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第9話 動き出す計画

 完璧なアルデンテを堪能し、心も胃袋も満たされた千蔵屋ちくらや穂波ほなみがトラットリア「ルーチェ」の重厚な扉を開けて外に出ると、休日の穏やかな陽射しが眩しく目を射た。


「あれ、穂波ん?」


 声に振り返ると、そこには両手に買い物袋を提げた結城ゆうきみなとが立っていた。藍色の作務衣姿ではなく、ゆったりとした休日のカーディガンを羽織っている。袋からは立派な長ネギや瑞々しい大根が覗いていた。


「あら、湊。買い出し?」

「うん、明日の仕込みの野菜をね。穂波さんこそ、休みなのにこんなところでどうしたの? まさか、涼真の店に……?」


 湊の温厚なタレ目が、スッと鋭さを帯びる。その後ろから、涼真が余裕の笑みを浮かべて姿を現した。


「やあ、湊。彼女は今日、私の大切なVIP客として招待したんだ。最高のマンテカトゥーラで、彼女の味覚を心ゆくまで満たしてあげたところさ」


 涼真の挑発的な言葉に、湊は眉をひそめて穂波に視線を向けた。


「穂波さん……休みの日くらい、胃を休めなきゃ駄目じゃないか。うちに来てくれれば、消化に良くて最高に美味しいうどんを打ってあげたのに」

「ごめんね、湊。でも、涼真のパスタ、すごく美味しくて……もうお腹いっぱいなの」


 穂波が苦笑いしながら腹部をさすると、湊はあからさまに悔しそうな顔をした。


「だいたい、小麦以外の混ぜ物がある麺のなにがいいんだ。卵だのオリーブオイルだの……純粋な粉の風味を誤魔化しているだけじゃないか」


 湊が冷たい声で涼真を挑発する。うどんという「小麦と水と塩」のみで勝負する職人としての、絶対的なプライドからの言葉だった。

 しかし、涼真は動じることなく、知的な銀縁の眼鏡を中指でクイッと押し上げた。


「ふっ……うどんも君も、相変わらず単細胞だな。パスタという高尚な味を君にも知ってほしいよ」


 涼真が冷笑しながら湊の方へチラリと視線を流す。


 言葉ではバチバチと火花を散らしながらも、二人の間にはどこか心地よい緊張感があった。料理のアプローチは違えど、互いがどれほど粉に対して真剣に向き合っているかを、誰よりも理解し合っているからだ。


「まあいい。次は絶対に僕のうどんで満たしてあげるからね、穂波さん」

「無駄な努力だ。彼女の味覚はすでに私が支配した」


 両サイドからの重すぎる愛の集中砲火に、穂波は「もう、お腹いっぱいだってば……」と、赤い顔で困ったように笑うしかなかった。


 +++


 数日後の夜。

 手打ちうどん「みなと亭」の営業終了後、客の引いた小上がり席に、和洋中の三人の料理人と穂波が車座になって集まっていた。

 テーブルの中央には、何冊もの分厚い農業専門書と、気象庁の過去数十年分の気象データ、そして一枚の完璧にタイピングされたスケジュール表が広げられている。


「さて、これが幻の小麦『黄金雪おうごんゆき』を復活させるための、マスタープランだ」


 純白のコックコートを着たままの涼真が、手にしたタブレット端末を操作しながら冷徹な声で告げた。


「発芽のタイミング、日照時間の計算、そして降水量のリスク管理。すべての変数を考慮し、最も成功確率の高い論理的なスケジュールを構築した」


 涼真の緻密すぎる資料に、穂波は感嘆の声を漏らす。


「すごいわ、涼真……。これなら、あの気難しい黄金雪でも無事に発芽させられるかもしれない」


 穂波の称賛に、涼真は口角をわずかに上げた。そして、腕組みをしてつまらなそうにしている凱へ、わざとらしく視線を向ける。


「凱、君が勢いだけで借りてきた休耕地の土壌データを分析した結果も組み込んである。君の野蛮な行動力も、私のこの完璧な計算がなければ無用の長物だったね」

「んだと、このすかし野郎! 俺が山倉のオヤジに頭下げて土地引っ張ってこなかったら、そもそも始まらねぇだろうが!」


 凱が立ち上がり、涼真の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。


「はいはい、そこまで。内輪揉めしている暇はないよ」


 湊が大きな手で凱の腕をふわりと制し、なだめるように間に入った。


「涼真の論理的な計算と、凱の行動力。どちらも欠かせないものだ。そして、毎日の気温と湿度の変化を見極めて、土の状態を肌で管理するのは、僕の得意分野だからね」


 湊が温厚なタレ目を細め、力強く宣言する。

 緻密な頭脳、圧倒的な突破力、そして揺るぎない包容力。ベクトルは違えど、彼らが持つすべての才能が、今、一つの目的に向かって結集しようとしていた。


「みんな……本当にありがとう。私一人の力じゃ、絶対に無理だった」


 穂波は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 幼い頃、アレルギーで絶望していた自分を救ってくれた三人の少年たち。大人になった彼らは今、再び泥だらけになって、彼女の途方もない夢を叶えようとしてくれている。


「お前の夢は、俺たちの夢だ。絶対に、世界一の粉を挽かせてやる」

 凱がヤンチャな笑顔で親指を立てる。


「僕らがついているからね、穂波さん。何があっても支えるよ」

 湊が優しい手つきで穂波の頭を撫でる。


「私の計算に狂いはない。君は安心して、私にすべてを委ねればいい」

 涼真が艶のある声で囁き、知的な笑みを浮かべる。


 絵神原通りの小さなうどん屋の片隅で、四人の手が固く重ねられた。

 かつて歴史から姿を消した幻の小麦、黄金雪。その奇跡の復活に向けた四人の極秘プロジェクトが、今、本格的に幕を開けたのだった。

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