第17話 萬天会の本拠
葵がようやくペンを止めて、ぐったりと机に突っ伏した。
その横で、優衣は「ん……? 私、なんでこんなところで寝転がってるの?」とキョトンと首をかしげている。
やれやれと胸を撫で下ろした咲良だったが、ふと不安がよぎりリオにたずねた。
「葵には北欧の香りスプレーかけなくていいの?」
「ん? 葵とやらか? こやつは何も妖に取り込まれておらんぞ?」
「えええ!??」
疑う咲良はリオから北欧の香りスプレーを取り、勢いよく葵にスプレーを吹き付けた。
プシュー!!!
修羅場を越して屍となった葵は力なく「や、やめれ~…原稿がヌルヌルになる~」と声を絞り出す。
「……本当だ」
呆れた顔の咲良の隣で涼しい顔をするリオの足元では、
萬天会のリーダーらしき僧侶が「ぐぬぬ……我が秘術が北欧の香りに敗北するとは……」と、泡を吐いて朦朧としていた。
◇◇◇
数日前――萬天会の円座。
「……動揺するな」
たった一言。それだけで、広間を満たしていたざわめきが、ぴたりと止んだ。
幹部たちは一斉に、声の主がいる闇の奥へと顔を向けた。
そこには、深々とフードをかぶった人物が、静かに座している。その周囲の空間だけは、まるで光すらも吸い込まれるように重く澱んでいた。
「……九尾の狐と、突如現れた得体の知れぬ連中はいずれ必ず、我らが虜としてくれる」
冷徹で狂気を孕んだその声が、広間の隅々まで染み渡るように響き渡る。
「しかし恐れながら大僧正さま。百目、ササ我尼が一蹴されたのですぞ?」
「ククク。牛殻どのは図体の割に臆病ですね」
「なにっ!」
牛殻が声を発した細見の僧侶を睨みつけた。
「大僧正さま。私めにお任せを。どうやら九尾の狐は人間の世界に溶け込み暮らしている様子。細手手長を九尾の咲良の友人に取り込んでみせましょう」
口を開いたのは、青白い肌に不気味な笑みを張り付けた幹部の男――妖のかくえんを取り込んだ猿血代だった。
彼の自信ありげな不敵な笑みに、先ほどまでいがみ合っていた幹部たちも沈黙する。
玉座に鎮座する大僧正は、深く被ったフードの奥から、底知れぬ暗黒を湛えた瞳をゆっくりと向けた。
「……よかろう、猿血代。お前の狡猾な遊戯、期待しているぞ」
静かに響くその声には、あらゆる命を呪詛で縛り上げるような狂気が満ちていた。
「失敗は許されぬ……」
円座に集う幹部たちが一斉に深く平伏した。猿血代は闇へと溶けるように消えていった。
◇◇◇
――そして現在。路地裏の地下室。
すっかり爽やかな北欧の香りに包まれ、白目を剥いて倒れている猿血代を尻目に、咲良たちはやれやれと息をついていた。
(はあ……とりあえず、優衣も無事だったし、葵もただの修羅場だったし……最悪の事態は免れたか……?)
