第10話 泥だらけの同志
数日後。
手打ちうどん「みなと亭」の裏庭。結城湊が用意した真新しいプランターの前にしゃがみ込み、千蔵屋穂波は静かに息を吐き出した。
「駄目だったか……」
土を優しく掘り返すと、休眠打破の処置を施したはずの「黄金雪」の種もみは、発芽することなく黒く変色し、腐ってしまっていた。
「穂波ん、落ち込まないで。僕の温度管理が甘かったのかもしれない」
湊がタレ目がちな目を伏せ、大きな手で穂波の背中を優しく撫でる。しかし、穂波は首を横に振って立ち上がった。その瞳から落胆の色は消え、絶対的な感覚を持つ調合師としての鋭い光が宿っている。
「ううん、湊の管理は完璧だった。問題は土よ。この気難しい粉を育てるには、もっと根本的なアプローチが必要だわ」
穂波は製粉所の自室に戻ると、すぐに電話の受話器を取った。ダイヤルを回した先は、千蔵屋と長年取引がある地元のベテラン小麦農家、吉川だ。
『おお、穂波ちゃんか! 珍しいな、製粉所の方から電話なんて。粉まみれで走り回ってたお転婆娘が、すっかり一人前の調合師になりおって』
電話口から響く豪快な笑い声に、穂波も思わず頬を緩める。
「吉川さん、ご無沙汰してます。今日は製粉じゃなくて、栽培のことで相談があって……実は、すごく古い硬質小麦を育てようとしてるんです」
『ほう? そりゃまた厄介なもんに手を出したな。昔の品種は茎が細くて倒れやすいし、水はけが命だぞ』
吉川は子供の頃から穂波を知っているため、製粉所の跡取り娘が突拍子もないことを言い出しても面白がり、快く知識を分けてくれた。
『いいか、土にはたっぷり空気を含ませろ。それから、根を強く張らせるためにリン酸を少し多めに配合した肥料を使うといい。分からないことがあったらいつでも聞きに来な』
「ありがとうございます、吉川さん!」
通話を終えた穂波は、涼真が作成した緻密な気象データと、湊がつけていたプランターの観察日記、そして吉川からの助言を机いっぱいに広げた。
「水はけの良さと、根を張らせるための土壌改良……」
そこからは、徹夜の勉強と作業だった。数々の農業文献を読み漁り、凱が借りてきた休耕地の土壌成分を徹底的に分析し、最適な特製肥料の配合をミリ単位の計算で導き出していく。気難しい幻の小麦を何としても発芽させるという、彼女の職人としての執念が静かに燃え上がっていた。
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数日後。三店舗の定休日が重なった日の朝。
凱が強引に借りてきた郊外の休耕地は、長年放置されていたせいで石が転がり、雑草が生い茂る荒れ地だった。しかし、そこには泥にまみれながらも凄まじい勢いで開墾を進める三人の男たちの姿があった。
「おらあっ! この石ころめ、邪魔だ邪魔だ!」
黒いTシャツ姿の伊乃草凱が、持ち前の腕力と野性味で、畑に埋まった重い石を次々と引き抜いては放り投げていく。
「野蛮な男だ。だが、その無駄な体力だけは評価してやろう。私は最も効率的なルートを計算した。湊、肥料のすき込みは頼んだよ」
普段は純白のコックコートを着こなす浦涼真も、今日は動きやすい黒のワークパンツ姿だ。泥で服が汚れることに眉をひそめつつも、インテリジェンスを駆使して的確に指示を飛ばしている。
「言われなくても分かってるさ。穂波んが徹夜で作ってくれた特別な肥料だ、ひとすくいのムダもなく均等に混ぜ込んでみせる」
作務衣の袖をまくり上げた湊は、特有の丁寧さと包容力で、トラクターの入れない隅の土まで鍬を使って優しく耕していく。
小柄で華奢な穂波に過酷な力仕事をさせまいと、三人は結託して開墾のすべてを引き受けていたのだ。口では「俺の働きが一番だ」とマウントを取り合いながらも、幼馴染という強固な絆を持つ彼らの作業は、阿吽の呼吸で進んでいった。
昼前。穂波が差し入れを取りに一時離席したタイミングで、三人は泥だらけの土の上に大の字になって寝転がった。
「……はぁ。休みの日に泥まみれで畑仕事とか、俺たちも相当麦バカだな」
凱が額の汗を乱暴に拭いながら、呆れたように空を見上げる。
「ふっ。エリートであるこの私が、まさか土に這いつくばる日が来るとはね。……まあ、彼女のあの笑顔のためなら悪くない」
涼真が泥のついた手で眼鏡を押し上げながら、口角をわずかに上げた。
「本当だよ。でも、抜け駆けは絶対に許さないからね、二人とも」
湊がタレ目を鋭く光らせて釘を刺すと、三人は顔を見合わせ、泥だらけの同志として低い笑い声を漏らした。
「みんなー! お疲れ様!」
そこへ、大きなバスケットを抱えた穂波が戻ってきた。中には、炊きたてのご飯で作った手作りのおにぎりと、よく冷えたお茶がたっぷり入っている。
起き上がった三人の姿を見た穂波は、ふと目を瞬かせた。
「凱、ほっぺたに泥がついてるよ」
穂波は無自覚に近づくと、首にかけていた自分のタオルで、凱の頬の泥を無防備に拭き取った。さらに、隣にいた湊の作務衣の胸元の乱れをスッと直してあげる。
「ちょっ、穂波……っ」
「ほ、穂波ん……」
普段は余裕ぶって過剰なスキンシップを仕掛けてくる男たちだが、想い人からの不意打ちの接触には免疫がない。凱は顔を真っ赤にして固まり、湊も動揺して視線を泳がせた。涼真だけが「私にはないのか」と不満げに目を細めている。
気を取り直して、三人は泥を落とした手でおにぎりを頬張った。
「うまっ! なんだこれ、塩加減が絶妙で疲れた体に沁みる!」
「気合が入るぜ! やっぱり穂波の握った米は甘みが全然違うな」
「具材とのマリアージュも完璧だ。素晴らしいよ、穂波さん」
和洋中の麺職人であり、誰よりも小麦を愛する「小麦料理至上主義」の三人だが、穂波が握ったおにぎりだけは完全に別格だった。子供のように競い合って食べる姿に、穂波は「みんな、褒めすぎだよ」と照れて赤面する。
嬉しそうにおにぎりを平らげる三人を見て、穂波はふと懐かしそうに目を細めた。
「みんな麺職人なのに、お米もこんなに美味しそうに食べてくれて嬉しいな」
その言葉に、凱がニッと笑う。
「そりゃそうさ。昔、お前が小麦アレルギーで食べられなかった時期、俺たちも意地張って毎日米ばっか食ってたの思い出すな」
湊が優しい声で続けると、穂波の胸に少しだけ切なく、けれど温かい記憶が蘇る。大好きな小麦を食べられず絶望していた自分を救うため、彼らが様々な優しさをみせてくれたあの日。
今はアレルギーも治り、こうして彼らと一緒に幻の小麦を育てようとしている。
「……うん。あの時は、本当にありがとう」
幸せそうに微笑む穂波の背後には、彼らの手によって綺麗に耕され、肥料がたっぷりと馴染んだ広大な畑が広がっていた。夕日を浴びる土の匂いを深く吸い込み、彼女は「絶対に黄金雪を復活させる」という祈りにも似た決意を固く抱いたのだった。




