第6話 最高のスープ
黄金雪のテスト栽培が始まって数日が経った。
過労で倒れたことが嘘のようにすっかり体調を取り戻した千蔵屋穂波は、いつもの作業着と丈夫なエプロン姿で、今日も元気に絵神原通りを駆け回っていた。
この日の配達先は、伊乃草凱が店主を務める麺処「獣王」だ。彼が指定してきたのは、極濃の豚骨スープに負けないよう、灰分を少し残して風味を極限まで引き上げた特注の小麦粉。二十キロもある重い粉袋を台車に乗せ、穂波は店の勝手口へと向かった。
一方、その少し前。「獣王」の厨房では、凱が巨大な寸胴鍋の前で鋭い目つきを光らせていた。
荒々しく頭に巻いたタオル。黒のTシャツから覗くたくましい腕の筋肉には、薄っすらと汗がにじんでいる。グツグツと煮立つ黄金色の豚骨スープは、彼の情熱そのもののように熱気を放っていた。
ふと、小さな窓越しに穂波の姿が近づいてくるのが見えた。小柄な体を一生懸命に使って、重い台車を押している。
その瞬間、凱の顔から「荒ぶる職人」の険しさが抜け落ちた。
「……よし、来たな」
彼は慌ててデジタル温度計を寸胴鍋に突っ込み、スープの温度をコンマ一単位で確認する。さらに、傍らに用意していた氷水の入ったボウルに無骨な指先を浸し、しっかりと冷やした。
凱は口元にニヤリと笑みを浮かべると、急いで勝手口の扉を開け放った。
「おう、遅ぇぞ穂波!」
「遅いって、まだ開店前じゃない。はい、これ頼まれてた分ね」
「そんなもんは後でいい! 来い!」
「えっ、ちょっと凱!?」
有無を言わさず、凱は穂波の華奢な腕をがっしりと掴むと、そのまま強引に厨房の奥へと引きずり込んだ。
まだ客のいない店内には、豚骨と醤油のガツンとくる濃厚な香りが充満している。戸惑う穂波の背中が、冷たいステンレス製の冷蔵庫にピタリと押し付けられた。
ドンッ、と鈍い音が響く。
穂波の顔のすぐ横、耳の数センチ横の壁に、凱の太い腕が突き立てられていた。
完全な壁ドン状態だ。身長差のせいで、穂波の視界は凱の分厚い胸板で完全に塞がれてしまった。彼から漂う仄かな男の汗と、熱いスープの匂いが混ざり合い、穂波の鼻腔をくすぐる。
逃げ場を失い、穂波は思わずギュッと目を瞑った。
「な、なによ……いきなり」
「開けろ」
「え?」
「口を開けろって言ってんだよ」
恐る恐る目を開けると、至近距離で凱が鋭く野性的な瞳でこちらを見下ろしていた。その手には、寸胴鍋からすくわれたばかりのスープが入った白いレンゲが握られている。湯気がゆらゆらと立ち上り、いかにも熱そうだ。
「昨日から徹夜で仕込んだ、新作のスープだ。お前が挽いたあの粉の風味を、絶対に殺さねぇ最強の味に仕上げてやった」
「で、でも、熱そうだし……」
「いいから飲め。そして、俺の麺が一番美味いって言え」
逃げられないと悟った穂波は、観念して小さく口を開けた。凱が慎重な手つきでレンゲを彼女の唇に運ぶ。
火傷を覚悟した穂波だったが、口に含んだ瞬間、驚きに目を見開いた。
熱くない。
いや、熱いことは熱いのだが、舌を刺すような暴力的な温度ではなく、旨味を最も感じやすい完璧な温度に計算されていた。荒々しい彼の振る舞いからは想像もつかないほど、その一口は繊細で、優しかった。
濃厚な豚骨のコクと、それを引き締める醤油のキレ。そこに、彼女自身が調合した小麦の香りが合わされば、どれほどの爆発力を生むか。調合師としての脳が、瞬時にその最高の一杯を弾き出す。
「……美味しい。すごく、美味しいよ凱。これなら、あの粉の個性に全然負けない」
「へっ、当たり前だ。俺を誰だと思ってんだ」
凱は満足そうに口角を上げると、レンゲを引き、そのまま空いた手の親指で穂波の口元をスッと拭った。
彼の指先は、熱を帯びていた。少しだけ荒っぽい、けれどどこか艶のあるその手つきに、穂波の心臓がドクンと大きく跳ねる。
「口の端、ついてたぜ。……やっぱお前には、俺のガツンとくる味が一番似合うな」
「も、もう! 自分で拭けるから!」
真っ赤になった顔を誤魔化すように、穂波は凱の胸板をポカポカと叩いた。しかし、彼にとっては仔猫のじゃれ合い程度にしか感じていないのか、低い声で喉を鳴らして笑うだけだった。
「やれやれ。相変わらず、君は野蛮で品がないね」
突然、厨房の入り口から冷ややかな声が響いた。
驚いて穂波が顔を覗かせると、そこにはトラットリア「ルーチェ」の浦涼真が立っていた。
純白のパリッとしたコックコートに身を包み、知的な銀縁の眼鏡の奥で呆れたような視線を凱に向けている。
「涼真! どうしてここに?」
「たまたま食材の仕入れで商店街を歩いていたら穂波さんと無粋な君の姿が見えたんだ。こんな油臭い空間に長居させたら、穂波さんの繊細な嗅覚が鈍ってしまうだろ」
涼真の言葉に、凱のこめかみにピキリと青筋が浮かんだ。彼は壁ドンしていた腕を下ろし、ゆっくりと涼真の方へ向き直る。
「あぁ? 誰の店が油臭いって? お前の気取った麺より、よっぽど魂が入ってんだよ。穂波も俺のスープが一番だって言ってたぜ」
「ふっ、笑わせる。君の料理は常に力任せだ。僕の完璧な技術が作り出すアルデンテこそが、千蔵屋の小麦を至高の芸術へと昇華できる。彼女の味覚を支配するのは、この私だよ」
「んだとコラ。もういっぺん言ってみろ、このすかし野郎!」
「事実を述べたまでだが? 君のような単細胞には理解できないかもしれないね」
凄腕の料理人として商店街でも一目置かれている二人だが、穂波のこととなると、途端に小学生の口喧嘩レベルまで知能が低下する。バチバチと火花を散らしながら言い合う二人の幼馴染を前に、穂波は深くため息をついた。
「もう、二人ともやめてよ。どっちの店も最高に美味しいんだから」
呆れ顔でそう言いながらも、穂波の心の中には確かな温かさが広がっていた。
自分の調合した粉を、これほどまでに愛し、真剣に向き合ってくれる職人がいること。そして、昔から変わらず自分を守り、甘やかしてくれる彼らの存在が、たまらなく嬉しかった。
「あのさ、二人とも」
ふと、穂波の口から何気ない言葉がこぼれた。
「湊の店の裏で、ちょっと面白いこと始めてるんだけど……見る?」




