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第4話 秘密の実験

 翌日の朝。千蔵屋ちくらやの居間は、重苦しい沈黙に包まれていた。

 テーブルの中央に置かれた古いガラス瓶と日記帳を、穂波ほなみの父と祖父である弦蔵げんぞうが険しい顔で見つめている。


「絶対に駄目だ。お前は、あの時のことを忘れたのか」


 普段は温厚な父が、テーブルをドンと叩いて声を荒らげた。


「でもお父さん、私はもうアレルギーを完全に克服したし、今は調合師として――」

「そういう問題じゃない! あの日、コイツのせいでお前が呼吸困難になって、どれだけ苦しんだか……もう二度と、あんな危険な真似はさせない」


 祖父からそれを受け継いだ父は、一度解放した過去がある。しかしその時、それが原因で娘を失いかけた過去のトラウマが色濃く滲んでいた。両親にとって『黄金雪おうごんゆき』は、愛娘の命を脅かした恐怖の対象でしかないのだ。

 穂波は唇を噛み、助けを求めるように弦蔵を見た。しかし、食えない好々爺であるはずの祖父も、今日ばかりは目を閉じて首を横に振った。


「やめておけ、穂波。わしもかつて復活に挑んだが、あの粉は傲慢で扱いづらい。完璧な麺に仕立て上げられる『受け手』が今の時代におらん。結局は粉を無駄にするだけじゃ」

「そんなことない! 今の絵神原えじんばら町には、みなとがい涼真りょうまがいるわ!」

「……話は終わりじゃ。その瓶は蔵の奥に戻しておきなさい」


 取り付く島もない家族の態度に、穂波はガラス瓶を胸に大事に抱え込んだまま、居間を飛び出した。


 +++


 昼下がりの手打ちうどん「みなと亭」。

 仕込みの休憩時間、店の裏口にある小さなベンチで、穂波はしょんぼりと肩を落としていた。


「……それで、お父さんたちに大反対されたってわけか」


 藍色の作務衣姿の結城ゆうきみなとが、湯呑みに入れた温かいほうじ茶を穂波に手渡した。彼の大きな手が、穂波の冷えた指先をそっと包み込む。


「ありがとう。……湊のうどんみたいに優しいお茶ね」


 穂波が弱々しく笑うと、湊はタレ目がちな目を細めて優しく微笑んだ。


「僕の店は、穂波んの胃袋と心を癒やすためにあるからね。……でも、その『黄金雪』ってやつ、僕も打ってみたいな。穂波さんがそこまで惚れ込んだ粉なら、きっとすごいポテンシャルを秘めてる」

「湊……」

「お父さんたちの心配もわかるけど、諦めきれないんでしょ? だったら、試しに僕の店の裏で少し植えてみようよ。プランターなら隠して育てられるし」


 湊の提案に、穂波の澄んだ瞳にパッと光が戻った。


「いいの!? でも、すごく繊細な品種だから、まずは休眠打破の処理をしないと……」

「休眠打破?」

「何十年も眠っていた種もみだから、強制的に目を覚まさせるの。冷水で刺激を与えて、酸素をたっぷり送り込むのよ」


 さっそく二人は、店の裏手で秘密の作業に取り掛かった。

 湊が厨房から氷水を入れたボウルを運び出し、大きな手で不器用ながらも穂波の指示通りに種もみを浸していく。


「水温はこれでいいかな?」

「うん、バッチリ。あとは定期的に水をかき混ぜて、酸素を含ませるの」


 穂波は作業着の腕をまくり、真剣な眼差しでボウルの水を見つめた。親指と人差し指でそっと種もみに触れるその横顔は、一切の妥協を許さない職人のそれだった。

 傍らでその作業をサポートしながら、湊は無意識のうちに彼女の横顔に見惚れていた。


(昔から、粉のことになると周りが見えなくなるんだから)


 泥だらけになって遊んでいた頃からずっと変わらない、真っ直ぐな情熱。そして、幼い頃に彼女がアレルギーで苦しんだ時、見よう見まねで作った自分のうどんを食べて笑顔になってくれたあの日の記憶が、湊の胸の奥で温かく蘇る。


「……穂波ん」

「ん? どうしたの?」

「いや、なんでもない。絶対に芽を出させようね」


 不思議そうに振り返った穂波に、湊は誤魔化すように破顔した。

 彼女の情熱と努力を、何があっても一番近くで守り抜く。ボウルの中の冷たい水とは裏腹に、湊の心には確かな熱が宿っていた。


 +++


 千蔵屋ちくらや製粉所での重労働は、小柄で華奢な穂波ほなみの身体にはただでさえ負担が大きい。それに加えて、みなとの店の裏で内緒の「黄金雪おうごんゆき」発芽テストが始まってから数日。常にプランターの土の乾き具合や温度変化に気を配る日々は、確実に彼女の体力を削っていた。


 ある日の午後、配達で訪れた手打ちうどん「みなと亭」で、重い小麦粉の袋を運ぼうとした穂波は、急激な目眩に襲われた。視界がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちそうになったその瞬間。


「穂波んっ!」


 太く逞しい腕が、彼女の身体を力強く、それでいて優しく抱きとめた。


「湊……ごめん、ちょっと立ちくらみが」

「ちょっとじゃないよ。顔色が真っ白だ」


 厨房から勝手口に来ていた穂波を見ていた結城ゆうきみなとだった。彼は温厚なタレ目を心配そうに細めると、反論を許さない強引さで穂波の身体を持ち上げた。


「連日の無理がたたったんだ。今日はもう休まないと駄目だ」

「でも、まだ粉の配合が……」

「僕が親父さんに言っておくから」


 大柄な湊に半ば抱き抱えられるようにして、穂波は彼の店の奥へと連れ込まれていった。

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