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第5話 介抱

 店の裏手にある休憩スペース。使い込まれたソファに穂波を横たわらせると、湊はすぐに厨房へと向かった。白衣と前掛けを身につけ、まな板の前に立つ湊の顔から、先ほどまでの過保護なオカンの表情は消え去っていた。そこにあるのは、真剣な眼差しで粉に向き合うプロのうどん職人の顔だ。


「今日の絵神原えじんばら町は湿度が六十五パーセントだから、塩水は十八度に設定する」


 湊は長年の経験と研ぎ澄まされた感覚だけを頼りに、完璧な生地を打ち上げていく。太い腕から繰り出される力強い捏ねの作業。それはただ優しいだけの一杯ではない。彼女の疲労しきった胃袋に最も負担をかけず、消化吸収を助け、かつ最高の弾力を持つ「究極のオカンうどん」を、分単位の茹で時間まで計算し尽くして作っているのだ。千蔵屋の小麦のポテンシャルを誰よりも理解している湊だからこそ出せる、絶対的な安心感と技術の結晶だった。


 極上の鰹出汁の香りが休憩スペースに漂い始めた頃、お盆を持った湊が戻ってきた。


「穂波ん、少しだけ起きられる? 胃に何も入れないのは良くないから」


 身体を起こそうとする穂波の背中に手を添え、湊はごく自然な動作で彼女の頭を自身の太腿の上へと誘導した。


「えっ、ちょっと湊……いくらなんでも膝枕は」

「いいから。今は僕に甘えて。座ってるのも辛いでしょう?」


 逃げようとする穂波だったが、大柄で分厚い湊の身体にホールドされると、小柄な彼女はどうすることもできなかった。結局、店の裏のソファで湊による過剰なまでに過保護な膝枕が強制的に始まってしまった。湊は小鉢に取り分けたうどんを箸で巻き上げると、「フーフー」と自身の息で丁寧に温度を下げていく。


「はい、あーんして」

「もう子供じゃないんだから、自分で食べられるわよ……」


 赤面して抗議するものの、限界に近い身体は正直だった。逆らえずに小さく口を開くと、湊が絶妙なタイミングでうどんを運び込んでくる。口に入れた瞬間、その計算され尽くした柔らかさと、噛むほどに広がる小麦の優しい甘みに、穂波は思わず目を丸くした。出汁の旨味が、疲労した内臓にじんわりと染み渡っていく。


「……すごく、美味しい」

「よかった。昔、穂波んが風邪を引いた時も、こうやって僕のうどんを食べてくれたよね。あの時から、僕のうどんは穂波んを元気にするためにあるんだ」


 安堵した湊の温かい声と、心地よい膝枕の体温。それに抗う気力すら失い、穂波の意識は急速に深い微睡まどろみの中へと落ちていった。


 +++


「おい湊! 昼飯食わせろ!」


 ガラッと勢いよく裏口の戸が開き、大きな声と共に麺処「獣王」の伊乃草いのくさがいが飛び込んできた。黒のTシャツ姿で、荒々しくバンダナを巻いたいつもの野性的な出で立ちだ。しかし、凱は部屋に入った瞬間に足を止めた。奥のソファで湊に膝枕をされ、完全に無防備な寝顔を晒している穂波の姿を発見したからだ。


「はぁ!? お前ら、真っ昼間から何やって……!」

「しっ。寝てるから静かにしろ! 配達に来た彼女、過労でふらついたんだ」


 普段の温厚さとは打って変わった、湊の低く冷ややかな声が部屋に響く。一切の邪魔を許さないという強い意志を込めて睨みつけられ、凱はピタリと動きを止めた。凱は眉間に皺を寄せ、忌々しそうに舌打ちをする。


「……ちっ、どうせまた粉の仕事で無理したんだろ。相変わらず危なっかしい女だぜ」


 憎まれ口を叩きながらも、凱は自分が着ていた男臭いライダースジャケットを脱ぐと、ソファで眠る穂波の身体に毛布代わりにそっと掛けた。乱暴な物言いとは裏腹に、その手つきは驚くほど慎重で、穂波を起こさないように細心の注意を払っていた。


「おい湊、そいつに変なことしたら本気でぶっ飛ばすからな」

「君と一緒にしないでほしいな。僕は彼女の健康管理をしているだけだよ」


 バチバチと視線を交差させた後、凱は「昼飯は他で食う」とだけ言い残し、踵を返して店を出ていった。


 裏口の扉が閉まり、一人になった外の路地裏。

 凱は乱暴に頭を掻きむしり、大きなため息をついた。


「……なんで俺の店じゃねぇんだよ」


 誰にも聞こえない低い声で一人ごちると、苛立ち紛れに路地裏の壁をドンッと軽く蹴り上げた。

 自分が一番に穂波を助けてやれなかったことへの悔しさ。そして、自分の店ではなく湊の店で、あんなにも安心しきった寝顔を見せている幼馴染への強烈な独占欲。不器用な大型犬系男子の未練が、絵神原通りの空に虚しく溶けていく。


 一方、店内に残された湊は、凱のジャケットに包まれて眠る穂波の栗色の髪を、愛おしそうにゆっくりと撫で続けていた。


「早く元気になって。そしてまた、最高のブレンドマジックを見せてよ」


 三人の最強職人たちによる過保護な包囲網は、幻の小麦「黄金雪」の発芽テストという秘密の共有を経て、さらにその熱と密度を増していくのだった。

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