第16話 細手手長
「咲良ちゃん、捕〜まえたっ♪」
耳元で甘く囁いた瞬間、優衣の背中から異様な音が響いた。
きしむ骨の音とともに、優衣の細い両腕が不自然にぐにゃりと伸び、関節があり得ない方向へとねじ曲がる。
優衣のそれはもう「人間の腕」ではなかった。
「ぐっ……!?」
優衣の背中から這い出してきたのは、蜘蛛の糸よりも細く、
漆黒のツル植物のように不気味に長い無数の腕――古より災厄の予兆と恐れられた妖怪「細手手長」の呪腕だった。
その異常なまでに長い細手が、まるで生き物のように蠢きながらスルスルと絡みつき、咲良の全身を締め上げていく。
「優衣……ッ!」
妖怪の怨念と萬天会の術が融合した禍々しい気配が、九尾の狐としての咲良の霊力を容赦なく削り取っていく。
少女の肉体を器にしているがゆえに、下手に荒い力技を使えば、
器である優衣ごと粉々に砕け散りかねない。咲良にとって、極めて悪手を選ばざるを得ない最悪の状況だった。
「ふはははは! 見事だ……! あの『細手手長』の妖気を取り込み、完全に調和したか!」
中央で黒い数珠を鳴らす僧侶が、狂喜に満ちた笑い声を上げる。
「九尾の妖気を持つ姫君であっても、お友達は見殺しにはできまい。さあ、そのまま貴様の肉体も我が萬天会に捧げるのだ!」
細手手長の冷たく長い指先が、咲良の頬を撫でるように這いずり回る。
もはや優衣自身の意識は完全にその奥底へ沈み込み、代わりに冷徹で不気味な異界の意志が彼女の口を動かした。
『……捕まえた……もう、離さない……一緒に行こう、咲良ちゃん……』
「優衣……! ダメ!!! 自分を見失わないで!!」
その時――。
——ゴウンッ!!!!
突如として、地下室の天井が盛大にぶち破られた。
コンクリートの破片と砂煙が激しく舞い散り、崩れ落ちた瓦礫の上に、ひとりの影が降り立つ。
「……咲良さんは、ここですね」
学生服を優雅に翻し、冷ややかな瞳を光らせたヴァイスがそこにいた。
咲良は驚きと、小さく安堵の声を漏らす。
「ヴァイス!」
ヴァイスはふっと不敵な笑みを浮かべ、その手元に蒼く燃え盛る魔炎を宿した。
「我がリオ様の青春の1ページを汚す行為は、断じて許しません」
「……リオは?」
「リオ様もいらっしゃておりますが……」
咲良が怪訝に思いながら辺りを見渡すと、なんと地下室の隅で、
リオは執筆中の葵の背後にぴったりと張り付いていた。まるでベテランの鬼編集者のようなオーラを纏いながら。
「おい葵。そこの主人公の描写だが、もっとこう絶望感を感じる筆致で描かんか? 読者が置いてけぼりだぞ。ほら、こうして……」
「ハゲ!! 勝手に赤入れんじゃねーーっ!!!」
葵が血走った目で絶叫する。
地下室の修羅場という緊迫した極限状態が、一瞬にして音を立ててシュールな空間へと塗り替わっていった。
原稿を死守せんと血眼でペンを走らせる葵と、なぜかその横で的確なダメ出しをする編集者のようなリオ。
あまりのシュールすぎる光景に、細手手長を取り込んだ優衣ですら、わずかに動きを止めてフリーズしている。
「……あの。私って今、優衣に捕まって大ピンチなんだけど!?」
咲良が冷ややかなツッコミを入れると、ヴァイスは冷ややかな目を細め、首をコキリと鳴らした。
「リオ様は今、文化事業でお忙しいのでね。ここは私めがご対応しましょう」
「なっ……なんだ貴様らは!! 優衣やれー!!!」
中央で数珠を構えていた僧侶が、影見坊の報告にあった「人ならざる者」の乱入に、青ざめた顔で一歩後ろに下がる。
