身を黒焦げにした牛殻が倒れ伏している。
ヴァイスはしばらくその姿を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……どうやら、決着のようですね」
黒い竜の身体が、ゆっくりと人間の姿へ戻っていく。
衣服を整えながら、ヴァイスはリオと咲良の方へ振り返った。
「リオ様。お待たせいたしました。どうにか――」
その瞬間だった。
ズブッ!!
「――っ!?」
背後から、鋭い角がヴァイスの身体を貫いた。
「ヴァイス!!」
咲良の悲鳴が闘技場に響き渡る。
ヴァイスの背後には、先ほどまで倒れていたはずの牛殻が立っていた。
いや、その姿は先ほどとは違っていた。
黒焦げになった外皮が、まるで抜け殻のように剥がれ落ちている。その下から現れたのは、さらに巨大で、異様な筋肉に覆われた新たな肉体だった。
牛殻は角を突き立てたまま、低く笑った。
「フハハハ……! まさか、これで終わったと思ったのか?」
牛殻の角は、ヴァイスの背中を深々と貫いていた。鋭い先端が腹部から突き出している。
ヴァイスは何が起きたのか理解できないというように、目を見開いた。
「ぐっ……!」
牛殻は角に突き刺したヴァイスの身体を、軽々と持ち上げた。
「フハハハ! 油断したな、トカゲ!!」
牛殻の足元には、先ほどまで倒れていた黒焦げの肉体が転がっていた。それはまるで、巨大な蛇が脱ぎ捨てた皮のようだった。
「脱皮……したのか!?」
咲良が目を見張る。
牛殻の全身から、黒焦げになった外皮の破片が次々と剥がれ落ちていく。
その下には、先ほどよりも一回り大きく、異様なほど隆起した筋肉があった。
「俺の身体は、ただの肉体ではない! 妖力を極限まで高めることで、古い皮を捨て、新たな肉体へと生まれ変わるのだ!」
牛殻はヴァイスを角から振り落とすように、乱暴に地面へ叩きつけた。
ドゴォン!!
「ヴァイス!」
咲良が駆け出そうとする。
しかし、その前にリオが片手を上げた。
「待て」
「でも、ヴァイスが……!」
「ヴァイスはまだ降参しておらんだろ」
リオは静かに舞台を見据えていた。
一方、地面に倒れたヴァイスは、すぐには起き上がれなかった。
「ぐっ……これは、少々……予想外でしたね」
口元から血を流しながらも、ヴァイスは牛殻を見上げる。
牛殻はその姿を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。
「どうした? さっきまでの威勢はどこへ行った! 貴様の炎など、俺には通用せん!」
牛殻の背中から、再び無数の腕が伸びていく。
その姿は、もはや牛鬼というより巨大な蜘蛛そのものだった。
「ぐっ……!」
ヴァイスがゆっくりと上半身を起こそうとした、そのとき。
無数の腕が一斉に襲いかかった。
ドゴォン!!
「ガハッ!!」
ヴァイスの身体が石畳に叩きつけられる。
間髪入れず、別の腕がその身体を殴り飛ばした。
ドガッ!!
さらにもう一撃。
ドゴォン!!
牛殻は倒れたヴァイスを、まるで玩具のように何度も地面へ叩きつけた。
「フハハハ! どうした! もう竜の姿にも戻れんのか!」
「……グハッ!!」
ヴァイスは血を吐きながらも、必死に顔を上げた。
「も、申し訳ありません……リオ様」
その声を聞き、リオが一歩前に出た。
「ヴァイス……」
「グホッ……リオ様……」
ヴァイスが苦しげに手を伸ばす。
リオはその姿を見つめ、静かに口を開いた。
「そういえば、駅弁を食べ損ねたのでお腹が空いたな」
「…………え?」
咲良が思わず声を漏らす。
「何かないか?」
闘技場が静まり返った。
ヴァイスも、牛殻も、観客席にいた萬天会の者たちも、リオの言葉を理解できずに固まっている。
牛殻はヴァイスを叩きつけようとしていた腕を止めた。
「……貴様、何を言っている?」
リオは牛殻を見上げた。
「だから何か食べるものはないのかとヴァイスに聞いておる」
「あ、ありません」
ボロボロになりながらヴァイスが答える。
「気の利かん奴め……」
「ちょっとこの状況で掛ける声がそれ!?」
咲良が驚いてリオに詰め寄る。
「仕方ない……」
そして、牛殻へと向き直る。
「おい! 牛殻とやら!」
「な、何だ!?」
「その超気の利かん奴でも、我にとっては大切な奴隷のような者だ!!! それくらいにしておけ!!」
闘技場に、再び沈黙が訪れた。
リオは静かに牛殻の方へ歩んでいく。
(……俺、奴隷だったの?)
ヴァイスの力ない心の声が、静かに漏れた。
「いいだろう! 貴様もまとめて叩き潰してやる!!」
牛殻が地面を蹴った。
巨体からは想像もつかない速度で、リオとの距離を一気に詰める。
「リオ!!」
咲良が叫んだ。牛殻の無数の拳が、リオの頭上から振り下ろされる。
しかし――。
ドンッ!!リオが軽く腕を振るった。
それだけだった。牛殻の巨体が宙を舞い、闘技場の反対側まで吹き飛ばされた。
「ぐおおおおっ!!」
轟音とともに石壁へ激突する。壁には巨大な亀裂が走り、牛殻の身体がそのまま崩れ落ちた。
「…………」
闘技場にいた誰もが、言葉を失っていた。
先ほどまでヴァイスを圧倒していた牛殻が、たった一撃で沈んだのだ。
「な……何が起きた……?」
観客席の一人が呟く。牛殻は瓦礫の中で身を起こそうとした。
「ぐ……おのれ……まだだ……!」
その背中から、再び無数の腕が伸びようとする。
だが、リオは面倒そうに牛殻を見下ろした。
「まだやるのか?」
「黙れ! この俺が……!」
「そうか」
リオは牛殻の前まで歩いていくと、その額を指先で軽く弾いた。
コツン。
「ぐっ……!」
牛殻の巨体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。今度こそ、動かなくなった。
「……勝ったぞ」
リオは何事もなかったかのように振り返る。
「ヴァイス。生きてるか?」
「は、はい……なんとか生きてます」
「奴みたいに脱皮はできんのか?」
(脱皮できるか!!!)
「そうか。では美味しい食べ物を何か探して来とけよ」
(なんとか生きてるって瀕死だからね!!!)
「サラダも忘れるなよ」
(……)
ヴァイスは気を失った。咲良は額に手を当て、深いため息をつく。
「……もう、なんなのよ。この人は」
闘技場には、萬天会の者たちの呆然とした視線だけが残されていた。




