第20話 夢界
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
夢界が両腕を振り上げた瞬間、グリーン車の座席が一斉に回転を始めた。
ガコン! ガコン! ガコン!
前後左右、さらには上下までもが無秩序に入れ替わる。座席は乗客たちを容赦なく振り回し、
天井に頭をぶつけさせては通路へと放り出す。静寂と快適さを誇るグリーン車は、たちまち地獄の遊園地と化した。
「きゃあああああっ! な、何これぇ!?」
「おおっ、これはなかなか愉快な仕掛けだな!」
「リオ! 感心している場合じゃないでしょ!!」
「遊園地というものは、こういうものなのだろう?」
「ここ、新幹線だし!!」
咲良の悲鳴もむなしく、座席の回転はますます加速していく。やがて車両全体が歪んだかのように、
窓の外の景色までもがぐるぐると回り始めた。
「ヒヒヒヒヒ! どうだ! これぞ枕返しの妖術、『夢転座』! 座る場所も、向かう方向も、己の意思では決められぬ!
この車両に乗った者は、永遠に安らかな座席を得ることなどできんのだぁ!」
夢界は勝ち誇ったように哄笑した。
「さあ、苦しめ! 嘆け! そして、俺の偉大さを思い知るがいい!」
「……なるほど」
リオは腕を組み、深々とうなずいた。
「つまり、座席の向きを自由に変えられるということか」
「そうだ! それがどうした!」
「素晴らしいではないか! 貴様に頼めば、ペダルを操作せずともボックス席に変更できるということだろう? 気の利いたサービスではないか!」
夢界の顔から笑みが消えた。
「き、貴様……! 俺の妖術をJRのサービスだと……!?」
「うむ。ところで、もう少し回転速度を上げることはできぬか? さすがに飽きてきたぞ」
「ふざけるなぁぁぁぁっ!!」
夢界の全身から、どす黒い妖気が爆発した。
その瞬間、車両中央の座席が、まるで巨大な生き物の口のように裂けた。
その奥から、無数の枕が湧き出してくる。
白い枕、黒い枕、赤い枕。さらには、人の顔のような不気味な模様が浮かんだものまで。数百もの枕が宙を舞い、
あっという間に車内を埋め尽くした。
「これで終わりだ! 枕返しの真髄を見せてやる! 喰らえ、奥義――『万枕葬』!!」
夢界の号令とともに、枕の大群が一斉に襲いかかった。乗客たちが悲鳴を上げる。咲良がとっさに飛び出そうとした、その刹那だった。
「ヴァイス」
「はっ」
「この車両の清掃を頼む」
「承知いたしました」
「……え?」
咲良は思わず振り返った。
「ご安心くださいませ、咲良さん」
ヴァイスは、いつもの穏やかな微笑を浮かべていた。
次の瞬間、ヴァイスの姿が消えた。いや、消えたように見えただけだった。
彼は目にも留まらぬ速さで車内を駆け巡り、襲いかかる枕を一つ残らず回収していく。最後には、それらを器用に荷物棚へ積み上げた。
わずか十秒。
「……は?」
夢界は、間の抜けた声を漏らした。
「枕の回収が完了いたしました」
「な、な、な……!」
夢界の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「俺の奥義を……! 枕を……っ!!」
咲良は額を押さえた。
(何なの……。竜族って強いのか弱いのか、まったく分からない……!)
いや、違う。分からないのではない。強いのだ。おそらく、とんでもなく。
ただ、その力の使い道が致命的におかしいだけである。
「ええい! ならば、これならどうだ!」
夢界は両手を天へと突き上げた。
「枕返しの本領は、寝具を操ることだけではない! 人の夢を裏返し、現実と幻の境界をひっくり返すことにあるのだ!」
次の瞬間、車内が暗転した。
乗客たちの姿が消え、窓も座席も、グリーン車を構成していたすべてのものが闇に呑まれていく。
やがて闇が晴れたとき、そこに広がっていたのは、見渡す限りの荒野だった。
ひび割れた大地には巨大な枕がいくつも突き刺さり、頭上には赤黒い月が不気味な光を投げかけている。
「ここは夢界! 俺が支配する夢の世界だ! 現実の力など通用しない! どれだけ速く動こうとも、どれだけ強く殴ろうとも、この世界では俺が絶対なのだ!」
夢界は両腕を広げ、高らかに笑った。
「さあ、恐怖に震えるがいい! 貴様らの心の奥底に眠る悪夢を引きずり出し、二度と目覚められぬようにしてやる!」
そのときだった。咲良の足元から、黒い影が音もなく伸びた。
影は彼女の身体を包み込み、瞬く間に巨大な白狐へと姿を変える。
純白の毛並み。銀色に輝く瞳。そして、背後にゆっくりと広がる九本の尾。
「……っ!」
夢界の笑みが凍りついた。
九尾の白狐と化した咲良は、悠然と顔を上げる。
「夢の世界なら、好都合だわ」
その声は、先ほどまでの少女のものとは思えないほど低く、威厳に満ちていた。
「ここなら、すべてを顕現させても人間に見られる心配はないものね」
「な、何を言っている……?」
夢界が一歩、後ずさる。
白狐の全身から、青白い炎がゆらりと立ち上った。
九本の尾が大きく広がる。その妖気に呼応するように、頭上の赤黒い月が明滅を始めた。
「夢の中では、心の奥底に隠したものまで具現化するんでしょう?」
咲良は黄金の瞳を細めた。
「だったら、遠慮する必要もないわね」
「ま、待て! お前、いったい何を――」
「九尾妖術……『白燐天狐』!」
ゴォオオオオオッ!!
