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第3話 銭湯の誓い

 すっかり日が落ち、絵神原えじんばら通りのアーケードの明かりもまばらになった頃。

 商店街の路地裏に佇む昔ながらの銭湯『江神の湯』。古びた扇風機が首を振る湯上がり処のベンチで、三つの影が火花を散らしていた。


「……奇遇だな、お二人さん」


 手打ちうどん「みなと亭」の初日営業を終え、ひとっ風呂浴びた結城ゆうきみなとが、低い声で切り出した。濡れた髪を首にかけたタオルで拭きながら、番台で買ってきたよく冷えた瓶牛乳を三本、テーブルにコトリと置く。


「奇遇じゃねぇよ。お前らも、穂波ほなみの顔見たさに製粉所の前まで行った帰りだろ」


 麺処「獣王」の伊乃草いのくさがいが、Tシャツ一枚のラフな格好で首をゴキリと鳴らしながら鼻で笑う。湯上がりの熱気で、引き締まった筋肉質の腕には薄っすらと汗がにじんでいた。


「下品な言い方をするな。私はただ、今日のパスタの出来栄えについて、彼女に報告しようと思っただけさ」


 トラットリア「ルーチェ」のうら涼真りょうまが、仕立ての良いシャツの袖をまくりながら冷たく言い放つ。彼だけは湯上がりでも隙がなく、知的な銀縁の眼鏡の曇りをハンカチで優雅に拭き取っていた。


 三人は互いを鋭い視線で牽制し合った。

 今日、彼らはそれぞれの店で、穂波が調合した極上の粉を使って最高の麺を打った。そして、どこの店にも大勢の客が詰めかけ、大盛況のうちに初日を終えたのだ。


「で、どうだった? お前んとこの客の反応は」


 凱の言葉に、湊がふっとタレ目を緩める。


「完璧だ。穂波んの粉が俺の塩水と完璧に馴染んだ。あのうどんなら、彼女の胃に負担をかけずに食わせてやれる」


「お前は相変わらず過保護すぎるんだよ。俺の豚骨スープなんて、今日の粉の風味と合わさって最強だったぜ。穂波の胃は絶対に俺の武骨なスタイルが合ってるよ」


「君たちの料理は力任せすぎる。私の乳化技術こそが、千蔵屋の小麦のポテンシャルを最高に引き出せる。味覚で彼女を支配するのは私だよ」


 三者三様の主張がぶつかり合い、扇風機の生ぬるい風が吹く中で火花が散る。

 幼い頃から、穂波の隣を誰が歩くかで常に競い合ってきた三人だ。

 しかし、しばらく睨み合った後、湊がふっと息をつき、テーブルの上の栓抜きで瓶牛乳の王冠をシュポッと開けた。

 そして、冷えた二本を凱と涼真の前に滑らせる。


「まぁ、色々と文句はあるだろうが……」


 湊が自分の瓶を手に取った。


「とりあえず、無事に開店できたな」


 その言葉に、凱も涼真も少しだけ毒気を抜かれたような顔をした。


「……ちっ、今日だけは休戦にしてやる」


「君の奢りの牛乳で乾杯するのもしゃくだが、今日だけは特別だ」


 カチン、と分厚いガラス瓶がぶつかり合う重い音が三つ重なる。

 男たちは冷たい牛乳を喉に流し込み、揃って大きく息を吐き出した。

 互いの才能を誰よりも認め合い、そして、幼い頃から共に笑い合い励まし合い泣き合った一人の少女を、何があっても守り抜くという強固な絆で結ばれた同志たち。


「あいつを泣かせていいのは、俺たちの料理が美味すぎて感動した時だけだ」


 誰が言うともなくこぼれたその温かな誓いは、夜の賑やかな銭湯の喧騒に溶けていった。


 +++


 深夜。

 穂波は自室のベッドにうつ伏せになり、古い日記帳のページを夢中でめくっていた。

『黄金雪』。

 祖父の達筆な文字で綴られたその記録を読めば読むほど、彼女の調合師としての血が騒いだ。

 日記にはこう書かれている。


『中心部に強い弾力を生む性質、外層に滑らかな喉越しを生む性質を持つ二層構造のタンパク質。そして圧倒的な質の灰分。粉に挽けば、黄金の光を帯びた雪のように舞い散る』


「黄金の光を帯びた雪……」


 想像しただけで、鳥肌が立つほど美しい光景だった。

 しかし、日記の後半には苦悩の記録が続いていた。

 気候の変化に極端に弱く、少しの嵐で茎が折れてしまうこと。完熟から穂発芽までの期間が極端に短く、数時間の収穫の見極めを誤ると全てが台無しになること。

 そして何より、この傲慢で扱いづらい粉を完璧に麺にできる一流の料理人が、当時の祖父の周りにはいなかったこと。


『私には、この粉を活かしきる受け手を見つけることができなかった。ゆえに、ここに封印する』


 祖父の無念が、文字の端々から滲み出ているようだった。

 穂波は日記帳を閉じ、仰向けになって天井を見上げた。

 祖父には見つけられなかった『受け手』。

 でも、今の彼女にはいる。

 どんな粉の特性も優しく包み込む湊のうどん。

 強い粉の風味にも決して負けない凱のラーメン。

 粉のポテンシャルを緻密な計算で最高点まで引き上げる涼真のパスタ。


「……湊、凱、涼真」


 彼らなら、この黄金雪を最高の麺にできるかもしれない。

 胸の奥で、期待と興奮が熱く渦を巻いている。

 明日、湊の店に行ったら、この種もみのことを話してみよう。もしかしたら、興味を持ってくれるかもしれない。

 穂波は幻の小麦を復活させるという途方もない夢を抱き、ガラス瓶をぎゅっと胸に抱きしめて眠りについた。

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