『……邪魔するな……』
優衣の喉から、異界の不気味な声が重なって響く。
細手手長の無数の腕が一斉に鞭のようにしなり、ヴァイスめがけて殺意の奔流となって突き進んだ。
「ヴァイス!!」
咲良が思わず声を上げる。
「ご安心くださいませ」
ヴァイスは飛来する呪腕をまるで優雅なダンスでも踊るかのように華麗にかわし、
その手際よく一瞬ですべてを完璧な「蝶々結び」にくくってしまった。
「なっ……バカな!? 細手手長の呪腕を一瞬で……!?」
僧侶が目を剥き、冷や汗をダラダラと流しながら後ずさる。
『が、がぁ……!? 動けない、解けない……ッ!?』
優衣の口から悔恨の唸り声が漏れる。
「所詮、妖の力を借りたところで中身は人間。我が主の時間を邪魔した罪、その体でたっぷり反省するがいい」
だが次の瞬間、縛られた優衣の背後から、細手手長の本体であるさらに巨大でドロドロとした黒い影が、ブワッと不気味に膨れ上がった。
「ヴァイス、やめて!!! 無理やり引き剥がしたりしたら、優衣まで消滅しちゃう……!」
咲良の脳裏に、かつて女郎蜘蛛を取り込んだ僧侶が砂塵と化した悪夢がよみがえる。
優衣も同じように、二度と戻れなくなってしまうかもしれない。
その時だった。葵の原稿用紙に赤を入れていたリオが、やれやれといった様子でふっとため息をついた。
「まったく……」
バサリ、と学生服を翻し、リオがゆっくりと振り返る。
その黄金色の瞳が、周囲の空気を凍てつかせるほどの凄まじい「竜の威圧」を放った。
「待て、ヴァイス。力任せに焼き払えば、咲良の友人である優衣の魂まで消失してしまう」
「はっ! では、いかに?」
リオは不敵な笑みを浮かべ、懐からスッと「あるモノ」を取り出した。
それは――先ほどまで彼がポケットに忍ばせいていた、ドラッグストアの特売品だった「強力消臭・空間浄化スプレー(北欧の香り)」だった。
「……絶対なんの役にも立たないでしょ!!」
咲良の絶叫のようなツッコミが、緊迫した(はずの)地下室に虚しく響き渡る。
「咲良よ、案ずるな。これはただの消臭スプレーではない。ドラゴニア王国の秘薬をベースに、
人間界の『微香空間』の技術を融合させた、至高の邪気払いトニックだ」
リオはあくまですまし顔でスプレーのノズルを構え、
蝶々結びにされた細手手長と優衣に向けて、迷いなくプシューッと盛大に噴射した。
「いざ、北欧の香りのマイナスイオンで、魂のデトックスを受けるがいい!」
シュシュシュッ!!
と、爽やかすぎる北欧の洗練された香りが、地下室のドロドロとしたおどろおどろしい瘴気と混ざり合い、なんとも形容しがたいカオスな空間を作り上げていく。
『ぐああああっ……!? なんだこの香りは……!? 北欧の洗練されたフレグランスが、邪念の肺腑に染み入る……っ! 浄化される……っ! 私の闇が、おしゃれな北欧の香りでリフレッシュされていくぅーーっ!? ミナペルゥウウううーーっ!!』
優衣の背後から這い出ていた細手手長の呪腕が、あまりの爽やかさと圧倒的マイナスイオンに耐えきれず、
まるで消しゴムのカスのようにボロボロと粒子状になって霧散していく。
「ば、馬鹿な……我が萬天会の奥義が、北欧の香りごときに……っ!?」
絶望の淵で僧侶が崩れ落ちるのを尻目に、優衣の身体からドロリとした邪気は完全に洗い流され、彼女の瞳にパッと本来の温かい光が戻ってきたのだった。
「ん……あれ……? 私、なんでこんなところで……ていうか、すごく爽やかな香り……」




