第15話 優衣の不安
それから数日後の事。
秋風が校庭のイチョウを大きく揺らし、乾いた落ち葉がグランドを走り抜ける放課後。
誰もいなくなった教室で、優衣が深刻そうな面持ちで咲良に切り出した。
「ねえ、咲良……最近、葵がおかしいんだ」
「葵が? ……そういえば、ここ最近ずっと上の空って感じだけど」
咲良が首をかしげる。
「でしょ? 授業中もずっと窓の外の虚空を見つめてるし、放課後もどこかにまっすぐ歩いて行っちゃうのよ。
私、『いよいよ推しのBLカップリングの妄想が限界突破してトリップしてんのかな』って思って声かけたんだけど、
そういう感じでもなくてさ……なんていうか、表情が全然ない人形みたいで」
(BLの妄想でトリップ……って、それはそれで普段の葵ならあり得そうだけど……)
咲良は内心でツッコミを入れつつも、友人のただならぬ様子に、九尾の狐としての本能的なざわめきを覚えていた。
人間が発するにしては、少し澱んだ「気」を感じる。
「……どうしたのか聞いてみた?」
「それが、話しかけても『私はもうすぐ清められるから……』とか、わけわかんない宗教じみたこと呟くだけでさ。
心配で昨日ちょっと後をつけようとしたんだけど、路地裏に入っていっちゃったんだ……。私、怖くてそれ以上行けなくて……」
「そっか…。なんかおかしいね」
「咲良お願い! 一緒にあの路地裏の先に何があるか来て!!」
優衣の必死な頼みに、咲良は力強く頷いた。
「もちろん! 葵が変なことになってたら嫌だもんね」
◇◇◇
放課後、優衣に連れられてやってきたのは、駅裏の古びた雑居ビルが立ち並ぶ、薄暗い路地裏だった。
「こ、ここだよ……。葵が曲がっていったのは、この奥の……」
優衣がびくびくしながら指さした先には、地下へと続く薄気味悪い階段があった。
階段の入り口からは、なにやら禍々しい線香の香りと、ぬめりつくような澱んだ空気が立ち込めている。
(……間違いない。妖力の気配がする……)
咲良は足をとめ、隣の優衣を振り返った。
「優衣。あなたは帰った方がいい」
「なんで!? 嫌だよ!! 葵は友達なんだよ!?」
涙で濡れた瞳を少し震わせながら、それでも逃げ出さずに咲良を真っ直ぐに見つめ返す優衣。
その眼差しには、恐怖を押し殺してでも友達を助けたいという、
痛いほどの強い意志が宿っていた。
ギュッと握りしめられた小さな拳が、かすかに震えている。
その真っ直ぐな友情を前に、咲良はそれ以上言葉を続けることができなかった。
(仕方ない……いざとなれば速攻で幻術を張って逃げよう)
咲良は九尾の気を密かに高め、警戒しながら慎重に薄暗い階段を下りていく。
突き当たりにある重厚な扉の隙間からは、低く低く響くおどろおどろしい読経の声が漏れ聞こえていた。
「っ……中からお経が聞こえる! 葵、清められるとか言ってたし変な宗教に……! 葵!!」
「優衣、待って!!」
不安と緊張が限界を迎えた優衣が、制止を聞かずに勢いよく扉を突き飛ばした。
室内に飛び込んだ二人が、一斉にその場で硬直する。
そこは紫煙が重く燻る怪しげな間であったが、中央の机に座っていたのは、血眼になって凄まじい勢いでペンを走らせる葵その人だった。
その傍らでは、黒い巨大な数珠を首にかけた怪しげな数人の僧侶が、仏のような笑みを浮かべて低く囁いている。
「……うむ。良いぞ、娘よ。その激しいパッションを、さらに濃厚な愛憎のドラマへと昇華させるのだ……」
当の葵はといえば、顔を真っ赤にし、ボタボタと汗を流しながら――男性同士が非常に濃厚に絡み合っている、
直視するのが恥ずかしいほど生々しいBLマンガの原稿を一心不乱に描き上げていた。
「な、なによこれ!!!」
咲良と優衣の悲鳴のような大声が重なった。
「なんですかあなた方は? 葵さんのご友人ですか?」
リーダーらしき僧侶が突然の乱入者に怪訝そうな顔を向け、淡々と声をかけてくる。
「そ、そうですけど……これ、一体なんですか!?」
優衣が叫ぶと、僧侶は深く頷き、至極真面目な顔で説明を始めた。
「葵さんは今週末のコミケの締め切りがあり、脱稿しないと死ぬから『欲望を吐き出して精神を清める』ために、
集中できるこの原稿執筆レンタルスペースを借りて籠もっておられます」
「だ、ただのガチ修羅場じゃねえかーーーっ!!!!」
優衣の渾身のツッコミが、怪しげな地下室に虚しく響き渡る。
葵がここ最近暗くぼーっとしていたのは、単に睡眠時間を限界まで削って原稿を描いていただけの、
ただの「極限状態の同人作家」の顔だったのだ。
「ちょっと! 紛らわしいことしないでよ! 私たち本気で心配したんだからね!」
安堵と呆れで肩を落とした優衣が、咲良に吐き捨てるように言った。
「いいよ咲良。もう帰ろう」
「……待って。やっぱり葵、おかしいよ。普通じゃない…」
咲良の冷ややかな声に、優衣が振り返る。
葵は二人の声など耳に入っていないかのように、一瞥もくれず原稿に向かい続けていた。
握りしめたペン先からは血が滲み、開かれた両目は血走り、異常な光を放っている。
脱稿間近の同人作家の錯乱を差し引いても、明らかに正常な人間の精神状態ではなかった。
(……この空間全体に満ちている妖気が、葵の感情を暴走させている……!)
確信した咲良が、意を決して九尾の妖気を一気に解放しようとした——その瞬間。
解き放たれかけた妖気の根源を、何者かが後ろからガチリと強く握りつぶした。
「えっ……!?」
妖力が霧散し、息を呑んで振り向いた咲良の視界に飛び込んできたのは。
狂気すら感じさせるほどの満面の笑みを浮かべた、優衣の姿だった。
「咲良ちゃん、捕〜まえたっ♪」