九本の尾から放たれた青白い炎が、荒野を一瞬にして呑み込んだ。
炎は大地を駆け抜け、地平線の彼方まで広がっていく。空が裂け、赤黒い月に無数の亀裂が走った。
そして――轟音とともに、月が粉々に砕け散った。
「そ、そんな馬鹿なぁぁぁっ! 俺の夢がぁぁぁぁっ!!」
夢界は慌てて両手を振り回した。
「や、やめろ! ここは俺の世界だぞ! 俺の許可なく好き勝手に暴れるんじゃねえ!」
「知らないわよ。自分の世界なら、自分で何とかしなさい!」
「理不尽だぁぁぁっ!!」
夢界の叫びもむなしく、荒野は次々と崩壊していった。
咲良は燃え盛る大地を悠然と歩きながら、感心したように周囲を見回した。
「なるほどね……。夢の世界っていうから、もっと自由に何でもできるのかと思ったけど……」
「お、お前……! いったい何をしている!?」
「あなたの夢をぶっ壊してるのよ」
「俺の夢を壊したら、お前たちも現実に戻れなくなるんだぞ!!」
ぴたり、と咲良の足が止まった。
「……あれ?」
夢界の顔に、再び笑みが戻る。
「ヒヒヒ……! やっと気づいたか! この夢は現実から切り離された異空間! 俺を倒すだけでは脱出できん! この世界そのものを破壊すれば、貴様らの意識もろとも永遠の虚無へと沈むのだ!」
「……それは困るわね」
「だろう!? さあ、どうする!? このまま俺を倒せば全員道連れ! 俺を生かせば、お前たちは永遠に俺の支配下! どちらを選んでも絶望しかないのだぁっ!」
夢界は両腕を大きく広げ、勝利を確信したように哄笑した。
しかし。
「……ねえ、リオ」
咲良は元の人間の姿に戻ると、背後を振り返った。
「どうしよう?」
「……うむ」
リオは、燃え盛る荒野の真ん中で腕を組んでいた。
「どうやら、この世界を壊すと我々も出られなくなるらしいな」
「そう」
「つまり、出口がないのだな」
「そう」
「…………」
「…………」
二人はしばし、無言で考え込んだ。
やがて、リオがぽんと手を打った。
「よし。出口を作ろう」
「……は?」
「……え?」
咲良と夢界の声が、見事に重なった。
リオは気負う様子もなく、すっと片手を持ち上げた。
そして、空間そのものを切り裂くように、横一文字に腕を振る。
――ビリリリリッ!
耳障りな音とともに、目の前の空間に亀裂が走った。
亀裂は瞬く間に広がり、まるで見えない布を引き裂くように、夢界の世界を真っ二つに切り開いていく。
その裂け目の向こうに現れたのは――見慣れた新幹線のグリーン車だった。
整然と並ぶ座席。荷物棚。窓の外を流れる景色。
つい先ほどまで、自分たちがいた場所に違いない。
リオは裂け目の向こうを覗き込み、満足げにうなずいた。
「うむ。これで帰れるな」
「…………」
咲良は口を半開きにしたまま、目の前の光景を見つめていた。
夢界もまた、まるで魂が抜けたかのように立ち尽くしている。
やがて、彼の唇がわなわなと震え始めた。
「……おい」
「何だ?」
「お前……今、何をした……?」
「見てのとおりだが?」
「見てのとおりじゃねええええっ!!」
夢界の絶叫が、崩壊していく夢の世界に響き渡った。




