第7話 蚊帳の外
手打ちうどん「みなと亭」の裏手にある小さな休憩スペース。
穂波の先導でやってきた伊乃草凱と浦涼真の視線の先には、仕込みの合間にプランターの土を真剣な顔で確認する結城湊の姿があった。
「湊、連れてきたよ」
「おや、またいつものメンバーが集まった。いらっしゃい」
温厚なタレ目を細めて微笑む湊の足元には、黒々とした土が盛られた真新しいプランターが並んでいる。不思議そうに眉をひそめる凱と涼真に対し、穂波は瞳をキラキラと輝かせながら口を開いた。
「実はね、うちの古い蔵の奥で『黄金雪』の種もみを見つけたの!」
「黄金雪……? まさか、昭和で絶滅したって言われてる、あの幻の硬質小麦か!?」
涼真が驚きに銀縁眼鏡をずり落ちそうにさせる。凱もまた、料理人としての勘が激しく刺激され、息を呑んだ。
「そう! それでね、湊の裏庭の場所を少し借りて、休眠打破の実験をしてたの。無事に栽培できたら、みんなの店でもこの粉を使って最高の麺を打ってほしいなと思って……」
穂波は無邪気に笑った。彼女としては、決して凱や涼真に隠し事をしていたわけではなかった。日当たりや水やりの管理を考えた時、製粉所から近くて裏庭がある湊の店が、最もプランターを置きやすかっただけなのだ。純粋に、うまくいったら幼馴染全員でこの奇跡を分かち合いたいと願っていた。
しかし、その事実を知った凱の反応は、穂波の予想とは全く異なるものだった。
「……はっ。なんでお前ら二人だけで、そんな面白ぇことやってんだよ」
「えっ、凱?」
「俺だけ完全に蚊帳の外じゃねぇか。お前らだけでコソコソやりやがって!」
凱はあからさまに不機嫌な顔になり、舌打ちをした。彼にとって許せなかったのは、穂波が自分の知らないところで、湊とだけ秘密を共有し、二人きりで大切な作業を進めていたという事実だ。持ち前の独占欲と、不器用な大型犬気質が完全に裏目に出てしまった。
「待って凱、そういう意味じゃなくて……!」
穂波が止める間もなく、凱は踵を返し、苛立ちに任せて乱暴な足取りで裏庭を飛び出していってしまった。
残された穂波はオロオロと視線を彷徨わせ、涼真は「相変わらず単細胞な男だ」と冷ややかに肩をすくめた。
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絵神原町の郊外へと続く田園道路を、重低音の排気音を響かせながら一台のバイクが疾走していた。
黒のライダースジャケットを風になびかせ、ハンドルを握る凱の顔には、先ほどの苛立ちとは違う、焦燥にも似た熱が浮かんでいた。
湊の店を飛び出したものの、彼の脳裏から穂波のキラキラとした笑顔と、「黄金雪」という魅惑的な響きが離れなかった。
「……幻の小麦。あの粉がもし本物なら、俺の極濃スープと合わせりゃ、とんでもねぇ化け物ラーメンが生まれるじゃねぇか」
ヘルメットの中で、凱はニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。プランターの実験をラーメン屋の凱に見つかり、最初は隠し事をされたと機嫌を損ねた凱だったが、その計画の全貌を知った彼の心は、すでにそれを使ったラーメンを想像して胸が大きく弾んでいたのだ。
「だいたい、あんな小せぇプランターで何が出来るってんだ。穂波の夢を叶えるなら、もっとデカくやらねぇと意味がねぇ!」
凱が愛車を走らせて向かったのは、彼の店にいつも新鮮なネギを卸してくれている地元農家、山倉の家だった。
けたたましいエンジン音と共に庭先に乗り付けると、縁側で茶を飲んでいた頑固オヤジの山倉が目を丸くする。
「おう凱! 今日は仕入れの予定は無いだろ」
「オヤジ! 裏山の近くに、しばらく使ってねぇ小さな休耕地があったよな! あそこを俺に貸してくれ!」
「はあ? あんな荒れ地、素人が急に何言ってやがる」
「穂波が……千蔵屋の穂波が、すげぇ小麦を育てたいって言ってんだ! 俺があいつの粉を世界一の麺にしてやる。そのためには、あの土地がどうしても必要なんだよ!」
凱はバイクから降りるなり、山倉の前に土下座まがいの勢いで頭を下げた。彼の行動の原動力は、昔からただ一つ。小麦に夢中のプリンセスである穂波を、世界一の笑顔にすることだ。
その真っ直ぐすぎる熱意と、圧倒的な気迫。しばらく呆気にとられていた山倉だったが、やがて「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「……千蔵屋の娘っ子の頼みじゃ、無下にはできねぇな。いいだろう、勝手に使え」
「マジか! 恩に着るぜ、オヤジ!」
凱は弾かれたように顔を上げると、地元の農家から小さな休耕地を強引に借り受けるというミッションを、見事にその行動力だけで完遂してみせたのだった。
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「みなと亭」の裏庭では、あれから一時間が経過しても、穂波が落ち込んだままプランターの前にしゃがみ込んでいた。
「私が不用意だったのかな……凱、怒っちゃった」
「気にすることはないさ、穂波さん。あの野蛮人はすぐに頭を冷やして戻ってくる」
「そうだよ、穂波ん。お茶でも飲んで――」
湊が慰めようとしたその時、路地裏にけたたましいバイクの排気音が響き渡り、急ブレーキの音と共に凱が姿を現した。
「おい穂波! お前ら!」
息を切らし、しかし満面のドヤ顔で仁王立ちする凱に、三人は目を白黒させる。
「凱……? まだ怒って……」
「山倉のオヤジのところの休耕地、借りてきたぞ!」
「……えっ!?」
「そんなちまちましたプランターじゃラチがあかねぇだろ! でっかい畑で、その『黄金雪』ってやつをドカンと育てようぜ!」
あまりにも予想外のスケールアップに、穂波はポカンと口を開け、やがてその目にみるみると嬉し涙を浮かべた。
「凱……! ありがとう、本当にありがとう!」
「へっ、俺にかかればこんなもん余裕だぜ」
鼻の下を擦って照れ隠しをする凱の横で、プランターの土作りに数日を費やしていた湊は、静かに自分の白い前掛けの紐をきゅっと締め直した。
そして、敗北感と少しの感心を入り交じらせたオカン顔で、深くため息をつく。
「……君のその野蛮な行動力が、役に立つ日が来るとはね」
「あぁ? なんだと湊、羨ましいのか?」
「ふん、単細胞の脳筋プレイもたまには役に立つということか。仕方ない、土壌の成分分析とスケジュール管理は、この私が完璧に計算してやろう」
「お前も一言多いんだよ、涼真!」
再び始まった小学生レベルの口喧嘩。しかし、先ほどまでのギスギスした空気はそこにはなく、強固な同志としての絆が確かに通い合っていた。
こうして、和洋中の最強職人たちと製粉所の跡取り娘による、幻の小麦復活に向けた極秘プロジェクトは、凱の暴走をきっかけに本格的な始動を迎えたのだった。




