第8話 至高のパスタ
絵神原通りのアーケードに、穏やかな休日の陽射しが差し込んでいる。
多くの店がシャッターを開け、買い物客で賑わい始める中、トラットリア「ルーチェ」のガラス扉には『CLOSED』の札が掛けられていた。
千蔵屋穂波は、その扉の前に立ち、少しだけ躊躇うように息を吐いた。今日は店の定休日のはずだが、昨日、浦涼真から「君にだけ味わってほしい新作がある。休日の昼に店へ来てくれないか」と誘われていたのだ。
そっと扉を押し開けると、カランと上品なベルの音が鳴る。
薄暗い店内に足を踏み入れた瞬間、ふわりとオリーブオイルとニンニクの食欲をそそる香りが漂ってきた。
「いらっしゃい、穂波さん。待っていたよ」
店の奥から現れた涼真は、いつものようにパリッとした糊の効いた純白のコックコートを完璧に着こなしていた。知的な銀縁の眼鏡の奥で、切れ長の目が優しく細められる。
「来たよ、涼真。新作のパスタって……」
「ああ。君が挽いてくれたセモリナ粉のポテンシャルを、ついに最高点まで引き出す最適解を見つけたんだ」
涼真は滑らかな足取りで穂波に近づくと、ごく自然な動作で彼女の華奢な手を取った。そして、そのまま店の奥深く、彼自身の聖域である厨房へと彼女を導いた。
「えっ、ちょっと涼真? 客席はあっちじゃ……」
「今日は、君をただ座らせて待たせるつもりはないんだ」
涼真の引き締まった背中について厨房に入ると、そこは塵一つ落ちていないほど磨き上げられた銀色の空間だった。
彼は穂波の手を離さず、調理台のすぐ横、自分の息遣いすら聞こえるほどの至近距離に彼女を立たせた。
「ここは、君のための特等席だ。今日は私の魔法の種明かしを、一番近くで見てほしくてね」
涼真の低く艶のある声が、密室となった店内に響く。他の客は誰もいない。湊や凱の横やりも入らない、二人きりの空間だ。
涼真は振り返り、穂波を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、普段の冷徹なエリートの顔からは想像もつかないほど、どろりとした重い熱が宿っていた。
「こうして扉を閉めてしまえば、誰も僕たちの邪魔はできない。……君を思って作る私の姿をよく見ていて」
「えっ……?」
あまりにも甘く、執着に満ちた囁き。穂波の心臓がドクリと大きく跳ねる。しかし、恋愛に対して極度に鈍感な彼女の脳は、その言葉をすぐさま「粉への究極の愛と、料理人としての独占欲」に変換してしまった。
「そ、そこまでうちの粉を気に入ってくれて嬉しいわ。……でも、早くその新作とやらを見せてよ」
「ふっ、君のそういう鈍感なところも嫌いじゃない」
涼真は余裕の笑みを浮かべると、ついに火を点けた。
フライパンの上で、良質なオリーブオイルがニンニクの香りを引き出していく。同時に、隣のコンロでは、千蔵屋の最高級小麦を使ったパスタが茹でられていた。
「見ていてくれ。千蔵屋の小麦が持つグルテンの性質を最大限に引き出すため、ソースの温度は常に六十五度を保つ」
涼真の手つきは、まるでオーケストラの指揮者のように洗練され、一切の無駄がなかった。
茹で上がったばかりのパスタをフライパンに投入すると、彼は絶妙なタイミングで茹で汁を加えた。フライパンをリズミカルに煽る。オリーブオイルの油分と、小麦のデンプンが溶け出した茹で汁が激しくぶつかり合い、やがて白濁したとろみのあるソースへと変化していく。
「これが『マンテカトゥーラ』……乳化の技術だ」
涼真が囁きながら、穂波の背後にそっと回り込む。
背後からすっぽりと包み込まれるような形になり、彼の高い体温と、ふわりと香るオーデコロンの匂いが穂波の感覚を狂わせる。耳のすぐそばで、涼真の吐息が熱く触れた。
「水と油という相反するものを、私の技術で完璧に結びつける。……まるで、君と私のようだろう?」
「りょ、涼真、近すぎるってば……っ」
「君の味覚を、私の料理で完全に書き換えてしまいたい。君の細胞の隅々まで、私の計算で満たして支配したいんだ。他の男の入る隙間なんて一ミリも与えないくらいにね」
その言葉は、パスタの芳醇な香りよりもさらに濃密で、逃げ場のない甘い罠のようだった。穂波は顔を真っ赤に染めながら、ただフライパンの中で完璧に仕上がっていく黄金色のパスタを見つめることしかできなかった。
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「さあ、完成だ」
涼真は鮮やかな手つきでパスタを皿に高く盛り付けると、そのまま穂波を客席へと促した。
静まり返ったフロアの中央、一番見晴らしの良いテーブル。涼真は流れるような動作で椅子を引き、彼女を女王様のように艶っぽくエスコートして座らせる。
目の前に置かれた一皿は、ソースが一本一本の麺に完璧に絡みつき、まるで芸術品のように輝いていた。
「召し上がれ、私のプリンセス」
穂波がフォークを手に取り、パスタを一口頬張る。
その瞬間、彼女は大きく目を見開いた。
完璧なアルデンテ。中心に残る芯の歯ごたえが、噛むたびに千蔵屋の粉の甘みを爆発させる。そして、乳化したソースがその旨味を逃さず舌の上に留め、極上の風味を口内いっぱいに広げていく。
「……美味しい! 粉の旨味が、一滴も逃げずに凝縮されてる!」
穂波が歓喜の声を上げると、向かいの席に座った涼真は、頬杖をつきながらその様子をじっと見つめていた。
自分が作った料理によって、愛する幼馴染の顔が綻び、幸せに満たされていく。その事実を一つ残らず目に焼き付けるかのように、彼の視線は瞬きすら忘れたかのように熱を帯びている。
「あの……涼真。そんなに見つめられていると、ちょっと食べづらいんだけど……」
あまりの熱視線に、穂波がフォークを止めて照れ隠しに苦笑する。
しかし、涼真は視線を外すことなく、薄い唇に満足げな笑みを浮かべた。
「気にしないで。穂波さんが私の計算通りに料理で満たされ、味覚を支配されていく姿を見るのが……今の私にとって、何よりの至福なんだから」
甘く危険な響きを帯びたエリート料理人の言葉に、穂波は言い返す言葉を見つけられず、ただ赤くなった顔を隠すように、再び極上のパスタへと口づけた。




