第12話: 皆にとっての大切な『家』
屋敷は、再び静けさに包まれていた。
戦略や緊張の静寂ではない。ただ、『家』になる術を学んだ場所特有の、やわらかで奇妙な静けさだった。
廊下には、かすかにラベンダーと油の香りが漂っている。
窓からは、昇り始めた月の青白い光が差し込んでいた。
サロンの一室。大人用の肘掛け椅子に、まるで沈みこむように小さな身体を預けて、エレインが膝を抱えて座っていた。
彼女は泣いていなかった。
もう、泣いていなかった。
涙は何日も前に枯れた。ヴィオレッタとオルフェミがあの屋敷を打ち壊し、鎖から彼女を救い出した時から。
けれど、心の傷に涙は必須ではない。沈黙の中に潜み、小さな肩にずっと重く乗りかかるもの。幸せを信じられない目に、静かに巣食うもの。
オルフェミは、それに気づいていた。
通りがかったとき、彼はエレインの姿を見つけた。
ヴィオレッタのおさがりの絹のナイトガウンに身を包み、白い脚を胸元まで引き寄せて、誰もいない暖炉をじっと見つめていた。
彼は部屋に足を踏み入れた。彼女は動じなかった。
「もう寝る時間だろう」
彼はやさしく声をかけた。
「うん……わかってる」
彼はしばし黙り、近くのオットマンに腰を下ろした。
膝の上には黒曜石のシミター――まるで羊飼いの杖のように横たえて。
「昔ね……パパがいたの」
エレインが、遠い記憶をなぞるように言った。
「背が高くて……あなたほどじゃないけど、力持ちだった。肩車してくれたの。小さい頃......」
オルフェミは何も言わず、ただ聞いていた。
「でも屋敷を失って、借金取りが来て、使用人たちが去って……ママはずっと泣いてた。そしてある日――」
彼女は喉を詰まらせた。
「『この人たちと一緒に行くのよ』って。家の名を守るため。借金返済のため……。まるで、銀食器みたいに扱われたの......」
オルフェミの顎が僅かに動いた。
沈黙の裏に、怒りの焔が揺れていた。
エレインは少しだけ顔を向け、か細く、それでいて真っ直ぐな声で言った。
「……ねぇ、パパがほしいって、ダメなことかな...?」
その問いは、思っていたよりも深く彼の胸を貫いた。
彼女は彼を見上げていた。大きな瞳に、痛みと希望が混ざった色を湛えて。
「本当の娘じゃないのは、わかってる。変な子だし、怖がりだし、うるさいし……でも、あなたが私を抱えて逃がしてくれて、悪い人たちを倒して、マントをかけてくれた時――思ったの。『私、別の誰かになれるかもしれない』って。もっと……ちゃんとした私に...」
オルフェミは剣を脇に置いた。
そして、ゆっくりと両腕を広げた。
エレインは迷わなかった。
彼の胸に飛び込み、震えながら――堰を切ったように、積み重ねてきた想いが溢れ出した。
「ひっく~!うわああああああ―――――――――――――――――――!!!」
彼の腕は強く、だが優しく、泣きじゃくる彼女を包み込んだ。壊さない。守るための抱擁だった。
「俺はお前の父親じゃない」
彼は低く、静かに言った。
「けど、お前を守れる者の一員にはなれる」
エレインの号泣が詰まった。
「祖国では爵位を貰ったことあるが、ここの国では俺は貴族の身分じゃない。ここの宮廷の駆け引きも知らん。ただ――子供が幽霊のように生きる姿は、もう何度も見てきた。お前より小さな娘が、鎖の下で潰されていくのを、俺は見た。……もう二度と、そんなことはさせない。...国ごと燃やしてでもな」
エレインは彼の胸で泣いていたところを徐々に落ち着かせていく。でもさっきの涙は、癒しの始まりだった。
「ぐす、ひっく~!ここにいたい……」
彼女は囁いた。
「あなたと、ヴィオレッタさんと……怖いシスターと、ひっく~!毒のじいちゃんと一緒に~!」
「そうか......それならいつでも歓迎だぞ、ははは」
オルフェミは笑った。
「……なんとかなるさ、いつでも...」
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長い沈黙のあと、彼女は顔を上げて尋ねた。
「……時々だけ、『パパ』って呼んでもいい~?」
オルフェミは微笑んだ。
「その代わり、俺のシミターを磨くの手伝えよ」
「ー!」
廊下の奥、ヴィオレッタは手を胸に当てながら、そっとその様子を見守っていた。
今回は――口を挟まなかった。
けれど、その強く複雑な心が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
この屋敷はもう、ただの反乱者たちの隠れ家ではない。
それは――「家」だった。
皆にとっての。『悪白女』が主導。
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