咲良が額の汗を拭いながら呟く。
「…とりあえず優衣と葵には寝ててもらうね」
九尾の妖気が解放され、それが優衣と葵に触れた瞬間、二人はすっと眠りに入った。
「ところで、こいつらはどうするのだ?」
リオが猿血代や僧侶たちを指さし、咲良に聞いた。
「どこに本拠地があるのか聞きたいけど……多分言わないよね」
「どれ我が試してみよう。ヴァイス。その泡ふいてる奴を起こせ」
「は!」
ヴァイスは猿血代のほっぺたを無感情にペチペチと叩き起こした。
「う…うう」
「ぐっ……ここは……?」
北欧の香りの微香空間にむせびながら、猿血代はうめき声を上げて目を見開いた。
しかし、目の目に立っているのが、冷ややかな黄金の瞳を光らせたリオであることに気づくと、一気に顔を青ざめさせて身を硬くする。
「おや、起きたか。では早速だが、貴様らの本拠地とやらへの道順を教えてもらおうか?」
リオが不敵な笑みを浮かべ、まるで道端のゴミでも見るような目で猿血代を見下ろす。
「ふ、ふざけるな……! 我ら萬天会の大いなる意志は、貴様らごとき輩に屈しは……!」
猿血代が青白い顔で虚勢を張った瞬間、ヴァイスが冷ややかに一歩踏み出し、手元には竜の黒炎がチリチリと音を立てていた。
「ほう、気骨だけは一人前のようだな。だが、我が主人の問いに即座に答えぬ者に、これ以上の会話の時間は与えられんぞ?」
「ひっ……!」
熱気が肌を焦がす恐怖に、猿血代の額から冷や汗が流れ落ちる。
しかし、萬天会の幹部としてのプライドか、あるいは大僧正に対する恐怖からか、彼は必死に歯を食いしばって口を閉ざそうとした。
「……無駄よ。この男は萬天会の報復を恐れて簡単には吐かない」
咲良が腕を組みながら冷ややかに見据える。
「あなたが優衣に妖怪を取り込みしたことは絶対に許せない。黙って死ぬか。話して死ぬか。選びなさい」
その言葉を聞いたリオが片眉を吊り上げた。
「ほぉ……貴様、下等な妖怪を優衣に取り込んだか」
リオは不敵な笑みを浮かべて猿血代に近寄って行く。そしてスプレーに手を伸ばし、猿血代めがけて勢いよく吹きかけた。
「そんな貴様にも微香空間(北欧の香り)を喰らわせてやるわ!!! 悪しき魂よ散れ!!!!!」
「ぎゃあああああ!!!!!ミナペルゥウウうう……」
地下室に立ち込めていた上品かつ圧倒的な北欧の香りが、シュウウウ……と虚しく空中に消えていく。
リオは完全にスカスカになったスプレー缶を逆さまにし、不満そうに振ってみせた。
「……まったく。人間界の消臭スプレーというものは、なぜこうもすぐになくなるのか?」
「そもそも本来の使い方じゃないからね!?」
咲良が呆れ果てたツッコミを入れる傍らで、大量の北欧の香りを浴びせられた猿血代は、文字通り「白目」を剥いたまま、ピクピクと全身を痙攣させて崩れ落ちていた。
その顔は、長年の悪行が嘘のように清々しいまでに浄化され、魂の抜けた廃人のような表情になっている。
「あ, れ……? 俺は……一体、何を……?」
猿血代の口から、先ほどの不気味な声はどこへやら、心細い呟きが漏れる。
「しっかりして! 萬天会の本拠地はどこ!?」
咲良がすかさず詰め寄ると、猿血代はうつろな目で天井を見上げ、か細い声で答えた。
「ほ、本拠地は……甲子園の地下の奥深く……。大僧正さまの真の目的は、世界の政府の要人をすべて妖力の虜にし、世界を書き換えること……。
あぁ、なんて北欧の香りが心地いい……俺はもう、生まれ変わっていい人に……」
「聞いてないことまで自白してるじゃん!! しかも勝手に更生しかけてるし!!」
咲良が思わず頭を抱えたその足元で、猿血代は満足げにふっと意識を完全に手放すのだった。
――と、その静寂を切り裂くように、
「甲子園だとーーっ!!!!!」
地下室の天井を揺るがすほどの、リオの歓喜の絶叫が響き渡った。
「き、急にどうしたのよリオ……?」
あまりのテンションの高さに、咲良が引きつった顔で後ずさる。
しかしリオは、黄金の瞳を爛々と輝かせ、なぜか両手を大きく広げて身悶えていた。
「甲子園といえばそしてタッチやカッちゃん、南ちゃんが目指した聖地!!! 萬天会を粉砕しつつ、青春の夢を叶える絶好の機会ではないか!」
「あの…重要なのは萬天会をぶっ潰すことよ?」
「ふっ。我にかかれば世界の救済も青春の夢の実現も同時に達成可能だ。ヴァイス、新幹線の予約を」
「はっ!」
「グリーン車にしろよ」
「さすがリオ様。万全の体調で甲子園に向かうのですな」
相変わらずのマイペースすぎる竜族のリオとヴァイスに、咲良は盛大に天を仰いだ。




